先日、わたしの友人が、飼っていた烏骨鶏を絞めて、食べたと聞いた。
ただ育てていた烏骨鶏ではない。
名前をつけて、部屋の中で肩や頭に乗せて、一緒に新聞を読んだり、毎日のように写真や動画を撮って、可愛がっていた烏骨鶏だ。
わたしはショックを受けた。
狩猟をしていると、野生動物への様々な感情と出会う。
猟師さんたちは、自分が生きてきた山で生きている動物たちを、戦友のように扱うことがある。
動物たちに畑を荒らされる農家さんや駆除目的で猟をする人たちは、憎さや怒りをエネルギーにして、動物たちと闘っている。
それぞれが、生きてきた環境の中で、自然と湧き出た感情だろう。
その一方で、私は、どうだろう。
動物たちの可愛さにドキドキしたり、神聖さに息が苦しくなることもあれば、時に恐ろしくてたまらなくなることもある。死ぬことに怯えた動物の凶暴さは時に残酷で、可愛さとは程遠い。
私には、直接的な被害も、共に生かされ生かしてきた感覚もなく、ただぼんやりと自然や動物への畏怖の念があるだけだ。
死んだばかりの動物は、体温や身体の柔軟性を保ったまま、だらんとした意志のないカタマリになる。
お腹の中には、まだ血を含んだ温かい心臓があって、胃の中には細かくなったドングリや葉っぱがある。数時間後には排出されるはずだった消化物も、長くて太い腸をパンパンにしている。
でも、もうなにひとつ機能していない。
解体していくと、動物たちが生きてきた時間を少しだけ共有することができる。
先日獲れたイノシシは片目が白濁していて、失明しているみたいだったし、横腹には大きな傷の痕があった。
昨年末に獲れた鹿には、肋骨に不自然に太く変形した部分があって、猟師さん曰く、骨折した痕らしかった。
そんな厳しい自然の中で生き延びてきた動物たちが、致命傷を負う瞬間の呆気なさを目の当たりにすると、自分という生き物の無力さを痛感せずにはいられない。
無力な動物たちは、生きるパワーと生かされるパワーの狭間にのみ、存在していけるのかもしれない。
友人の烏骨鶏は、生きていたのだろうか。生かされていたのだろうか。それとも、生かしていたのだろうか。