■ 地方分権や参加型民主主義の逆を行く、国会議員>地方議員の構造
衆議院が解散になりました。それに伴い、最近会う人会う人に「選挙大変ですね」と言われますが、僕は全然大変ではありません。なぜなら僕は政党に所属しておらず、どの党・候補者も積極的に応援していないからです。
ところが、どうやら一般的には違うみたいです。来たるべき衆議院議員選挙に向けて、多くの地方議員がポスター貼りにご近所周りに、票の獲得に向けて大忙しです。先日、東京都議会が衆議院選挙に合わせて異例の会期先延ばしを行ったことも話題になりました。
国会議員選挙を東京都議会議員が支援して、東京都議会議員選挙を区議会議員が支援する。そして地方議員は、国会議員とのパイプがとにかく大事だと主張する。「いつか自分も国会議員に」と自らのキャリアパスを描く。これは東京のみならず、もはやどの地域にもある光景ですが、僕はここに今の政治の歪みが現れているのではないかと思うのです。
なぜなら、国会議員を頂点としたピラミッド型の構造は、地方を下、国を上に捉える発想だからです。細々とした市民の声を地方議員が集め、実質的な解決は国会議員に任せる。地方で何かがあれば国会議員にお願いにあがり、その議員の権力の強弱によって国の政策が決まる。だから、地方議員は全力で一人の国会議員を応援する−。そんな構造が、「地方のことは地方に任せる」、あるいは「自分たちのまちのことは自分たちの力でなんとかする」ことを目指す「地方分権」や「参加型民主主義」という多くの国の潮流とは逆の流れを生み出しています。
政権交代が起きても「あまり変わらなかった」原因の一つは、地方議員のナントカさんやその支援(利益)団体のナントカさんの意見が、国会議員がつくった改革案をことごとく否定していったから。国益より特定の組織の利益が優先されてしまう構造が変わらないかぎり、トップが変わっただけでは本当の意味での政治改革にならないのだということを、僕らは以前学んだはずです。
このままで、いいのでしょうか。
■ 国会議員と地方議員で異なる必要なスキル
僕が常々感じていること。それは国会議員に必要なスキルと地方議員に必要なそれは異なるということです。
国会議員の仕事は外交や防衛、国家財政など、どちらかと言うと抽象度の高いもの。地方ではなく国の代表者なので、地方への利益誘導に対する依頼は時には突っぱねる勇気も必要かもしれません。一方、地方議員に求められるのは、まちを良くする具体的なアイディアを考え、様々な立場の人たちとともに地域の未来を一緒につくっていく作業です。
理想は、地方議員がみんなの意見や能力を引き出し、調整するファシリテーターのような役割になることです。それは、「弱いリーダーシップ」とも言えます。参加者をポジティブなマインドに変え、みんなの知恵や能力を引き出すためにファシリテートすることで、ボトムアップ型の社会を促すのです。「1人の強い力よりも、1万人の知恵を引き出すほうが何倍も効果が出る」ということを信じ、市民、NPO、行政、企業、政治家がそれぞれの強みを活かしてフラットな立場で話し合い、プロジェクトを起こし、まちの課題を解消する環境づくりを目指します。
国会議員は抽象的に調整していく仕事なのに対し、地方議員は具体的につくっていく仕事...思い切ってそうやって分けてしまうのもあながち間違いではないと考えます。国会議員と地方議員に必要なスキルは異なっているのにも関わらず、地方議員が国会議員を目指すという構造はやはりいびつなものだと言えます。
■ 地方議員は本当に必要なのか?
では、国会議員>地方議員という構造がこのまま変わらなければ、今後どのような問題が生じてくるのでしょうか。
一番は、最大多数の無党派層や少数の「声なき声」の意見が国の施策に反映されづらいということです。(僕は政党政治を否定する立場ではありませんが、)有力な地方議員や首長を通じてのみ国に意見を届けられるというならば、政権与党に権力が集中し、野党や無党派などの意見は埋もれがちになることも事実です。国の財政が先細り、自分たちのまちのことは自分たちの力で何とかしなければ立ち行かなくなりつつある状況にも、今後対応できなくなるでしょう。
もう一つは、地方議員の役割が見えづらくなるということです。インターネットの技術などが発達して、国民の声を直接国会議員が聞けるようになれば、間に入るだけの地方議員は要りません。(まちのことを具体的に提案し、調整できる人だけが必要とされるのです。)幸か不幸か、地方議員が国会議員を応援すればするほど、自らの存在意義を危うくしているのです。
政治を支える組織のあり方や地方議員と国会議員の関係性、もっと踏み込んで言えば、政治の構造自体をガラリと変えなければならない時が来ているのかもしれません。これを機に、じっくり考えてみましょう。