現在の仙石線本塩釜駅周辺(宮城県塩釜市)の様子です。更地がめだっていますが震災前はここに自宅がありました。一帯は再開発事業の対象で震災の痕跡は消えつつあります。今回は敢えて、被災当時の宮城県塩釜市における状況、自分の行動を振り返ることにしました。防災を考える上で一助になればと思います。ただ、自分の被災状況は無数の被災者のなかでは、軽微な部類であったことも付記しておきます。
※この記事には津波の写真が含まれます。ストレスを感じる方は閲覧をお控えください。
長く激しい揺れ、津波襲来、そして無情の雪
2011年3月11日金曜日14時46分、その時は夜勤明けで自宅の4階にいました。塩釜市では震度6強を観測しましたが揺れの激しさはもとより、反復してくり返すタイプの揺れは初めての経験でした。
一回目の揺れが少し弱まりかけて、まもなく終わるであろうといった淡い期待感。その直後で襲った、二回目の長い激しい揺れは恐怖以外の何物でもありませんでした。死を覚悟した、と言っても過言ではないと思います。激しい揺れは合計3分前後だったそうですが、はるかに長く感じられました。
尋常ではない揺れ方から「津波」はすぐに意識しました。大津波警報を聞いてからかどうか記憶は定かでありませんが、揺れが収まるや否やただちに行動を起こしました。
買い物に出ていた母親を迎えに行こうと、玄関(建物の構造上、一か所しかない)を開けようとしたら、歪んで開かなくなっていました。幸い近所に来ていた運送会社の運転手の方が表からこじ開けてくれました。母親ともすぐに会うことが出来ました。
ただ、行き違いになる恐れがありますので、自分の行動が果たしてこれで良かったのかどうかは疑問です。冷静さを欠いていたのかも知れません。岩手沿岸などの言い伝えにありますが、切迫した状況下ではひとつでも多くの命を救うため、「津波てんでんこ」(※)が実際に求められます。
※津波てんでんこ:三陸地方に伝わる言葉で、大地震が起きたら一刻も早く各々が高台へ逃げなさい、という意味。
母親を近所の6階建てビルに避難させたあと、自分は父親と一緒に自宅に残りました。これは住居が建物の3階、4階部分にあり、多少の安心感があったからです。ただ、余震は間断なく襲ってきました。
停電により唯一の情報入手手段となったラジオを付けたままにしていると、地震後、30分後くらいから三陸沿岸に津波襲来の情報が次々と入ってきました。ただ、塩釜での自宅4階から見える運河の様子は、津波の気配すら感じられませんでした。
仙台湾一帯は水深が浅く、津波の速度は遅くなります。第一波到達予想時刻は仙台湾で「15時40分頃」という予報が出ていたという話をのちに聞きましたが、なぜか当時の記憶にありません。聞きもらしたのかも知れませんが、それよりも「宮城県15時00分、すでに到達したとみられる」の情報ばかりが頭に残り、「もしかしたら来ないかも知れない」との意識がよぎりました。
自分自身もいわゆる「正常性バイアス」に陥っていたように思います。「15時00分」の情報が先行し、津波の経験がほとんどない仙台湾一帯での人的被害拡大の一因になったとするのは考えすぎでしょうか。
津波の襲来は、本震から約1時間10分後、15時55分頃でした。真っ黒い濁流が、まず、運河伝いに突入してくるのが見えました。近隣のビルの屋上に避難している人に向かって「津波だ!!!」と叫んだのを覚えています。まだ、表を歩いている人もいて、津波に気づいて慌てて逃げる様子も見えました。
次の瞬間には、海側から延びる道路に沿って、一気に水があふれ出していきました。この時、とっさにカメラを取り出して撮ったのが二枚目の写真です。襲来から2、3分程度しか経っておらず、あっという間のことでした。
最初はちらつき程度だった雪が津波襲来とタイミングを合わせるかのように降り方が強まっていきました。写真を撮影した16時頃はまだ積もっていませんが、30分くらいで泥水に浸かった家々の屋根はあっという間に白くなり、気温は急激に下がっていきました。
この日、東北地方の上空5200m付近にはマイナス40度前後といった強い寒気が流れ込んだ影響で、被災地である太平洋側でも広い地域で雪が積もり、冷え込みが強まりました。津波からいったんは助かった多くの命がこの雪と寒さで奪われました。まさに「無情の雪」となりました。
暗くなってサーチライトが所々で見え、人を探す声も聞こえました。水が引いたようでした。ただ、暗闇のなか、外はがれき等で危険との判断からこのまま自宅の4階にとどまることにしました。
夜は天気が回復し降るような星空となりました。もちろん東北全域に及んだ広域停電の影響です。あの夜の星空は生涯忘れることはないでしょう。一方、仙台港ではコンビナート火災が発生し(直線距離で約5km)、妖しい光が見えていました。時折爆発音も聞こえていました。余震は間断なく続き、一晩じゅうまるで船に揺られているかのようでした。
基地局が被災して携帯やインターネットは使い物になりません。唯一の情報入手手段となったラジオを聴きながら、途方もない巨大災害が起きたのだという認識をおぼろげながら持ちつつも、これは本当に現実なのかと自問自答し眠れぬ夜を過ごしました。大昔見た映画「日本沈没」の一シーンを思い出していました。
泥との格闘
翌日以降も避難所へは行きませんでした。ただ、自宅では電気、水道、ガスのライフラインがすべて復旧するまで半月かかっています。特に水の問題は、周囲の衛生状況と相まって深刻な状況にありました。
泥との格闘がしばらく続きましたが、ロクに手足も洗えません。感染症の恐怖から、買い出しの際、食糧のほかに「消石灰」を探し出してきて、自宅周辺に大量に撒きました。効果があったかどうかはわかりません。また、風の強い日は街中に乾いた泥の粉末が巻き上げられて、しばらくはマスクが手放せませんでした。
そして家は不同沈下のため、扉が勝手に開いたり、ボールが転がったり。お風呂の湯も見た目で傾いているのがわかるレベルでした。結局、自宅は「全壊判定」になりましたが、平衡感覚がおかしくなるような状況で約三か月暮らしました。
震災から5年のいま、災害に備えてわたしたち、みんなのできること
2011年東北地方太平洋沖地震による津波は、東北の太平洋側を襲った規模としては、869(貞観11)年以来、約1100年ぶりとされています。まさに千年に一度の大災害だったといえるでしょう。ただ、日本海溝沿いには地震の空白域がまだ残っているため、次が千年後であるという保証はどこにもありません。
また、日本各地には、将来、巨大地震の発生が懸念されている地域は南海トラフ沿いをはじめ多数あります。起こらないにこしたことはありませんが、今回の震災を教訓に日本列島に暮らす我々は「次に」備えなければなりません。また、災害の記憶を風化させることなく、次の世代に語り継ぐ(残す)ことが、この時代を生きたわれわれの責務ではないでしょうか。
最後は、仙台市若林区荒浜の現在です。
土台だけが残った集落の約10km先には人口108万の仙台の街並みが見えています。仙台市では震災後、沿岸部からの移住者により人口の一極集中がさらに進みました。ただ、災害危険地域に指定された地域では、いまだに荒涼とした風景が広がっています。
【関連リンク】
気象予報士
仙台市在住
耳にはさんだ赤鉛筆は「競馬オヤジ(爆)」を連想させますが天気図を解析するためのものです。誤解のなきようお願いします(笑)
休日は飛行機や鉄道の写真を撮っています。
たまに成田や羽田などに遠征することがあります。
長距離ドライブをかねての温泉めぐりも趣味のひとつです。
いい歳ですが(笑)、気ままな独身生活を送っています。
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