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改憲に突き進む安倍政権のもとで、これから景気はどうなっていくのか? 対抗する左派・リベラル派は何をすべきか? 人気の経済学者による経済予測と「勝てる」提言、新刊『この経済政策が民主主義を救う』(大月書店)から「はじめに」を公開。自由を守る最後のチャンス、あきらめるのはまだ早い!
2015年の9月中旬、日本では安全保障関連法案をめぐる攻防が大詰めを迎え、国じゅうが反対運動に揺れました。
安保法制そのものの危険性を語ることは、専門家に任せることにします。私でもわかることは、戦後長く続いた憲法解釈を決定的に踏み越えるたくさんのことが、強引に、大急ぎで進められたということです。世論の多数派が一貫して反対していることを、あえて無視して。
立憲主義の原則や正常な議会制民主主義の手続きを無視したのもさることながら、露骨な報道統制の動きや反基地運動への不当逮捕など、安倍政権の政治体質が誰の目にもあらわになったことだと思います。
そうです。問題は安保法制だけではありません。安倍政権のもとでは、やはり世論の反対を無視して特定秘密保護法がつくられ、大学の教授会自治を否定して学長専断を規定する法律がつくられました。武器輸出を原則禁止していた「武器輸出三原則」は撤廃されました。安倍さんは、かつて核兵器の保有は違憲ではないと言い、今回は自衛隊を「わが軍」と言いました。
10年前の第1次安倍政権時代には、教育基本法も変えられて、「愛国心」が盛り込まれ、男女共学規定が削除されています(安倍さんはジェンダーフリー教育を攻撃するのに熱心でした)。当時は、行為がなくても犯罪にされる「共謀罪」も法制化しようとしました。
安倍さんという人は、旧日本帝国の侵略や慰安婦問題を歴史教育でとりあげることを批判する運動を担ってきた人です。アメリカ政府のあからさまな意向をも無視して、A級戦犯が祀られている靖国神社に参拝した人です。女系天皇にも反対です。
そしてその政治信条の筆頭にあるのは、もちろん改憲です。総裁選でも国会でも明言しています。それは単に9条を変えたいという話ではありません。戦後の日本国憲法をトータルに否定して、それに替わる憲法体系をつくりあげたいと思っているのです。
当初それをもくろんで、まず憲法改正要件を定めた96条をゆるめる改憲から始めようとして、反対が多くてひっこめたのですが、決してあきらめたわけではありません。これは、安倍さん本人が尊敬してやまないおじいさんの岸信介元首相の夢でもあります。
現在の自民党が掲げる憲法改正草案は、まさに安倍さんの理想どおり、今の日本国憲法をトータルに否定するものです。それはまずもって、近代の立憲主義や社会契約説的な国家観――個人が先にあって、その自由と人権を守るために国家というものをつくろう、そして国民が国家権力を縛るために憲法があるのだ、という構え――の否定の上に成り立っています。逆に、国家がまず先にあって、国家が国民に義務や道徳を指示するためのものとして憲法を位置づけているのです。
「個人としての尊重」が「人としての尊重」に変わり、国民の義務が大幅に増えています。人権制限の条件である「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えて、人権相互の衝突に限らない、誰の人権のためでもない「公益」のために人権を制限できるようにしています。
SEALDs(シールズ)の学生を「利己的」と中傷した当時自民党の武藤貴也議員はその後、以前ブログで、日本国憲法を支える三原則(国民主権・基本的人権の尊重・平和主義)は「日本精神を破壊するもの」と書いていたことがとりあげられて問題になりましたが、本人にしてみたら、なぜ今さら叩かれなければならないかわからなかったでしょう。自民党の改憲案の精神は、まさにこのとおりなのですから。
今日の普通の先進国の政治原則は、世の中には多様な価値観をもつ個々人がいるものであって、それをつなぐルールとして人権がある、というもののはずです。これが自由な社会というものです。安倍さんたちがめざしているのは、この原則を根本的に否定し、一国の国民を一つの共通の価値観でまとめて、忠誠を誓わせるものです。これを世界標準では全体主義と言うのです。軍隊が世界に出ていける「普通の国」になったとき、日本は政治原則のうえで「普通の国」ではなくなっているのです。
だから安倍さんは、安保法制ぐらいで終わることはないのです。
そもそも安保法制自体、実際に使っていくならば、やっぱり改憲しないとどうしようもないものだと言われます。自衛隊員が海外で微妙な殺傷行動をしたとき、軍法会議もなくてやっていけるのか。国内でテロが頻発して、非常事態規定がなくて済むのか。ひょっとしたら、安倍さんはそこまで見越していたのかもしれません。安倍さんにとって安保法制とは、アメリカ様の意向に沿うように見せかけておいて、実は改憲のための手段だったのかもしれません。
そしてこの本では、「アベノミクス」と銘打って遂行されている経済政策もまた、安倍さんの野望実現のための手段だと見ています。選挙のときに好景気を実現して圧勝し、あわよくば改憲可能な議席数を確保するための手段です。もしそうならば、「アベノミクスはお金持ちや財界や金融資本のためにやっていることで、すぐに破綻する」というような見方をしていたら、足をすくわれることになります。選挙のときに最も効果的に好景気になるように、政策のタイミングを計っているとしたらどうでしょうか。
2015年の夏、日本中で盛り上がった老若男女のデモの嵐は、まがりなりにも言いたいことが言えたこの戦後の世の中を守りたいという、人々の意思の現れだったと思います。
私の父母の世代、人生の先輩たちが、70年前、焼け野原の中で復興を決意し、空腹を抱えて一生懸命働き、平和憲法のもと、戦前のような社会に戻そうとする政府のときどきの動きをなんとかくいとめながら、一片の領土も侵すことなく、一人も戦争で殺すことなく、丸腰で世界の人々に頭を下げ、世界の人々のお役に立って繁栄を築いてくれた、このまがりなりにも自由で平和な戦後の世の中を守りたいという願いの現れだったと思うのです。
この声をさらに広げ、安倍さんの野望をくじくためにはどうすればいいでしょうか。
この同じ2015年9月中旬、ユーラシア大陸を挟んだ西の反対側の島国でも、こちらに負けないくらい熱い大衆の盛り上がりが見られました。
5月の総選挙で敗れて辞任したイギリス労働党党首の後任を選ぶ選挙で、最左翼の古参議員ジェレミー・コービンさんが、約6割の得票を得て圧勝したのです。
当初コービンさんは、冗談としてしか扱われない泡沫候補でした。しかし、ブレないガチ左翼の主張に若者が熱狂し、たくさんの労働組合も支持を表明しました。
最初はコービンさんのことを笑いものにしていた党の重鎮たちも、やがて大慌てしはじめ、トニー・ブレア元首相などは「自分のハートはコービンの理念と共にあるなどと言うやつは、心臓の移植手術を受けろ」と言って火に油をそそぎました。猛反発をくらうのは当たり前です。なにしろブレアさんこそ、1990年代に「第三の道」と称して、新自由主義とどこが違うのかよくわからない「小さな政府」路線に労働党を導いた張本人でしたから。
そうです。世界の新自由主義の元祖、保守党政権のもとでの緊縮路線で、イギリスの庶民、特に若者は、福祉も教育の機会も、雇用の機会も奪われて、のたうちまわってきた......それなのに、それに替わる選択肢と言えば、保守党を多少マイルドにしたような労働党しかなかったのです。結局、お金持ちや大企業の顔色をうかがって、庶民のためにおカネを使うことを渋ってしまう。こんなことだから、極右に流れる若者も絶えなかったのです。
コービンさんは、そんな労働党しか知らない若者に、本来、左派政党というものは何を掲げるものかを、はじめて知らしめたのです。若者たちは、ようやく自分たちの望みが言葉になっていることを、そこに見出したわけです。
ではコービンさんの掲げている政策とはどんなものでしょうか。「核ミサイル更新反対」「シリア爆撃反対」「大学授業料無料化」「緊縮財政反対」「鉄道国有化」「10ポンドの最低賃金」「毎年24万戸の公営住宅建設などの公共投資」等々があげられています。
ではその財源をどうするかということで、掲げられているのは、「高所得層の所得税率引き上げ」「企業の税軽減の縮小と補助金の削減」「企業の課税逃れの捕捉」等々。そしてそれと並び、目玉になっているのは......
「人民の量的緩和」!
「量的緩和」というのは、中央銀行がたくさんおカネを出す、金融緩和政策のすごいやつのことです。コービンさんは、中央銀行であるイングランド銀行がつくったおカネを原資にして、住宅やエネルギー、交通、ハイテクのインフラ投資をするというのです。
実は、これはコービンさんだけの奇矯なアイデアではありません。この本の中でくわしく紹介しますが、EUの共産党などの集まりである欧州左翼党も、スペインで大躍進中の新興左翼政党のポデモスも、ギリシャで総選挙に勝って政権についている急進左翼連合も、EUの労働組合の集まりである欧州労連も、みんな同じ主張を掲げています。財政赤字が問題になっていながら、反緊縮路線を唱えることに説得力があるのは、中央銀行の緩和マネーを使うという手を打ち出しているからなのです。
アメリカでも、民主党の大統領候補選びで、これまた最左翼候補の社会主義者バーニー・サンダースさんが躍進し、大本命ヒラリー・クリントンさんに迫っています。このサンダースさんがウケているのも、格差批判などの主張とあわせ、「5年間で1兆ドル(120兆円!)の公共投資」などの反緊縮政策を掲げていることによるのです。
そうです。「左翼」というものは、搾取され虐げられた民衆のためにある勢力だということを忘れてはいけません。新自由主義の緊縮政策に苦しめられてきた民衆が望んでいるのは、政府が民衆のために潤沢におカネを使い、まっとうな雇用をつくりだすことです。その資金は、おカネのあるところから取ればいいし、それでも足りなければ無からつくればいい! それが今、左翼の世界標準として熱狂的に支持されている政策なのです。
そう考えれば、安倍さんの暴走にストップをかけるために野党側が掲げるべき政策は明らかです。日銀がおカネをどんどん出して、それを政府が民衆のために使うことです。
あれ? しかしこれ、どこかで聞いたことないですか。金融緩和と政府支出の組み合わせ。
そう。いわゆる「アベノミクス」の「第一の矢」と「第二の矢」ですね。「そんなことしたらハイパーインフレになる」「財政破綻する」「庶民の生活はよくならない」などと言われていて、日本の左派・リベラル派の間では印象が悪い政策ですよね。
でも、そういえば、世界の名うての大物左派・リベラル派論客が、「アベノミクス」を高く評価するような発言をしていました。アメリカのリベラル派ノーベル賞経済学者のポール・クルーグマンさんやジョセフ・スティグリッツさん、インド出身のノーベル賞経済学者アマルティア・センさん、フランスの人口学者エマニュエル・トッドさん。『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)がベストセラーになったトマ・ピケティさんも、「安倍政権と日銀が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい」と言っています。
しかし、この本でくわしく見ますが、これらの論客の誰も、「第三の矢」の規制緩和路線や、消費税増税や、「第二の矢」のこれまでのおカネの使い道をほめているわけではないのです。これらの論客が支持しているのは、金融緩和と政府支出の組み合わせという枠組みだけです。
安倍政権の景気政策は、当初公共事業が大盤ぶるまいされていた間は景気が拡大しましたが、いつのまにか財政緊縮になって、おまけに消費税増税までやり、さらに中国発の世界経済の変調で、本書を執筆中の2015年後半時点では、パッとしない状態にあります。
しかし、安倍さんの目的が改憲のために選挙に圧勝することにあって、景気がその手段だとしたら、これからまた適当なタイミングで財政支出をつぎこんでくることは充分考えられます。それが安倍さんの思惑どおりの成果を生まないと言い切れますか。
安倍さんは2015年9月24日に「アベノミクス第2ステージ」を打ち上げました。今後、2016年7月の選挙に向けて、追加的な財政出動として具体化していくことが予想されます。
もし私たちの側が次の選挙で安倍さんの野望にストップをかけたいならば、長い不況の間に新自由主義「改革」に苦しめられてきた民衆の願いに応える政策を打ち出すほかありません。それは、躍進する欧米左翼の政策にならうことでしかないでしょう。もしそれをしないならば、安倍さんが私たちの側のお株を奪って、またまた民衆の支持を集めてしまうのではないでしょうか。
この本では、こうしたことについて、くわしく検証していくことにします。
松尾匡(まつお・ただす)経済学
1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。
(2016年1月25日 「SYNODOS」より転載)