こんばんは、おときた駿@ブロガー都議会議員(北区選出)です。
昨日の記事で(また)ミスをやらかしてしまいまして、
訂正・謝罪と記事の取り下げを行いました。
なんだか毎回のように謝ってばかりいる議員だと思われそうですが、
他に比べて10倍くらい切り込んだ質と量で情報発信をしておりますので...
なんてのは、言い訳にならないことは承知しています。
改めまして、誠に申し訳ありませんでした。
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これだけ色々とやらかしていると、
「もうそのレベルになると、なんとも思わないんですか?」
「素直に間違いを認められて、ある意味では偉いですね!」
なんて言われるんですが、
正直なところ毎回めっちゃ悔しいし、すっごいモヤモヤしてますよ。
いろんな意味で。
もうぶっちゃけて言えば、たとえ致命的な間違いを指摘されても、
まずはなんとか自分を正当化する道を探そうと悪戦苦闘します。
「これは〇〇だから表現上は仕方なかった、自分は悪くない」
「ある部分は誤りだけど、全体としては間違いとまでは言えない」
とか、いろんなロジックを探し出して訂正・謝罪を回避しようとします。
それでもダメなら、しれっと記事やSNS発信を消して逃げる道を考えます(本当)。
でもそれって、何も生み出さないどころか、誰にとってもマイナスな行為ですよね。
間違いで傷ついた人がいるケースもありますし。
忸怩たる思いをぐっと堪えて、長い時間をかけて書いた文章を消去し、謝罪と訂正文を出す。
そこまでに至るには毎回、強い葛藤があります。
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でもね、私が政治の世界に入って最初に感じたことの一つに、
「どうして政治家って、自分の誤りを認められないんだろう??」
ということがあったんです。
間違いをなかったことにしたり、秘書のせいにしてみたり、
自分を正当化して開き直ったり...。
反面、そうした政治家たちの気持ちも今ならわかります。
以前に官僚が自らの過ちを認められない「無謬性神話」について書いたことがありましたが、
実はこれ、政治家にも同じようなことが当てはまるんです。
人々は政治家に、多くのことを求めます。
「公人なんだから、清廉潔白で正しいのが当然だ」
「議員なのに、そんなこともわからないのか!」
こうした厳しい目線に晒される政治家たちはやがて、
そのプレッシャーから自らの過ちを認められなくなるのです。
また一方で政治家・議員はその立場上、
「叱ってくれる」「諫めてくれる」存在を失いがちです。
子どもであれば親が、生徒であれば先生が、
組織人であれば上司が過ちを正し、指導をしてくれます。
しかしながら全員が一国一城の主である政治家たちは、
そうしたメンター的存在を自分の上に戴くことはありません。
その結果、役人や支援者に過ちを指摘されたとしても、
「そんなことはわかっている、口出しするな!」
「俺の方がこの分野については、一番よく理解してやっている」
という頑なな態度を取ってしまいがちになります。
間違いを犯してはいけないという期待・プレッシャーと、
間違いを指摘する存在を持てない立場。この二つが相まって、
政治家というのはキャリアを積むほど意固地な存在になっていくのですね。
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しかし、誰もがわかっているはずです。
政治家とて人間であり、その能力には限界があって、間違いを犯す存在だと。
意固地になったベテラン政治家たちが、どれほど間違った政策決定をしてきたかを。
開き直るようで申し訳ないですが、政治家なんて不完全なんです。
私だってにわか知識で発信した政策分野ならともかく、1年以上も取り組んできた
社会的養護の分野ですらミスを犯して、穴があったら入りたい気分でいっぱいです。
それでも自らの過ちを認め、修正し、前に進むことを拒否してしまったら、
この世の中を変えることは何一つできません。
政治家は成長し、また周りに育てられるものだと、私は思います。
思ってても自分で言うなと言われそうですけど(!)、
そのように公言する以上は、常に謙虚に過ちを認められる人間でなければいけません。
まずは認め、政治家のレベルを知ってもらうこと。
そこからスタートして、私は皆さまとともに成長し、
少しでも政界と社会の改善に貢献していく誓いを新たにしたいと思います。
以上、壮大な反省文(?)でしたが、
私が謝れない政治家になったら強く叱って欲しい次第です。
今後とも何とぞよろしくお願いいたします。
良い週末をお過ごしください。
それでは、また明日。
(2015年11月6日「おときた駿公式ブログ」より転載)