ひさしぶりのTatsumaru Timesへの寄稿記事です。
今回は、パリノメモというブログを運営している、パリ在住のジュロウさんからです。
今話題になっている日本社会に蔓延する「差別」について、実体験を踏まえて書いていただきました。
「差別の意図はなかったらいいのでは?」そう思っているあなたに届けたい。
元記事はこちらから読むことができます。
2016年10月10日に起きた、南海電鉄の車内アナウンス差別発言疑惑事件について、ネット上で論争が続いています。
事件の概要は以下の通りです。
南海電鉄の40代の男性車掌が10日午前、車内アナウンスで「日本人のお客様にご不便をおかけいたします。多数の外国人のお客様が乗車しており、しばらくの間、ご辛抱願います」と話していたことがわかった。(中略)車掌は「難波駅を出発する前、『外国人が多くて邪魔』という男性客の大声を聞き、トラブルを避けるために放送した。外国人を差別する意図はなかった」と話しているという。
2016年10月11日13時01分 南海電鉄車掌「外国人に辛抱を」不適切として口頭注意 | 朝日新聞デジタル
車掌が悪いだの、クレームを出した人が大げさ過ぎるだの、今回の件についてネットユーザーたちの意見は割れています。
ただ、「日韓ハーフ」のぼくとしては今回の件においてどっちが悪いかなんかはどうだっていいんです。事件の直後に車掌が言い放った「差別する意図はなかった」の一言に、ひたすらゾッとしただけです。
日韓ハーフとして24年間生きてきて、本当に嫌だった記憶がフラッシュバックしてしまったからです。
ところで、ぼくは誰?
今回の話を始める前に一応ぼくのアイデンティティを紹介しておきます。
ぼくは、日本生まれ日本育ちの父と、韓国生まれ韓国育ちの母の下に生まれた、日本生まれ日本&韓国育ちの日韓ハーフです。
生後3ヶ月の赤ん坊の時から日本と韓国を往復しまくる人生が始まりました。中学2年生になるまで、1,2年置きに日韓を往復し続ける生活をしていたため、その時点でのアイデンティティは本当に半分半分でした。
その後、中学・高校・大学をストレートで日本で過ごしたため、大人になった今、ぼくのアイデンティティは完全に「日本人」です。
言葉はどちらもネイティブだけど、日本語は110%、韓国語は90%といったところでしょうか。外国人にしては韓国語がうますぎて、韓国人にしては韓国語の表現がちょいと変なので、韓国のタクシーの運転手に「酔ってるんですか?」と言われたことがあります。
彼女の一言:「私、韓国人と付き合ってるんだ...!」
自分のことを日本人だと思っているそんなぼくにとって、日韓ハーフとして日本文化を生きることは、ちょっぴりと辛いものでした。
韓国が大好きだという日本の女性と交際をしていたことがあります。ごくごく普通のデートを終えて、二人で駅に向かおうとしている時の会話の最中、「私、韓国人と付き合ってるんだ...!」と嬉しそうな口調で言われました。
そう、彼女にとってぼくは韓国人だったわけです。
傷心を通り越して無心になりました。
自分は自分のことを日本人だと思っているのに、自分のパートナーは自分のことを韓国人だと思っている、この気持ちを想像してみてください。
虚無です。
とはいえ恋愛は仕方ない、誰にだってそういう一面はあるはず...!ぼくのことをわかってくれる友人さえいてくれれば大丈夫...そう信じました。
他にもこんなことがありました。日本人の友人を連れて、多国籍の人が集まる食事会に参加したことがあります。自己紹介で「I'm Japanese」というと、日本人の友人が「No, he's not Japanese !!」と嬉しそうに訂正してくれました。どうやらぼくが日韓ハーフであるということを紹介したかったらしいですが、笑顔で放たれた「He's not Japanese」の音が未だに鮮明に蘇ります。
もはやぼくは「日本人じゃない」らしい。
意図しない差別が一番つらい
「おまえは日本人じゃない」
怖い顔をしてそう言われたほうがまだマシだったかもしれません。そこまで本気で言われれば、「日本人」の定義について考えさせられて、案外納得してしまう可能性だってあります。その人が韓国が嫌いで嫌いでたまらなくてそう言ってきたのなら、殴り合ってでも分かり合うか、あるいはその本気さを尊重して関係を断つことも選択肢になるでしょう。
でも、そういうストレートな差別ではなくて、純粋な顔をして「韓国人でしょ?」あるいは「日本人じゃないでしょ?」と言われると、ぼくにはもう成す術がありません。
そんな無邪気な顔をしてぼくのことを「非日本人」扱いしてくると、決して届くことのない無限の距離を置かれた気持ちになります。どこまで距離を縮めようとも、彼らにとってのぼくは「違う人間」以上にはならないからです。
彼らに決して「差別の意図」はありません。そんなことはわかってます。みんないい人でした。でも、彼らは無意識のレベルでぼくに色眼鏡を向けているのです。それは、「意図しない差別」以外の何ものでもないとぼくは思います。
彼らは善意でやっていても、彼らの言動は、対象者を勝手にカテゴライズして、勝手に判定する行為に確実につながっているのです。
なぜ日本では意図しない差別が起きるのか?
南海鉄道の車掌は、「差別の意図はなかった」と言っています。じゃあなぜ「外国人」という言葉を選んだんでしょう。「旅行者が多くて」や、あるいはシンプルに「車内が混雑していて」でもよかったはずです。
というか、現場の混乱の原因が日本人旅行者や、あるいは山岳部の学生たちであったのならば、絶対にこれらの言葉を使ったはず。それなのに南海鉄道の車掌は「外国人」という言葉を選びました。なんで?
それにはやっぱり「外国人=日本社会とは相容れない人」という無意識の判断があったのではと、「日本人じゃない」らしいぼくは思っています。
なんでそういう意識が生まれるのかを考えたとき、その原因はやはり日本が内輪で生きる島国だからということにつながると思います。異国の人と接する機会があまりにも少なすぎるのです。
だから、外国人は色物になる。
白黒の国で白黒の人間同士だけで生きていて、とつぜん色物が紛れ込んできたら、そりゃあ異物扱いをしてしまいます。たとえ「差別の意図はなかった」としてもです。
でも、さすがにそろそろこの考え方はヤメないとマズいのでは...?
東京オリンピックや、クールジャパン、観光、移民問題や難民問題、外国から日本に人が流入する原因を挙げればキリがありません。どんどん外から人が入ってくる。そこで生まれた出会いをきっかけに、ぼくのようなハーフの子だってどんどん増えていきます。
その時に備えて、この辺でちょっと色物を受け入れてあげられる姿勢作りをしましょうよ。
もちろん、たとえば陸続きのヨーロッパなんかと比べれば、圧倒的に異国と触れ合う機会が少ないのは仕方がないことです。だって島国だもん。
でも、もう時代が違うんです。
海外の情報はネットでいくらでも取得できるし、海外に直接出向くことも、もはや簡単なことです。確実にみんなもうわかってる、これからのグローバル社会の発展を前に、異国の人と対話をして、理解をして、理解をさせるという努力をしていきましょうよ。
電車の中でも、「ご辛抱願います」じゃなくて、「旅行者の皆様、荷物が邪魔にならないよう配慮お願いします」と、外国人との対話を試みる人が一人でもいれば何も問題は起きなかったんじゃないでしょうか(まぁ、英語が必要ですが義務教育の科目に英語があるんだからこのくらいはなんとか...)。
色物だから言っても伝わらないと思ったんですか?同じ人間ですよ?「電車の中で他人に配慮しない行為を日本人は良くは思わない」、そう伝えれば絶対尊重してくれますって。
日本を捨てて外国に同化しろとは思わないけど、日本を開いて外国を同化させてあげるスタンスに、そろそろなったほうがいいのではないでしょうか。
「これは私たちからの警告です」
(https://pl.wikipedia.org/wiki/Pomnik_Walki_i_M%C4%99cze%C5%84stwa_na_Majdanku)
ポーランドにあるマイダネク強制収容所って知ってますか?
マイダネク強制収容所は、アウシュビッツと同様の絶滅収容所です。ここで、35万人以上の収容者が虐殺されました。まさに世界の負の遺産といえるでしょう。
ポーランドに行ったとき、ぼくはこの収容所に実際に寄ってみました。
収容所を訪れると、妙に大きな霊廟(上の写真)があって、少し見づらいかもしれませんが、中央にポーランド語で大きな文字が刻まれていました。
「LOS NASZ DLA WAS PRZESTROGQ」
一体なんて書いてあるのかとガイドブックで調べてみたら、身の毛がよだつほどゾワッとしました。
「これは私たちからの警告です」
最初は何を言っているのかわかりませんでしたが、徐々にその意味を理解することができました。
というのもこの言葉、35万人以上が虐殺されたという事実を決して忘れぬよう、後世への強いメッセージを伝えようとしているのです。
とくにゾワッとしたのは「警告」という表現です。少なくともぼくには「歴史は繰り返しますよ」っていう逆説的なメッセージにも見えてしまったからです。差別の果てに起きたこの人類の負の歴史はまた繰り返されるだろうから警告しておくねって、ぼくにはそう伝わったのです。
いやいやそんな日韓ハーフの小話や車掌の失言だけでホロコーストの話を持ち出して何をそんなに大げさな......と、そう言われそうですね。
その通りです。ぼくが話を飛躍させすぎです。歴史的背景や経緯も違うし、客観的に見ればなんの論理性もありません。
ぼくはプロのジャーナリストでも研究者でもありません。ただの一人の個人です。
でも、ぼくという一人の個人は「意図しない差別」を受けた経験のある日韓ハーフとして、マイダネク強制収容所のこのメッセージから、たしかに何かを感じ取りました。
それだけは誰にも否定できない揺るぎない事実なのです。
寄稿者プロフィール
ジュロウ。(@Parisnomemo_)1992年生まれの日韓ハーフ。早稲田大学卒業後、フランス政府給費留学生としてソルボンヌ大学の修士課程に在籍中。フリーで執筆・通訳・翻訳をする傍ら、「フランス移住」と「ブログ」の相性の良さに目をつけて、個人ブログ「パリノメモ」を運営中。
ジュロウさん、ありがとうございました。
ぼくもこの事件について議論しているニュース番組をみました。そこでは「差別の意図はなく、その上で謝罪もしたからそれでよし、終了!」と発言していた人がいました。
しかし、もう少し「差別を受けた側」の人のことを考えることはできなかったのでしょうか。自分の中の潜在的な「差別意識」に自覚的であることの重要性を伝えることもできたのではなかったでしょうか。
このことについてフランス人女性と同性結婚をした牧村朝子さんはこのように述べています。
傷つけちゃった相手じゃなくて、自分自身の保身に走る。「差別の意図はなかった」っていうアレは、まさにそれにすぎない。
「いじめじゃなくてかわいがり」
「パワハラじゃなくて愛情表現」
「虐待じゃなくてしつけ」
「暴言じゃなくていじり」
このへんの延長線上に、「差別の意図はなかった」がある。これらはみんな、「自分はこういう気持ちだったんですぅ」っていうアピールに走り、「傷ついたならごめんね☆」と謝るフリをしながらも相手のせいにする態度であると、私には思える。
「 差別の意図はなかった」っていうアレ、絶滅熱望
その上で、「差別なんてものは意図して行われるわけがなく、むしろ自分の中の差別意識に無自覚だからこそ、「意図していない」からこそ起こるものなのだ。意図してやるのは、ただの悪口だ。 」としています。
ジュロウさんの身に起きたのは、まさにこの通りなのです。
自分が発したが独自の意味を添えた言動がどう受け取られうるのかについて、十分な想像力を働かせることはできないものでしょうか。
※この記事はTatsumaru Timesに投稿されたこちらの記事を転載しています。
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