個人が集まる社会も矛盾が多いものだが、国が集まった国際社会は、より深刻な矛盾だらけだ。アメリカの矛盾は、世界最強の核兵器保有国でありながら、一方で「核なき世界」を掲げているという点だ。
1970年に核不拡散条約(NPT)が発効した後、アメリカは表面的には、日本のNPT早期批准を促しながら、水面下では批准を遅らせようとする二重の態度を見せた。歴史的な中国訪問を1カ月後に控えた1972年1月、日米首脳会談でニクソン大統領は佐藤栄作首相に「批准は時間がかかっても構わない」と述べ、「潜在的な敵国を心配させるようにするのがよい」と理由を説明した。日本の核武装の可能性を残しておくことが、中国との交渉で有利だという計算だった。
2014年には、南太平洋の島国マーシャル諸島が核兵器を保有する9カ国を国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。核保有国が、核軍縮のため誠実に努力すると約束したNPT第6条を順守していないという理由だった。オバマ大統領は2009年のプラハ演説で、「核なき世界」を訴えてノーベル平和賞を受賞しておきながら、マーシャル諸島の提訴に対しては、裁判を拒否する立場を固守している。
日本の矛盾は、唯一の核兵器の被爆国として核廃絶に並々ならぬ関心を見せながら、現実的にはアメリカの核の傘に安全保障を依存している点だ。佐藤首相は「非核3原則」を打ち出した功績で1974年にノーベル平和賞を受賞したが、日本が「非核」の美しい理想を掲げることができたのは、あくまでもアメリカの核抑止力による安全保障のおかげだった。
さらに、日本がアメリカの核軍縮の努力に問題提起したこともあった。2009年、戦術核の搭載が可能なトマホーク巡航ミサイルを退役させようとするアメリカに、日本が再考を求めたとする報道に波紋が広がった。アメリカの一方的な核軍縮で「核の傘」が弱体化することを憂慮した日本が、これを防ぐためにロビー活動を行ったという。
核廃絶の理想が実現するまでは、核抑止力に安全保障を依存しなければならない国際社会の厳しい現実から決して逃れることはできない。オバマ大統領も「プラハ演説」で、「核なき世界」という目標は、おそらく自分が生きている間に実現は難しいだろうと率直に認めた。
しかし、こうした抑止力の側面を強調するばかりでは、現実は管理できるかもしれないが、未来を切り開いていくことはできない。「夢想家」と批判されようと、誰かが平和と核廃絶の理想を声高に語らなければならない。プラハ演説でノーベル平和賞を受賞したが、以後7年、核軍縮の明確な成果もなく、自分の任期末を飾るために広島を選んだに過ぎないとオバマ氏を批判するのは簡単だ。しかし、一方的な軍事力の行使を自制し、「核なき世界」を叫ぶ、この悩み多き指導者がいるから、歴史の小さな進歩も期待できるのではないだろうか。
原爆を投下した国、アメリカの現職大統領が被爆地・広島を訪問することは「ハムレット型人間だ」と嘲笑されるオバマ氏でなければ不可能なことだ。ドナルド・トランプ氏もヒラリー・クリントン氏も、彼の後継者の座を狙う候補者は、自分がハムレットではない、断固たる強力な指導者だと強調することに余念がない。彼らが率いる世界は一方的な強硬論が勢いを得やすいが、核廃絶と広島訪問を前に苦悩する指導者の姿を見いだすのは難しいだろう。
オバマ大統領の広島訪問は、果たして日本に免罪符を与えるだろうか? 私はそうは思わない。アメリカの大統領が広島を訪問して犠牲者を称える「道徳的優位」は、日本の戦争責任を上書きするどころか、日本に大きな負担となるだろう。靖国神社参拝のような安倍政権の歴史修正主義的な逸脱行為は今後さらに難しくなるだろう。広島訪問を終えたら、安倍首相が真珠湾を訪問し、率直な謝罪をするかどうかに関心が集まるだろうし、その後はアジアに対しても誠実な態度を取るかが焦点になるだろう。
問題は韓国だ。私たちは、果たして核兵器のない世界という目標を深く切実に考えているだろうか。北朝鮮の核の脅威にさらされている韓国の立場からすると、非核化の問題は切迫した課題であることは間違いない。しかし、これはあくまで安全保障レベルで抑止力のバランスに悩んでいるからであり、核兵器の非人道性という、より根源的な問題意識とは遠い。そのため、トランプ氏が在韓アメリカ軍撤収を言い出すと、すぐに核武装を、といった話があまりに簡単に登場するのだ。
韓国社会にも核武装論への批判がないわけではないが、北朝鮮に非核化を要求する大義名分がなくなり、米韓同盟に支障をきたし、原子力発電をはじめとする実利的な面で損害が大きいという現実的な主張がほとんどだ。オバマ氏の広島訪問を加害と被害という面でばかり見てはならず、戦争や平和、そして核兵器と人道主義というレベルで深く考察する機会となることを願う。
この記事はハフポスト韓国版に掲載されたものを翻訳しました。