■衝撃を受けた貧困の実態
タイトルが気になって、つい手にとってしまった『最貧困女子』という本だが、自分でも意外なほど、あっという間に読んでしまった。昨今、日本でも貧困層が拡大して来ているということは情報としては知っているつもりだったが、そんな私の『貧困』な状況認識を遥かに超える悲惨な現実が急速に広がって来ているようだ。
中でも私が衝撃を受けたのは、次のような子供を抱えた女性の例だった。子供のころから親に虐待を受け、捨てられ(施設に入れられ)、教育もろくに受けれなかったばかりか、知的障害や精神障害(自殺衝動)もある、そんな女性が携帯サイト(iモード)で男性と出会い、結婚して子供(二人)をもうけるが、夫が暴力をふるい離婚を余儀なくされる。
子供を養うための仕事も見つけられず、風俗も店舗型や登録型の(一応)合法な店では採用されない(容姿が劣り、コミュニケーション能力もなく、精神的にも不安定というのでは当然かもしれない)から、出会い系サイトで売春するしかなくなる。
当然、足下を見られて二束三文で買いたたかれ(数千円程度)、環境も劣悪で不安定この上ない。著者の鈴木大介氏が、見かねて生活保護申請をすすめるが、子供と引き離される(施設に入れられる)ことを恐れて申請を躊躇する。しかも、そもそも書類を読んだり書いたりしようとすると(そういうことが苦手で)、いっぱいいっぱいになってしまう。
本人は、自分が施設に入れられた時、捨てられた、という気持ちになったことから、自分の子供は絶対に手放さないで一緒にいようと決意している。子供もそんな母親を慕う。そこだけは何だか妙に神々しくて、だからこそ痛ましい。
また、虐待に堪え兼ねて家出し、非合法な未成年売春の世界に吸収されていく少女の例なども、あまりに悲惨で読んでいて胸が苦しくなって来そうだ。こういう気持ちになることはわかっているから、普段はこのような最底辺の人達のことを無意識に見ないようにしている自分がいる。だが、その姿勢こそ、下層で押しつぶされようとしている人をさらに追い込む原因であることに気づかされて、再び愕然とする。
■漂白される社会
だが、現代社会は、こういう悲惨な状況の見える化を促進するどころか、むしろ『汚いもの』『あってはならぬもの』として社会の外枠、視界の外に追いやる力学が働いていて、その力学は年々強まっているように見える。『歌舞伎町浄化作戦』の類いなど典型的な例だが、同様の事例があまりに多い。これを、社会学者の開沼博氏は、著書で『社会が漂白されている』と表現する。実に当を得た言い回しだ。漂白された社会は一見、『安全』で『幸せ』に見えるが、事はそんなに簡単には片付かない。実はここには大きな落とし穴がある。
社会から売春のような猥雑なものを周辺に押しやると、下層の人を非合法で筆舌に尽くし難い悲惨な状態に追い込むことになる。そして、押しやった側からは見えなくなるから助けの手を差し伸べることもできない。一方、押しやった側は、『猥雑さや偏り』、すなわち『色』が取り除かれ(漂白され)、『自由』で『平和』、かつ『豊か』な状況が生まれ、『幸せ』に暮らすことが出来るように見える。ところが、その『幸せ』こそが、人々を不安、不信、さらには『不幸』へと追い落としもすると開沼氏は述べる。
この開沼氏の言う『不幸』について、簡単に記述することは非常に難しいのだが、あえて言えば、次のようにまとめることができるように思う。『周辺的な存在』はこれまでは、蔑まれながらも人々を魅了してもいて、『人の魂をゆるがす文化』や『生命力』の源泉になっていたのに、それを自らの手で排除し遠ざけてしまっている(魅力がなくなり、生命力も乏しくなっていく)。さらには、漂白された社会には、かつてあったような明確な達成目標や物語・歴史観が設定されなくなり、生の充実は見失われていく。
■強制収容所を生き抜く心的態度
開沼氏のご指摘、私もまったく賛成なのだが、ここはもう一歩突っ込んでおくことで、さらに本質に迫れるように思う。ナチスドイツ時代に強制収容所に送られ、その体験をもとに著した名著、『夜と霧』で知られる心理学者、ヴィクトール・フランクルが述べる、『絶望的な環境(強制収容所)を生き抜いた(あるいは、最後まで充実した生を生きた)人達の心的態度』は、現代の漂白された社会の問題に取組むにあたっても、おおいに参考になるように私には思える。
鈴木大介氏の著作にある実例のような『最貧困層』は、まさに強制収容所を彷彿とさせる限界的な環境にいるとも言えるし、一方で、一見豊かで幸福に見える『漂白された社会』内も、そこで生きる人が、生きる意味/達成目標/物語を失っているとすれば、鉄格子こそなくとも、あらゆる生きる意味を奪われた強制収容所の中の環境に近いとも言える。
となると、人間にとって限界状況である強制収容所にいながら、なお人間の尊厳を失わず、生きる希望を捨てなかった人間がいたなら、その心的態度、およびその背後にある思想、心理状態等は、現代人が今最も探求しておくべき課題であり、智慧と言えるのではないか。
■意味への意志
フランクルによれば、人間には三つの意志(快楽への意志、力への意志、意味への意志)があり、意味への意志こそ、最も根本的であると主張する。意味を見失い、『意味への意志の欲求不満』が高じると『快楽への意志』や『力への意志』による麻痺に人間は過剰に身を投じる、という。今日(フランクルの言う今日(20世紀中盤)と現代の日本はほとんど同様と言える)の真の問題は、人が人生の意味を見失っていることだ、とする。
人間は結局、そしてもともと、意味への意志と言うか、自分の人生を出来る限り意味で充たしたいとの憧憬によって魂 ーと言わぬまでも精神を ー吹き込まれて、それに従って、生きがいある生活内容を得ようと努め自分の人生からこの意味を闘い取っています。われわれは、この意味への意志が充足されずにとどまる時に初めて、またその時に限って ー人間はますます多量の衝動満足によってまさにこの内面的不充足を麻痺させ、自分を酔わせようと努めるのだと信じます。
『それでも人生にイエスと言う』より
■人生観のコペルニクス的転換
だが、強制収容所のような限界状況では、『われわれは人生から何を期待できるか』というような自己中心的な人生観では、いかなる意味も見出すことはできない。そこではもはや何ものも世界から期待できない。だから、そのような人生観しか持てなかった人は、強制収容所を生き抜くことはできなかった。
よって、そこで生き抜くためには『人生は何をわれわれから期待しているか』という観点に切り替えなければならない、という。われわれが『生きていくことは答えること』であり、どんな限界的な状況であっても、そこで自分は何を問われていて、それに答えていくことにこそ人生の意味がある、という人生観を持つことが肝心だと述べる。
具体的な例の一つとして、こんなエピソードが語られている。
或る悪性の脊髄腫瘍を患った男性は、死ぬ直前にフランクルにこう語ったという。「午後の病院長の回診のとき聞いて知ったのだが、G教授が、死ぬ直前の苦痛を和らげるため、死ぬ数時間前に私にモルヒネを注射するように指示したんです。だから、今夜で私は『おしまい』だと思う。それで、いまのうちに、この回診の際に注射を済ましておいてください。そうすればあなたも宿直の看護婦に呼ばれてわざわざ私のために安眠を妨げずにすむでしょうから。」もはや変えることのできない運命に対して、この人がとった「態度」についてフランクルは次のように述べている。
「この人は人生の最後の数時間でもまだ、まわりの人を『妨げ』ずにいたわろうと気を配っていたのです。(中略)このようにまわりの人のことを思いやる気持ちを見てください。まぎれもなく死ぬ数時間前のことです。ここにすばらしい行いがあります。職業上の行いではないにしても、人間らしい無比の行いがあります。」
同掲示書より
どんな過酷な環境にあっても、その環境において『人生』が本人に問うている『課題/問い』はあり、それに答えていくことにこそ人生の意味がある。そのような心的態度を持った人にとって、人生は最後の最後まで意味があり、充実がある。そして、上記のような『回答』には、他者にとっても無類の感動がある。少なくとも私にはそう思える。
■避けては通れない問題指摘
『子供の貧困』という著書のある、国立社会保障・人口問題研究所の阿部彩部長によれば、日本の貧困は、『母子家庭』『20代前半男性』『子ども』に際立つのだという。そう言われてみれば、最近、このあたりのテーマを扱った書籍をやたらに目にする。残念なことだが、当面この方向は簡単には変わらず、貧困は深刻化する恐れが大きいことを前提として考えておかざるを得ない。
また、貧困に落ちずとも、『漂白されて意味を見失った社会』に耐えられず、意味を求めてイスラム国に渡ったりするようなことも、現実に世界的に起きている。フランクルの思想は、カントやハイデガーの思想にも通じる非常に奥深いもので、稚拙な私の語りくらいでは理解を得ることは難しいかもしれないが(是非、自分自身で探求してみて欲しい)、少なくとも、避けては通れない問題指摘がここにあることは確かだ。
経済の活性化、社会体制の改革、法的な整備、いずれも重要だが、並行して、それだけでは解けない問題があることを認識し、研究を深めることが不可欠であることは強く主張しておきたい。
(2015年2月7日「風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)