「離乳食としては危険な、ハチミツを使った離乳食のレシピが掲載されている」「生肉を使った不適切なレシピも掲載されている」等でクックパッドが批判されているらしい。
【知名度のあるネットサービスに間違った情報が存在する=悪い】とみる以前に、そもそも、ユーザーが投稿しあうタイプのネットサービスにはついてまわる問題なのだろう。
2ちゃんねるに書き込まれた情報も、google検索で拾える情報も、クックパッドや食べログやYahoo!知恵袋に書かれた情報も、玉石混交という点では変わらない。
00年代には、インターネットにみんなの知恵を集めたら、素晴らしいものができあがるんじゃないかという期待が生まれた。いわゆる「web2.0」である。
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)
匿名の筆者が集まり、無報酬で優れた情報を提供していた昔の情報サイト*1を思い出すと、「web2.0」的な、みんなが知恵を出し合って集合知を耕していくインターネットを夢想したくなるのもわかる。そんな時代だったからこそ、『ウェブ進化論』は売れたのだろう。
でも、今にして思うと、それはネットがアーリーアダプターのものだった頃の風景であり、スーツを着た人々が「ネットビジネス」に本格的に乗り出す前の風景でしかなかったのだと思う。
ネットがレイトマジョリティにまで浸透し尽くし、スーツを着た人々が「ネットビジネス」にしのぎを削るようになってから、現実の「web2.0」がクッキリしてきた。
[関連]:嫌われるウェブ2.0 | 辺境社会研究室
上記リンク先の論旨とは少しずれるが、この件に関連したフレーズを引用してみる。
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ブロガーも、まとめ主も、クックパッドの投稿者も、自分以外の「他人」で、そうした他人の、少なくとも一部が質の低いコンテンツを作り、検索結果を占拠し、中にはお金まで貰っておいて、まわりに迷惑をかけている……それが平均的なネットユーザにとってのCGM(注:Consumer Generated Media)の現在なのではないか。
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インターネットを利用している大半にとって、現在の「投稿者」とは「他人」であり、しかもその一部はお金を稼ぎながら低品質の情報をまき散らしている……という認識は、そのとおりだと思う。さらに、
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ウェブ2.0が生まれ、CGMが持ち上げられていたときは、もっと明るい未来が約束されていたはずだった。これまでマスメディアだけが保有していた情報発信の力が一般人に開放され、ネットユーザに声が与えられることで多様な知識がオンラインに集まり、そこから集合知が生まれる……そう喧伝されていたものだ。
それなのに、結局のところ平均的なネットユーザは、Twitterで呟く以上の情報を発信しないままである。いまや集合知など誰も信じない。情報発信をしているのはごく一部で、それも金儲けのためが大半で、そのためにはヘイトでも炎上でもなんでもやる……そういう例が目立ってしまう状態が、CGMの顛末なのかもしれない。
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とも論じている。
たくさんのネットユーザーに情報発信の機会が与えられても、集合知の向上は起こらなかった。かわりに起こったのは、低品質な情報の氾濫、金銭収入のために量産される投稿の氾濫だった。
「人が集まれば集まるほど知恵が集積する」というのは間違いだった。現実は「人が集まれば集まるほど書き込みが溜まるだけ」でしかなかった。
そして、インターネットが研究者のものからギークやナードのものへ、アーリーアダプターのものへ、さらに「みんなのもの」へと変化するにつれて、溜まっていく書き込みの質に変化が訪れるのも必定だった。
今も昔も、インターネットには玉石混交の情報が混じっているから、個々人の情報リテラシーが問われているという点は変わりない。だが、低品質な情報があまりにも大量生産された結果として、
1.信頼できる情報を検索エンジンで拾う際に、今まで以上の工夫が必要になった
2.信頼できない情報にも、一定の需給関係が生まれるようになった
点が、00年代とは違ってきていると思う。1.については別の機会にゆずるとして、ここでは、2.についてもう少し述べる。
どうしようもない人が、どうしようもない情報を喜んで摂取している
インターネットには、間違った情報や「誰でも知っていそうな、どうしようもない情報」がたくさん存在する。それらは、発信者のどうしようもなさを反映していることも多い。
だが、それだけでなく、情報を受け取る側にも、そういった間違った情報やどうしようもない情報を受け取るニーズがあるから淘汰されずに生き残っている、という部分もあるだろう。
以前、どこかのブログでそんな文章を見かけたような気がして、頑張って探してみたら見つかった。これだ。
リンク先の主旨は、「つまらないブログ記事をソーシャルブックマークで称賛している人」についてだが、文中に、以下のようなくだりがある。
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以前「掃除をしたらきれいになりました」というような記事に「そうですね、掃除いいですね」とか「掃除をすると言う発想が素晴らしい!」とかそんなブコメがたくさんついているのを見て眩暈がしたことがあります。それを「お前らバカか?」とか「アクセス稼ぎのおべっかか?」とかそういう風に考えるのは簡単です。でも思ったのが、「この人たちは本当に掃除をしたらきれいになることを称賛している」ということです。
つまり、当たり前だけど見ている次元が違うんじゃないかということです。インターネットにはいろんな人がいます。掃除という行為について今更何を言うんだと言う当たり前な人もいれば、「掃除ってこうやってするんだ!」と目を輝かせて聞く人もいます。で、後者の意見が目立てば「掃除サイコー!」になるわけで。でもそうじゃない感覚の人からすると「掃除したくらいで何いい気になってるの?」となる。
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一般に、「掃除をしたらきれいになりました」という情報には値打ちは無い。大半の人は、そんな「お役立ち記事」を見かけたら「ネットのノイズ」とみなすだろう。
しかし、「掃除をしたらきれいになる」という事すら知らない人、掃除のハウツーが根本的に欠落している人からみれば、その記事は実際に「お役立ち記事」とうつるし、そこに需要が生まれる。
大半の人にはどうしようもないブログ記事でも、「お役立ち記事」としてのニーズが生じることになる。
「つまらないブログ記事をソーシャルブックマークで称賛している人」に関しては、“はてなブックマーク互助会問題”と呼ばれて論議されていた。これもこれで「web2.0」が辿り着いた現状を象徴しているので、興味のある人は以下のリンク先に寄り道してみて欲しい。
だが、私が気にしているのは、一昔前まではネットで需要が生まれにくかったはずの情報にまでニーズが生じていることのほうだ。さしずめ、残念な情報のロングテール消費とも言えるかもしれず、これもこれで「web2.0」的ではある。
残念な情報のロングテール消費は、どうしようもない情報を流通させるだけにとどまらない。冒頭で触れたハチミツ入り離乳食のような、有害な情報についても、ニーズがあれば供給が支えることになる。
こういう時に、まず「有害な情報を垂れ流した奴が悪い」と考えるのは尤もなことだが、たとえば「ハチミツ 離乳食 作り方」と検索するようなニーズがまず存在し、そのようなニーズがあってはじめて有害な情報がトラフィックとして成立していくという視点も、忘れてはならないと思う。
ニーズの無いところにはトラフィックは流れない。
だから、情報発信する側だけに責があると考えるのは、筋違いだ。
「残念な」インターネットは「民主的」でもある
『ウェブ進化論』で「web2.0」を語った梅田望夫さんは、その3年後の2009年、インタビューに答えて「日本のウェブは「残念」」と仰っている。あるいは梅田さんは、「Web2.0」がこうなっていく未来に気づき、諦めたのかもしれない。
だが、2017年を迎えてみると、「残念」になっているのは日本のインターネットだけではなかった。ポスト・ファクトなどという単語が流行り、大国の大統領選でデマサイトが問題になる程度には、海外のインターネットも順当に「残念」になっているようにみえる。
こうした現在のインターネットの風景を00年代の梅田望夫さんに見せたら、さぞ落胆するだろうし、00年代の私に見せたとしても落胆するだろう。
ただ、現状の「残念」なインターネットとは、ある意味において「民主的」でもある。現在のインターネットは、ハイブロウな人達の独占物でも、ナードやギークの独占物でもない。
検索エンジン最適化問題のような問題もあるにせよ、人間社会や世相を反映しているメディアという意味では、現代のインターネットほど実相に迫っているものはあるまい。
本当の意味でインターネットがみんなに普及し、あらゆるニーズに対応した需給関係が成立するところまで到達したからこそ、インターネットは、ガンジス川の畔のような混沌の相を呈するに至った。だとしたら、それを「残念」の一言で切って捨てて構わないのか?
もちろん、インターネットはハイブロウであるべきと考える人なら一刀両断だろうが、私は、自分自身がハイブロウな人間ではないことを知っているから、そこまで割り切れない。
*1:たとえば当時の2ちゃんねるまとめwikiや、一部のゲーム攻略wikiなど
(2017年4月11日「シロクマの屑籠」より転載)