デザインにはうるさい、筆者はそんな自負がある。普段の服装を見ている周囲の人がそれに同意してくれるかは大いに疑問だが、その問題は追々解決してゆくとして、デザインにうるさいつもりの筆者としては見逃せない展覧会が「デザインあ」展だ。
NHK・ETVで放送中の同名番組から派生した展覧会で、大学で教えているメディアアートに興味がありそうな学生にも勧めて来た。だが自分自身が観に行けたのは実は最終日。何度か立ち寄ろうと試みたのだが、いつも混雑していて諦めていたのだ。最終日に至って主催者側は午前9時に開場を繰り上げていたが、それでも入口前は長蛇の列。とはいえ、ここで見逃せば後がないと列に並んだ。
かくして観る側としては難儀な混雑だが、傾向としては結構なことだと思った。主催者口上によれば次代を担う子どもたちにデザインマインドを育てることが展覧会の趣旨だという。筆者なりに言葉を補えば、そこで求められているのはデザインの民主化であり、全方位化なのだと思う。
本当にデザインにうるさいかは不明だが、かつてグッドデザイン賞の審査員を5年間務めたことがあった。そこで感じたのはデザインという概念が痩せていることだった。グッドデザイン賞自体が産業振興の目的で設立されたことの限界もあったのだと思うが、商品としてうまくデザインされているか否かが評価の主軸で、今の社会に欠けているものをデザインで補ってゆく発想は(少なくとも当時は)相対的に希薄に感じられた。それが気になって審査会場では随分辛口の意見を述べたので、その意味で「うるさい男」だと思われていたかもしれない。
だが、そうした意見を開陳しつつ、筆者自身も実はその限界突破は容易ではなく、受け手の側の意識が変わらないとダメだろうと思っていた。その意味でデザインマインドを子供時代から養う挑戦には期待がかかる。たとえば社会をリ・デザインしてゆくことに自覚的な消費者が増えれば、彼らは消費行為を通じてであれ社会を変えて行くことに積極的に関わろうとするだろうからだ。デザインマインドが専門的職業人の独占物ではなく、市民社会で共有されてこそ個々の道具や商品のデザインが社会のリ・デザインに接続され得る。
そして、あらゆるもののデザインを全方位的に意識するようになって、むしろその限界に気づくこともあるだろう。天変地異の発生でも、価値観を同じくしない「他者」の登場でもいいが、自分で良かれと思ったデザイン=設計は必ず壁に当たる。
デザインあ展はそのシミュレーションの場にもなっていた。そこでは番組コンテンツを3D展開するだけでなく、来場者が遊びながらデザイン・プロセスにインタラクティブに参加できるような工夫があった。それこそ家族連れに人気を博して大混雑となった原因だったのだが、会場で遊ぶ子どもは、自分が良かれと思って作ったデザインを、他の子が崩してゆくこと、しかし、それが意外と面白い結果を生むことも経験的に学んだことだろう。その経験は個人の力による設計=デザインの限界を知らせ、それを越える要素を受け容れつつ、より良いものにしてゆくにはどうすればいいかという、いわゆるメタデザイン的な発想を育むのではないか。
そうした発想を身につけた世代は、予想外のリスクという未知の存在を意識しつつ、それを受け容れて乗り越えてゆけるような柔軟な社会を設計したり、そんな社会設計を支持することもできるのだろう。デザインとは自らの限界をわきまえて、それを超えてゆくために自らをデザインする「再帰的」なプロセスだ。こうした再帰性をいかに引き出せるようにデザインするかの検討が社会設計においては必要であり、デザインあ展を、そうした課題に応えようとした嚆矢と位置づけると、そこから開かれて見えてくる地平があるように思う。
(※このブログは、journalism.jpの2013年6月2日の記事の転載です)