「ダウン症が増えました」という記事の暴力性

障害や生殖医療をめぐる問題に対して意見を一本化ないしは絞り込むのは容易ではないのは分かるが、偏見とは、こうして前提を述べずに宙ぶらりんにさせて放っておくことで、すくすく育ってしまうのではないか。

■ ダウン症をめぐる2つの報道

この1週間ほどで、ダウン症をめぐる2つの報道が重なった。冒頭で問題提起の殆どを済ませてしまうと、どちらの報道記事も、媒体として「そもそもダウン症自体をどう考えるのか」という視座がすっかり抜けており、これこれこういうことがありました、と報告しただけでサラリと終わらせている。障害や生殖医療をめぐる問題に対して意見を一本化ないしは絞り込むのは容易ではないのは分かるが、偏見とは、こうして前提を述べずに宙ぶらりんにさせて放っておくことで、すくすく育ってしまうのではないか。

長野県の公立小学校の入学式で、ダウン症の男児が外れた集合写真と加わった集合写真の2種類が撮影された。「校長が男児の母親に対して提案した。校長は『配慮が不足していた』として男児の両親におわびした」(朝日新聞デジタル)という。この謝罪のくだりだけを読むと、あたかも共に入学する生徒達からダウン症の子どもだけを外して写真を撮ったかのように読めるが、このダウン症の男児は特別支援学校に入学し「地域の児童との交流の一環で地元の小学校の授業や行事にも月に1、2回参加する」生徒だった。つまり、この小学校に毎日通うわけではない。現場でどのようなやり取りが行なわれたかにもよるが、物事の伝わり方のベクトルが少しでも変わっていれば、「男児も私たちの仲間なので、彼を加えた形でも撮った」とすることもできたはず。上手い下手の問題にするべきではないが、現場での伝わり方も悪かったのだろう。

■ 高齢出産はダウン症の可能性が高まる、で済ませていいのか

19日の朝日新聞朝刊に出た「ダウン症児の出生 15年で倍増」との記事(朝日新聞デジタル)は、ダウン症の当人や親たちへの配慮をすっかり欠いた「ダウン症は生まれないほうがいい、中絶するべきだ」を前提に敷いた記事に読めた。ダウン症を理由にした中絶数は95〜99年と比べると05〜09年は1.9倍に増加しており、2011年の出生数に当てはめると約2300人のダウン症の赤ちゃんが生まれる予定だったが実際には約1500人、その差の約800人の一部が中絶したのではないかとの〝推計〟を出した。高齢出産はダウン症の可能性が高まる、だから高齢出産は危ない、と直接繋げる意見を頻繁に見かけるし、それは確かに事実に即しているのだが、その事実を伝えるだけで済ます度に、ダウン症の方々を横暴に取り扱ってしまうことになる。

■ ダウン症の人為的な減少は、社会の包容力の衰退を招く

横浜市立大産婦人科医の平原史樹氏は、ダウン症についてこう述べている。「人口の約0.1%がダウン症であるが、生物学的にはダウン症の子が一定数産まれることが自然で、それがなければ人類は何百年と続かない。それが生物の大原則。そうであれば、人類を存続させるために産まれてくれたダウン症の子を社会が支えるのは当然なのではないか」(小林美希『ルポ 産ませない社会』より)としている。或いは17日の朝日新聞オピニオン欄で、自身もダウン症の子を持つ東京都職員・乙津和歌氏が新型出生前診断について充分な議論が深まらぬまま、「新型診断が一般的になり、ダウン症がある人の人数が人為的に減ってしまうことで、社会の包容力を衰退させ、私のような幸運なつながりをも奪ってしまうことになってはならない」と書いた。

■ 新型出生前診断はあくまでも「臨床研究」だったはず

公益財団法人日本ダウン症協会は、新型出生前診断が商業ベースで広がっていこうとすることへの懸念を、日本産科婦人科学会宛の要望書の中にこう記している。

「マスコミ等では今回の診断技術が一般検査と同等であるかのように紹介される事態を招いてしまっています。こうした流れが、やがては産科領域のみならず、他医療領域でも安易な遺伝子診断の実施につながることを当協会は強く危惧しています」。

忘れがちだが、新型出生前診断はあくまでも「臨床研究」の位置づけで始まったのだ。昨年、この出生前診断の指針を発表した日本産科婦人科学会・小西郁夫理事長は、「倫理的に考慮されるべき点のあることから、まず臨床研究として、認定・登録された施設において慎重に開始されるべきである」(日テレNEWS24 )としたが、その後の報道は、出生前診断を受け陽性と判定された9割が中絶をした、との記事に代表されるように、この診断がひとまず「研究」として開始されたとする事実は猛スピードで忘れ去られている。

■ こちらの方が頭を下げて、入ってとお願いしたいくらい

この要望書を読んで知ったのだが、1999年に議論となった「母体血清マーカー検査」(採血により血液中のタンパク質の濃度を測定し、先天性異常の〝確率〟を調べる)に関する見解として厚生労働省は、医師が検査を希望する妊婦や配偶者に対して以下のような説明をするべきとした。この3点は、今改めて問われるべきだろう。

  • (1)障害をもつ可能性は様々であり、生まれる前に原因のあった(先天的な)ものだけでなく、後天的な障害の可能性を忘れてはならないこと
  • (2)障害はその子どもの個性の一側面でしかなく、障害という側面だけから子どもをみることは誤りであること
  • (3)障害の有無やその程度と本人および家族の幸、不幸は本質的には関連がないこと
  • 「ダウン症児の出生 15年で倍増」の記事にはこの3つの視点が全て欠けていた。障害を持って暮らす子どもたちへのまなざしはちっとも用意されていなかったし、障害の有無を容易に幸・不幸にリンクさせる、配慮の無いテキストだった。これから妊娠・出産を控える方の不安の解消と技術の発達はリンクする。しかし、生を受けて暮らしているダウン症の人たちにとって、その発達は今のところ負荷にしかなっていない。このバランスの悪さを更に広げるかのように、報じる側は「これから控える」側の安堵ばかりに乗り、「すでに暮らしている」側への負荷を取り込もうとしない。ブレンド具合をどうするか以前に、そもそも調合自体を怠っている。

    20日の朝日新聞の投書欄に55歳主婦の投書が載った。ダウン症の子どもを持つ知人の女性が合唱団への入団を遠慮していると、その合唱団の指導者が「こちらの方が頭を下げて、入ってとお願いしたいくらいです。お嬢さんが入団することで、いたわる心やたくさんのことを、周りの子どもたちが学べるからです」と答えたという。「教育とは『共育』『協育』」と締めくくるその投書にだけ、温かいまなざしがあった。

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