■イスラム教徒が最大勢力へ
米国の調査機関ピュー・リーサーチ・センターより『世界の宗教別人口は現在キリスト教徒が最大勢力だが、2070年にはイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラム教徒が最大勢力になる』との予測が発表された。人口動態等を勘案すれば、さほど目新しい予測とも思えないのだが、思った以上にショッキングなニュースとして注目されているように見える。大多数の穏健なイスラム教徒にとっては失礼な話とも言えるが、『無宗教』を公言するような現代の大多数の日本人にとってはやはり脅威であり、得体の知れない不気味さを感じたり、不安を煽られたりしているはずだ。
実際、このような発表がある一方で、相変わらず『失意の若者狙うイスラム過激派 戦闘員候補、巧妙に物色』という類いのニュースも引きも切らず出て来るわけだから、脅威も不安も無理からぬところがある。それでも、先進国からイスラム国に自主的に出向くメンバーを含めて、自ら自爆テロ要因となる若者の心理は、理解できる部分もなしとはしない。差別を受けたり、米国やイスラエル等の空爆で罪のない家族を殺されたりして復讐心に燃える姿を見れば、同情の気持ちさえ湧くケースもあるだろう。
だが、ナイジェリアのボコ・ハラムのように、10代の少女に爆弾を持たせて、遠隔操作で爆破するテロのような愚劣な行為を見せつけられては、もはやどう逆立ちしても理解も同情もできはしない。それどころか、イスラム教全体を疫病のようにみなす人々を抑える言葉さえ見つからなくなってしまう。
■イスラム教だけの問題ではない
だが、歴史を遡れば、熱狂的な暴力行為に至る所行は、一人イスラム教だけのものではない。去る2月5日にワシントンで開かれた、National Prayer Breakfastで、オバマ大統領が、『歴史上、全ての宗教団体は暴力的な活動を展開してきた』とコメントしてキリスト教関係者が大激怒したそうだが、『多くの宗教は熱狂と暴力行為に至る可能性を秘めていて、歴史上それは何度も現実のものになってきている』という言い方であれば、誰しもこれを否定はできないはずだ。
宗教感情には、非常に崇高で厳粛な境地がある一方で、時に人を熱狂/トランス/暴力へ導くエネルギーを併せ持ち、既存の大宗教は、かつてはそのようなものを内部に含みながら、長い時間をかけて社会との葛藤や衝突に揉まれつつ、暴力的なエネルギーを抑止し、社会との折り合いをつけて来た、というのが本当のところだろう(その一方で原初のパワー/エネルギーも弱まったとも言える)。
現代の大抵の日本人は、葬式仏教のような一種の習俗/お付き合いを例外として、それ以外の宗教/宗教行為からは一定の距離を置き、無関心を装うのが『大人』『常識人』と信じている風がある。特に、オウム事件以降、日本人の宗教アレルギーは以前にもまして強くなっているように思える。だから、上記の要な議論は基本、自分たちとは関係ない他人事と思っているだろう。だが、本当にそうだろうか。
■日本教と宗教感情
『無宗教』を自認する日本人の風俗や普段の行動を外国人の目線で客観的に見ると、しばし、いかにも奇妙に映ることはよく知られている。かつて評論家の山本七平氏が指摘した通り、特定の宗教は名乗らなくても、大抵の日本人には日本教とでも言うしかないような信仰心の証が見え隠れする。少なくとも、合理的には説明のつかいない行動をいくらでも数え上げることができる(戦死者を祀った神社に参拝したり、お盆には先祖の霊を迎えたり、神社に行って合格祈願をしたり家内安全を祈ったりする等)。多少歴史を長いレンジで見れば特に、日本人の行動を突き動かす心底の原理は、しばし非常に感情的で非合理だ。そして宗教的とも言える。国に殉じる崇高を讃え、日本の山河を懐かしみ、会社に忠誠を誓って自殺したりする。皆広義の宗教感情であり、宗教感情の発露と言えるだろう。この場合、特定の宗教団体が問題でもなく、政治的な右とか左も関係ない。
そんなのは、古い時代の日本人の話で現代の若者には関係ない、という声も聞こえて来そうだが、これも本当にそうだろうか。今の自民党政治の目指す方向は、『家』中心の家父長制、いわば明治期を理想に据えているように見える。そして、多くの若者がこれを支持している実態を見れば(事の真相を理解しているかどうかは別として)昔も今もさほど変わらないように思える。少なくとも心理の古層は共有していることは明白だ。
■満たされない『崇高』求める気持ち
誤解のないよう断っておくが、私は宗教や宗教感情の一切合切を否定しているわけではない。宗教を介して非常に高い境地に達した素晴らしい人格者を私自身数多く知っている。通俗より崇高を求め、人知を超えた英知を求める気持ちは本来尊いものだ。ところが残念なことに、今の日本には、このような高い境地を求める気持ちが芽生えても、それを受け入れて善導してくれる器がない。危険のない既存の宗教は、いわば薄められ過ぎていて、そんな純粋な高みを追求する気持ちを満足させることができないことが多い。そして、ここなら、と思って飛び込んでみると、オウム(ないしそれと同様の団体)だったりする。
■『神』ではなく『悪魔』がしのびよる
また、最初は善意の個人、ないし少数者の集団から始まっても、本来言語化が難しいはずの『崇高』を言葉で無理矢理定義して、団体を組織し、その団体を拡大しようとするうちに、残念なことに、結局その空間には『神』ではなく『悪魔』が忍び寄ることが多い。本来『聖』を持って『俗』を仕切ることが難しいことは、過去に流れた大量の血が証明している。信仰の自由が一方にありながら、政教分離をもう一方の原則にする国々が多い所以でもある。
■日本では経済やアイドルが宗教
戦後の日本は『宗教感情』のエネルギーを、経済成長であったり、オタク向けのコンテンツやアイドルのようなエンターテインメントに向けてきた。批評家(というより最近はアイドル・プロデューサーというべきか)の濱野智史氏の著書、『前田敦子はキリストを超えた ―<宗教>としてのAKB48』というタイトル名など、まさにこれを象徴している。日本人の『宗教感情』のエネルギーをテロや犯罪等の破壊的な方向に向かわないように誘導している、という意味では、既存の宗教以上に宗教らしいことは確かだ。一定の役割を果たしているという議論にもそれなりの理はあると思う。
■それではおさまらない
だが、それではおさまりきれない『崇高』を希求する抑え難い衝動というのは、確かに存在する。そして、それは純粋であればあるだけ、他の代替物(お金、エンターテインメント、異性等)では置き換えれられない。そこには穴があいたままで、真面目で純粋な宗教感情を満たすことはできず、受け入れる器も未熟な疑似宗教のようなものしかなく、一方で貧困や格差(経済格差だけでなく『希望格差』も含む)が広がり、『俗』にも『聖』にも依ってすがれる『物語』が見つからない。今また日本にも魔が忍び寄り易い環境ができつつあるのではないのか。杞憂であればよいのだが。ただ、少なくとも、イスラム国等での話を、対岸の火事とばかりに国境線で安易に線引きするほど楽観してはいられないと私には思えるのだがどうだろうか。
作者: 濱野智史
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2012/12/07
(2015年4月9日「情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)