日本人は「努力の消耗戦」によって追い詰められていく

「がんばる」というのは本来主観的なものなのに、なぜか相対的なものとして見られている日本社会。

努力消耗戦が繰り広げられる日本社会

ブラマヨ吉田さんが、人工透析患者に対して「がんばらずに助けてくれという甘えは通じない。がんばってもできないときはじめて他人が助けるべきだ」という主張をしていました。

これに関して、こんなツイートをしました。

たくさんのリアクションをいただいたことからもわかるように、日本は努力の有無を判断基準にするので、それによって追い詰められている人が多いんです。

「がんばる」というのは本来主観的なものなのに、なぜか相対的なものとして見られている日本社会。いくら自分が「がんばってる」って言っても、ボロボロになるまで死力を尽くさないと「がんばっている」と認められません。

その結果、日本各地で不毛な「努力消耗戦」が繰り広げられています。

吉田さんの主張がすべてまちがえているとは思いませんが、「がんばること」を尺度にしてしまうと、多くの人間が不幸になります。

ボロ雑巾になってはじめて認められる「努力」

日本人の多くは、「努力」や「忍耐」、「苦難」という言葉が好きですよね。「とりあえずがんばる」「もっとがんばればどうにかなる」という根性論がいまだに根付いています。

そういった根性がステップアップに繋がるときもあるし、自分を鼓舞して踏ん張るべきときだってあります。「努力」を重視することが絶対に悪いとは言えません。

ただ問題は、努力を基準にしたことによって消耗戦になってしまっていることです。

知識や能力が足りていない人に無茶振りをして、思い通りに動かなければ「努力不足」と罵ってその人の責任にする。長時間労働により身体的な不調を訴える部下にも、「やる気があれば休む必要はない」と言ってしまえば、休む=怠慢のレッテルを貼れる。

「努力すればどうにかなる」という精神論は、かんたんに他人を追い詰めることができるのです。

では、「がんばったと認められるのはいつか」という話になると、それは「もうがんばれなくなったとき」です。

過労死してはじめて「がんばってたんだね......」と同僚が声をかけ、イジメに耐え切れず自殺した子どもの話を聞いて「苦しんでたんだね......」と涙を流す。

ガムシャラになって擦り切れるまで「努力」してボロ雑巾みたいにくたびれて、もうどうにもならない。そんな極限状態になってはじめて、「がんばったね」と認められるんです。

ブラマヨの吉田さんが主張している「努力をせずに助けを求める人を許せない」という考えの人は、少なくありません。たしかにその気持ちも理解できます。

ですが、「もう努力できないから助けを求めている人」や、「極限状態の一歩手前にいるからもうがんばるべきではない人」だっているのです。

努力基準で「助ける」「助けない」、「認める」「認めない」を決めるのは、そういった人をさらに追い詰めます。

日本人は努力神話を信じすぎている

日本には「がんばればできる」という努力神話が根付いているので、それが発展して「みんなが出来ることが出来ないのは甘えだ」という主張もまかり通ってしまっています。

たとえば、未だにアレルギーや精神病を「甘え」だと言う人がいます。いくら科学的に説明しても、その人たちにとってアレルギーは「甘え」であり、精神病による休職は「怠慢」でしかないのです。

さらに、「多くの人はがんばっているのに努力をやめることは逃げである」という考えのもと、「みんながんばってるのに休むなんてズルイ」という発想になり、「努力しないやつは助けなくていい」という結論になってしまう。

がんばりすぎて休息や手助けが必要な人が「甘えてる」と理解される社会は、厳しすぎませんか。

努力なんて主観の問題

努力というのはそもそも、他人が推し量るようなものではありません。

偏差値50→60にアップした人と、60→65にアップした人、どっちの方がより努力しましたか? そんなもの、比べるものじゃないですよね。比べられるものでもありません。

それなのに日本では、なぜか努力は「他人が評価するもの」だと理解されています。

努力は他人が評価するものじゃない

わたしはドイツに住んでいるので、よく「じゃあドイツ語話せるんだー!」と言われます。はい、たしかに話せます。でもそれは、必死で努力した結果です。

毎日神経すり減らして授業を聞き取って、頭をフル回転しながら話して、移動時間や隙間時間があればすかさず単語や文法を暗記していました。

留学中のドイツの大学での授業では満足できず、実費で語学学校に通って、それで話せるようになったんです。

それなのに、「海外にいるんだから現地の言葉を話せるのは当然だ」と言わんばかりに、わたしの努力は無視されます。

自分は学校で英語の授業を受けたにも関わらず英語を話せないのを棚に上げて、「現地にいれば勝手に話せるようになる」と思い込んでる。

他人からの努力の評価なんて、その程度のものなのです。

努力の量や精度は人それぞれなのに、なぜ努力を「測れるもの」だと思ってしまうのでしょう。

努力して仕事の効率化を図って定時に帰る人と、ダラダラと残業して仕事を終わらせる人。努力してるのは前者なのに、後者の方が「がんばってる感」があるので評価されることもあります。

「自己犠牲の多さ=努力」という考えでは、多くの人が疲れ果てていくだけです。

努力は、他人が推し量れるようなものではありません。それなのに「努力基準」にしてしまうから、大勢が追い詰められるのです。

努力を認めてもらおうなんて無意味だ

ブラマヨの吉田さんとしては、「努力してないやつが手助けを求めるのは筋違い」なんでしょう。

確かに、言いたいことはわかります。

でも努力してるかどうかなんて、他人は評価できません。そもそも「努力を認める」だの、「誰々は努力してない」なんて議論は無意味なんです。

努力せずに甘えたい人は、甘やかせばいいじゃないですか。そんな卑怯者は、どこにだっています。でも「努力してないから助けない」と言ったら、努力してるのに認めてもらえない人も突き放すことにもなります。

そもそも、だれが「努力しているかどうか」を判断するんでしょう。「自分が認めた人以外は助けない」ということなんでしょうか。

さらに厄介なのは、助けを求める側は「努力している証明」ができず、「もっとがんばれる」と言われたら反論できないことです。それは不公平です。

努力を基準にすると消耗戦が続くだ

なんでもかんでも、「まずは努力してから」「限界になったら助ける」みたいな努力基準は、もうやめませんか?

努力して結果を出せる人もいるし、出せない人もいます。努力しないで結果を出せる人だっています。人によって能力やポテンシャルはちがうのです。

それなのに「努力したかどうか」という基準で評価しても、まったく意味がありませんし、多くの人を追い詰めるだけです。

「もっと努力できるから助けません」なんて言っていたら、助けが必要な人はボロボロになって初めて支援を受けられることになります。

そんなこと言っている間に、その人が首をくくってしまったらどうするんですか。

がんばったかどうかじゃなくて、その人に手助けが必要なら手をさし伸ばしてあげればいいだけではないでしょうか。そもそも、そんなにギリギリまで努力する必要性、正当性はどこにあるんでしょう。

ギリギリまで追い込まれながら働いてる人が多い日本では、努力しない=甘えという考えになるのもわかります。

ですがそんなこと言ってたら、廃人になるまでがんばるしかない、消耗戦社会になります。そして、多くの人が不幸でい続けることになります。

もっと「しんどい」「辛い」「がんばれない」と堂々と言えるようになり、「それなら助けが必要だね」と手を差し伸べられる風潮になれば、生きづらさを感じる人が減るのではないでしょうか。

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