排外主義とささやかな希望

師走の衆院選挙が行われる。この度の衆院解散には、思想や政治的立場を超えて眉をひそめる人が多いようである。「伝家の宝刀」も安易に抜くと重みがなくなる。

師走の衆院選挙が行われる。この度の衆院解散には、思想や政治的立場を超えて眉をひそめる人が多いようである。「伝家の宝刀」も安易に抜くと重みがなくなる。議席数とは別の面で政局にいかなる結果がもたらされるか、はっきりしたことはわからない。

この2年間、一部の政治家と排外主義団体が密接な関係にあると、たびたび取りざたされてきた。実際には政治家のサービス活動の一環にすぎないのかもしれないが、それによって団体の活動に「ハクがつく」、承認欲求が満たされるという一面は見逃せないだろう。

最近、警察庁が2014年版「治安の回顧と展望」を公にした。それによると、今年1〜10月の間に、排外主義的活動を行う「在特会」をはじめ、右派系市民グループが行ったデモは全国でおよそ110件。来年もこうしたデモにともなう「違法行為の発生が懸念される」と記される(朝日新聞、2014年12月4日付)。

およそ110件という数が、多いのかどうか。欧米に比べれば「まだ」ましという指摘もあるだろう。排外主義団体やネットの書き込みを中心としたヘイト・スピーチはかまびすしいが、それがヘイト・クライムへ発展することは「まだ」少ない。警察庁が上記のような「懸念」を報告していることは、マイノリティとしては勇気づけられるところもある。

それでも、「こんなハズではなかった」との思いは、多くの良識派に共有されているのではないか。欧米では、極右団体の政治活動が先鋭化してきたが、この国では大丈夫だ。そうなるハズがない......。ここ数年、その自信はもろくも崩れ去った。たとえば「在特会」は、公称では15,000人ほどの会員を持つ。ネット上での影響力を加味すれば、決して少なくない数だと筆者は思う。

時代の閉そく感を打破するためにも、何かをチェンジしたい。山崎正和が「変革願望症候群」の一例として考察したのは、「無邪気な自称改革者の興奮と自己陶酔」にひたる「維新の会」だった(『大停滞の時代を超えて』)。だが、今やそのお株は排外主義団体に奪われている。

排外主義団体の「わら人形論法」(自己都合の解釈に従いつつ相手を責め立て、味方を増やすこと)は、功を奏している。たとえば、彼らが在日コリアンの「特別永住」権は特権以外の何ものでもないというのだから、よくわからないがそれは特権なのだろう......と、陶酔と憤激は人びとに伝染する。

いわば"ヘイト・ワード"の器用なつむぎ手が、ネットでも、ストリートでも目立っている。鋭利な刃をそなえる言葉が量産され、拡散する。感覚がマヒするくらい、その光景は日常化している。"ヘイト・メーカー"たちは、さしずめ我が世の春といったところか。いや、人びとがゾッとしてくれないと心はみたされない。だから、刃はいっそう研ぎすまされ、鋭さはいや増すばかりとなる。

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「現代の大停滞の性質を正しく理解するかぎり、この時代を過ち少なく生き延びるための方法は明白だろう。いたずらな焦燥を捨てて当面のさまざまな破綻を繕い、現に少しずつ実現されている微調整を正しく認めてそれを慶賀することである。じっさい落ち着いて現実を観察すれば、停滞のなかでも着実に進んでいる小さな改善の物語は少なくない」。(山崎、同上)

変革、改革、チェンジ。こうしたビッグ・ワードに身をささげるよりかは、ささやかな「改善の物語」を積み重ねるという地道な日常に目を向けてはどうか。山崎は上掲書で、このように提案していると筆者は受け止めている。

思えば、「改善」というのはこの国のお家芸ではなかったか。"Kaizen"として海をわたった輸出英単語の雄ではなかったか。筆者なりに山崎の問題提起を引き受けてみるに、「ヘイトな日常」を改めるのに一助をなすのは、「向こうさんは、本当にヘイトなゲス公なのか?」と立ち止まらせる言葉と記憶なのではないかと思う。

日本の人びとと在日コリアン。それが憎しみに満ち満ちた近現代史を織りなしてきた、ということは絶対ないはずである。恋も愛もあった、友もあった、恩師もあった、弟子もあった、つるんだ、励まされた、救われた。我々は、侮蔑と裏切りにだけ染まった戦後を生きてきたのではない。

今こそ、このことに思いをはせる必要はないだろうか。このままでは、ニュアスンスに富んだふくよかな記憶が、ヘイト・ウェーブの前に泡と消えてしまう気がしてならない。

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ときおり、在日コリアンの友人から、「おまえは日本人を信頼しすぎる」と批判されることがある。筆者はラッキーだったかもしれない。すばらしい人びとに恵まれたから。だとすれば、信頼「しなさすぎる」より「しすぎる」ほうがよい。

東京は江戸川区で、しょうもない家に育った。劣等感と相対的剥奪感、すなわち俺はこんなみじめな人生を送るハズではなかった、悪いのはほかにいるという被害意識のかたまりだった父は、今でいうDVの権化(ごんげ)だった。根拠なき不貞をうたがわれた母は、何度か頭をバリカンで刈られた。それでも、近所の人びとは優しかった。みな日本の人だった。

まだ7、8歳だった頃、三つ上の姉と二人、父に家を追い出された。玄関を出る際、キッチンでは包丁をはさんで父と母が対峙していた。「今回も刺すことはないだろう」と、子どもながらわかっていた。父、あるいは母が相手の胸元に包丁を突きつけ、先っぽで小さく傷をつけ、軽く流血を見て、出来レースのごとく終わるのが毎度だった。

冬の夜道は寒かった。みじめすぎて、泣けてきた。あてもなく歩きまわった。姉はチック症を患っていたから、ひっくひっくけいれんしながら泣き、僕の手にもその震えが伝わってきた。20分ほど近所をさまよっていた頃だと思う、山下(仮名)のおばさんが声をかけてくれた。柔和な彼女の顔は、救いだった。あぁ助かったと思いつつも、恥ずかしい気持ちのほうが大きかった。

山下さん家は、おばあちゃん、お父さん、おばさん、娘さん二人で住んでいたと思う。ごろつきの父は近所でも知れていたから、姉と僕の彷徨の事情は察してくれた。すぐに僕らを返すのでなく、ゆっくりしていって、と一家総出で心配してくれた。自宅から徒歩3分圏内のシェルターだった。

山下さんは、ホットミルクをふるまってくれた。僕はこの飲料が苦手だった。それでも、ここで口をつけないのは失礼だと子どもながら思い、においをかがないように、全部飲んだ。膜もごまかしつつノドを通した。あとにも先にも、ホットミルクを飲み干したのは、あれきりである。

母が迎えに来た。帰りたくはなかったが、仕方なかった。山下さんは、母に小言をたれるでもなく、こういった。「またいつでも、お子さん、遊びに来させてくださいね」。

これを聞いて泣けてきたのは母ではなく僕のほうだったから、鮮明に覚えている。あらゆる配慮にみちた言葉だった。そう思う。

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人間は、なぜ月に行けたのか? 永井陽之助は、地球と月の間に「人間が棲んでいないから」だと答えた(永井編『二十世紀の遺産』文藝春秋、1985年)。人が集えば、そこにはギスギスした何かが芽生え、争いが生じるのは世の常である。政治学者らしい回答である。

しかし、月に行けたのは「人間がいたから」でもある。

排外主義くらいで、この国、この国の人間のいとなみに諦観を覚えるのは、見切り発車もはなはだしい。これまで日本で育んできたさまざまな経験に支えられた筆者は、こう思いを新たにしている。

きっと、豊かなエピソードを育んできた人は、民族問わず、この列島には多くいる。

今必要なのは、そうしたエピソードを地道につむぎ直し、思いかえし、ときには人に伝え、間接的にではあるが社会的状況を1ミクロンずつ改善することではないだろうか。そう思えてならない。

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