いい学校を出ても、いい仕事につくとは限りません。
いい学校を出ても、いい仕事につけるとは限りません。
いい学校を出ても、しあわせになれるとは限りません。
まずは、人間の能力はペーパーテストで測れるものではない、ことを再確認しておくべきでしょう。
「そうは言っても、いい大学を出たほうが『いい仕事につく確率』は高くなるでしょう?」
......と、考える親は少なくないでしょう。
しかし受験で身につく技能は、今後の10年~20年ほどで価値を失います。
「ルールを正しく覚えて、間違いなく運用する」
これが受験によって身につく技能であり、中産階級のホワイトカラーに要される能力でした。が、そういう職業はこれから数十年で駆逐されます。そんなもん、コンピューターにやらせたほうが安くて早くて確実だからです。
事務職は当然として、営業職も激減するでしょう。Amazonがあれば充分だからです。会計士や弁護士でさえ、すでにリストラに悩んでいます。資格があるからと言って、安心はできません。
数十年後に残っている職業は、人間にしかできない仕事です。芸術的で創造的な職業か、あるいは対人関係を重んじる職業です。絵描き、ライター、企画開発、もしくは看護、リハビリ、介護。こういう仕事は、コンピューターよりも人間のほうが得意です。コンピューターは夢を見ません、思いやりもありません。夢を見るのは人間の仕事です。
そして、こうした職業に要する能力は、受験では身につきません。
偏差値を伸ばしたところで、創造性や社会性が育まれるとは限りません。それらの能力を育てるのに、現在の「受験」は適していません。少なくとも、もっと効率的な方法があるはずです。
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では、なぜ親たちは子供の偏差値に神経を尖らせるのでしょうか。
なぜ予備校は――受験産業は儲かるのでしょうか。
それは、受験がソーシャルゲームだからです。
親たちが受験産業にカネを投じるのは、中高生がモバゲーやGREEにカネを投じるのと同じです。
最初にプレイヤーキャラクターを選び、課金アイテムで強化していくゲームだと思ってください。
ゲームには目標が必要です。たとえば、RPGならラスボスを倒すことが目標です。ギャルゲーなら美少女を落とすことが目標です。そしてパズドラならデッキを強くすることが目標です。この目標は、可視化しやすいほうがいい。だから、ほとんどのソーシャルゲームにはランキング機能が実装されています。
これは受験でも同様です。本来、人間の価値は画一的には測れません。しかし、偏差値という単一のパラメーターを持ち出すことで、どれほど強くなったかが可視化されます。偏差値によって、親たちの目的意識に強く訴求することができます。
課金ガチャをどんなに回しても、強力なアイテムが手に入るとは限りません。しかし課金をしなければ、強力なアイテムは手に入りません。多くのソーシャルゲームでは、無課金でも運と根気さえあれば強くなれるようにデザインされています。
そして、根気が必要であればあるほど、課金が魅力的に思えてきます。「あと1回ガチャを回せば強くなれるのではないか」と射幸心を煽られます。「あのアイテムを入手しなければ他のプレイヤーに競り負けるのではないか」と危機感を煽られます。
これは受験も同様です。受験対策にどんなにカネを投じても、子供の偏差値が伸びるとは限りません。しかし課金をしなければ、人気講師の指導は受けられません。大学受験では、無課金でも運と根気さえあれば偏差値を上げることができます。そして、無課金では成績向上が大変だからこそ、親たちは受験産業に課金するのです。
「あと1回補講を受けさせれば偏差値が上がるのではないか」と射幸心を煽られます。「あの講義を受けさせなければ他の受験生に競り負けるのではないか」と危機感を煽られます。ほとんどの場合、受験生本人の危機感は、親に刷り込まれたものでしかありません。
ソーシャルゲームで外せないのはイベントです。
レイドボスをみんなで倒すのは、あまりソシャゲで遊ばない私にも楽しく感じられます。そしてボス戦での貢献度がランキングで可視化され、プレイヤーたちの競争意識をくすぐるわけです。
同様のイベントが、受験にも存在します:
模試です。
受験を一種のソーシャルゲームだと考えた場合、模試はレイドボスのようなものです。育てたキャラの強さを可視化する機会であり、学校の定期試験と同じかそれ以上に重要なイベントです。なぜ、あんなにも頻繁に模試が行われるのかといえば、可視化の機会を増やして親たちの目的意識をくすぐるためです。予備校のユーザーは受験生ではなく、サイフを握っている親たちです。予備校が行うあらゆる施策は、親たちのサイフの口を緩める方向に機能します。
さらに、受験にはソーシャル要素もふんだんに準備されています。
まずプレイヤーは、他の受験生を持つ親たちと交流することができます。また、多くのゲームで「課金アイテムの交換」が導入されていますが、受験の場合には「子供同士を交流させる」という変則的なシステムになっています。子供同士で勉強法を交換したり、お互いのやる気を高めることができます。予備校の集中講座や合宿に子供を参加させるのは、他のソーシャルゲームにおけるアイテム交換とほぼ同じです。
以上のように、受験産業はゲーミフィケーションに成功した稀有な例といえるでしょう。ソーシャルゲームが大繁栄するよりもずっと昔から、ほぼ同様の課金構造を完成させていました。高度経済成長からバブルにかけて、日本人が「いい大学を出ればいい仕事につける」という神話を共有できたことも、このゲームの完成を後押ししました。
多くのソーシャルゲームでは、最終的に廃課金と呼ばれるプレイヤーたちがランキングを席巻します。これは受験でも同じです。たしかに、地頭のいい子供を持った親は――運よく初期キャラが強かったプレイヤーは――あまり課金せずに偏差値を上げることができます。しかし全体的に見れば、より高額の教育費を投じることができた親たちが、子供を難関大学に合格させることに成功します。東大合格者の6割は、親の年収が1千万円以上だそうです。廃課金が勝利を収める点も、受験とソーシャルゲームとのよく似た部分でしょう。
さて、受験は楽しいゲームでしょうか。
それともクソゲーでしょうか。
教育格差は存在するのか 親の所得と子どもの進学の関係
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言うまでもなく、子供は「キャラ」ではありません。「レアカード」でもありません。肉体と精神を持った、生身の人間です。子供に課金するのは構いませんが、受験という誰かのデザインしたゲームにカネを投じることが、果たして子供のためになるのでしょうか。受験をくぐり抜けることが、かつては将来の成功を約束していました。......いいえ、していたはずでした。いい学校を出て、いい会社に入ったはずのサラリーマンたちが、バブル崩壊後には次々に首を切られました。神話は、やはり神話でしかなかったのです。
今から受験にのぞもうとしている高校生のみなさんは、しっかりと勉強してください。
あまり偏差値の高くない大学に通うみなさんは、しっかりと勉強してください。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、偏差値などというつまらないものを上げるための勉強ではなく、自分の思考に組み込まれて、血肉となるような知識を身につけてください。偏差値は何の役にも立ちません。犬も食わないくだらない指標です。
しかし血肉となった奥深い知識は、必ずあなたの人生を助けます。誰かの言い分を鵜呑みにしない自立した個人になるためには、多様で厚みのある知識が不可欠です。受験ゲームに興じる親たちのためではなく、あなた自身のために、しっかりと勉強しておくことをおすすめします。
(2013年3月22日「デマこいてんじゃねえ!」より転載)