フランスの経済学者トマ・ピケティが昨年出版した『21世紀の資本論』は、この春英訳されると一気にベストセラーとなって大きな論議を巻き起こしている。そこで私も読んでみることにした。ただし600ページ近い大冊なので、第一部の理論編だけを丁寧に読み、第二部の歴史編と第三部の未来編は、ティボーによる要約本を参考にしながら斜め読みした。以下はその感想である。
ピケティによれば、資本主義社会(ひろくは市場経済社会)には、二つの不平等性/不均等性(inequality)がみられる。その第一が、富(と所得)の分配の不平等性である。(ピケティ自身の表現ではないが、それは、富(と所得)の「ベキ分布」と呼ぶことができよう。)その第二は、資本の収益率(r)と経済の成長率(g)との間の不均等性(r>g)である。ピケティは、前者は基本的に後者に由来すると考えているようで、後者に徹底的にこだわっている。
その際にピケティが注目しているのは、2つの基本指標、すなわち、資本分配率(資本所得が総所得に占める比率)(α)と資本・所得比率(β)である。「理論編」は、この2つの指標の値を決定している関係-ピケティのいわゆる「資本主義の2つの基本法則」-の説明にあてられている。
ピケティのいう「第一基本法則」とは 「資本分配率(α)は、資本所得の総所得(Y)に対する比率であり、資本所得自体は資本の総額(K)と資本の収益率(r)の積(rK)として表される」という関係である。すなわち、
第一基本法則: α= (rK)/Y = r(K/Y) = rβ
と書ける。しかし、この関係式自体は、ピケティ自身も認めているように、資本分配率の単なる定義式であって、「法則」と呼ぶようなものではない。
「第二基本法則」は、資本所得比率(β)の値が長期的に固定ないし安定するための条件であって、そのためには、それは経済全体の「貯蓄率(s)と成長率(g)の比」に等しくなっていかなくてはならない。貯蓄率(s)とは、総所得(Y)のうち、消費されずに貯蓄(S)に回される部分、すなわち資本の増加分(ΔK)の総所得に対する比率である。他方、成長率(g)は、総所得の増加分(ΔY)の総所得に対する比率である。したがって、
第二基本法則: β⇒ s/g = (S/Y)/ (ΔY /Y) =ΔK /ΔY
となる。しかしもともとβ= K/Yなのだから、この関係式は、「平均値(この場合はK/Y )が固定ないし安定するためには、それは限界値(この場合はΔK /ΔY )に等しくなくてはならない」という数学的には自明の条件を示すものに過ぎない。したがってこれまたとくに「法則」と呼ぶにふさわしいものではない。
ところでピケティは、事実上貯蓄のすべては、資本の所有者によって資本所得(rK)の中から行われると考えている。そして資本の所有者は、資本所得の一部は当然消費するだろうから、資本所得のなかから貯蓄にまわる部分(S)は、S =ΔK < rKとならざるをえない。したがって、貯蓄率 s = S/Yの方も、s < (rK)/Y = αとならざるをえないことになる。だとすれば、貯蓄率(s)がゼロあるいはマイナスの値をとることも、決してありえない話ではない。貯蓄も成長もゼロという「定常状態」も当然考えられる。産業化以前の人類社会では、むしろそれが「正常」な状態だったのだろう。
それはそれでよい。問題は、第一部でのこのような議論と、第二部以降での議論との整合性である。まことに奇妙なことに、第二部以降では上に見た「第二基本法則」あるいはその不可欠な構成要素としての「貯蓄率(s)」への言及はどこにも見られない。私が参照したティボーの要約本にいたっては、「第二基本法則」もそのものが姿を消してしまっている。ピケティが収集した膨大な歴史的統計データにも、β ⇒ s/g =ΔK /ΔYの値の長期的な変遷については何も言及されていない。示されているのは、β= K/Y の値の変遷だけである。
その代わりに頻繁に登場するのが、本書の冒頭で指摘されていた、「資本主義に見られる第二の不均等性」にあたる、資本の収益率(r)と経済の成長率(g)との不均等性(r>g)である。ピケティは、本書の第二部以降では、「第二基本法則」を形作っていた、貯蓄率(s)と成長率(g)との間の関係について、その不均等性(s >g)をいう代わりに、こちらの不均等性にもっぱら注目している。しかし、これははなはだミスリーディングなアプローチといわざるをえない。資本主義社会(ないし市場経済社会)では、前者の不均等性(r>g)はほぼ一貫した歴史的事実として観察されるにしても、そこから後者の不均等性(s >g)を理論的に導くことはできない。そのことは、未来予測についての著者の説得力を著しく弱めていると私は思う。
20世紀までの歴史に関するかぎり、経済や人口の成長や、富と所得の分配の平等化という面では、20世紀が人類史上まったく特別な時代だったという著者の指摘には大いに頷けるものがある。20世紀の終わりごろから今日にかけての時代が、19世紀の終わりごろから第一次大戦直前にかけての「ベル・エポック」と呼ばれる時代と類似しているという指摘にも、もっともなところがある。私の解釈だと、後者が「第二次産業革命」の「成熟局面」にあたる時代なのに対し、前者は「第三次産業革命」の「成熟局面」にあたる時代だったとみられるからである。しかし、私のような解釈が妥当だとしたら、21世紀のこれからの時代は、かつての第二次産業革命の「突破局面」への移行期に似た特徴を持つ、第三次産業革命の「突破局面」への移行期になるはずだ。さらにいえば、「産業革命」を超える「ソーシャル革命」としての「第一次情報革命」も、いま「突破局面」に入りつつある。
そうだとすれば、21世紀の人類社会は、低成長と物価の安定、および富の分布の不平等化の拡大(ないし固定)によって特徴づけられる、「普通の」時代に戻るかもしれないというピケティの予測は、にわかには受け入れがたい。その前に、20世紀の後半以降に起こっている、「第三次産業革命(デジタル革命)」や「第一次情報革命(ソーシャル革命)」のような社会変化の意味するところを、より深く考えてみたい。その如何によっては、21世紀は、人類史上のもう一つの特別な時代となる可能性があるからである。