教育は変わった、らしい。
かつて、いい会社に入るためにはいい学校を出る必要があり、いい学校に入るためには幼い頃から塾に通わせる必要があった。いい小学校、いい幼稚園、いい胎教......。日本には厳密にルール化された「トップレベルへの登り方」が整備されていた。
ところがインターネットの発達はあらゆる分野の競争を加速させ、既存のルールで学ぶだけではトップになりづらくなった。もっとも優れた将棋棋士がネット対戦で技を磨き、もっとも優れたイラストレーターがpixivで筆をふるっているように、インターネットによる情報収集と競争を経験しなければ、どんな分野でもトップレベルにはなれない。少なくとも、そういう時代が近づいている。
ここには矛盾がある。
まず押さえておきたいのは「トップレベルを目指す教育は子供をしあわせにしない」ということだ。トップレベルを目指して激しい競争を経験させても、しあわせを掴めるのは一握りだ。残りの9割9分9厘の子供たちは、トップになれなかったという敗北感と共に生きていくことになる。
一方で、いまの世の中は「トップでなければ意味がない」ということも覚えておきたい。以前、スーパーコンピューターの開発費を巡るニュースで「2番じゃダメなんですか?」という発言が話題になった。もちろん、ダメである。自由競争を是とする資本主義社会は、全員が1位を目指すことが前提になっている。ほかのすべてのプレイヤーが1位を目指して走っているから、自分も全力で走らざるをえない。国家の軍備から中小企業の営業マンに至るまで、「2位でいいや」と開き直った瞬間に、2位ですらいられなくなる。その場に留まるためには1位を目指して走り続けるしかない。
トップレベルを目指す教育は子供をしあわせにしない。
一方で、いまの世の中はトップレベルでなければ意味がない。
この矛盾を解決するにはどうすればいいだろう。先日、知人の家で夕食をごちそうになったときに、解決の糸口を垣間見た......ような気がする。
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その子の名前を、ここではA子としよう。3歳8ヶ月で口が達者、生意気ざかりの女の子だ。
登場人物はほかに4人:まずA子の母親である30代の女性、彼女が私の知人だ。そして彼女の母であり、A子の祖母にあたる50代の保育士。40年近く保育の現場経験があり、1,000人以上の子供を見てきた人だ。さらにA子の妹。まだゼロ歳で、母親の手がなければ何もできない赤ん坊だ。最後に夕食に招かれた私。当日はほかにも何人か居合わせたのだが、今回の話では省略しよう。
A子、A子の母、祖母、妹、そして私の5人が登場人物だ。女だらけだ。
さて、A子の母は典型的なワーキングマザーだ。
仕事と家事でめちゃくちゃ忙しい中、丁寧かつ時間をかけすぎないように工夫しながら子育てをしている。若いころは線の細い少女然とした人だったのに、子供の存在は彼女を肝っ玉母ちゃんにした。人は変わるものだな、と驚きを禁じえない。
彼女の家では入浴の順序が決められている。
まずA子の母親が妹と一緒に入り、赤ん坊の体を洗う。そして赤ん坊をベビーバスに入れたところでA子を呼び、体を洗ってやる。母親1人で娘2人の面倒を見るための工夫だ。
私が夕食に招かれた晩も、彼女たちはその順序で風呂に入った。夕食後、まず母親と赤ん坊が風呂場に入り、A子は集まった大人たちと遊んでいた。とくに私はA子から懐かれているので、遊び相手になってやった。
と、そこで風呂場からお呼びがかかった。次はA子を洗ってやる番だから風呂に連れて来て、というわけだ。
ところがA子は思いっきりグズッたのだ。
大好きなおばあちゃんもいるし、優しい大人たちが集まっている。3歳8ヶ月の子供がすぐに頭を切り換えられるはずもない。まだ遊んでいたい、お風呂には入りたくないとわんわん泣き始めた。
私には子供がいない。そして子育て経験のない人間にとって、目の前の子供が泣き出すのは緊急事態だ。
A子と同じくらい泣きたい気持ちになりながら、「お母さんが呼んでいるし、お風呂に入ったほうがいいんじゃない?」と声をかけるのが精一杯だった。もちろん返事は「やだぁー!」だ。A子はぴーぴーと泣きわめいた。
こうやってグズる子供は、街でよく見かける。
スーパーでお菓子を買ってほしいと泣く子供。駅で、電車に乗りたくないと泣く子供。そんな子供たちの隣には、たいてい若い母親がいて、困惑しきった顔で叱りつける。「いいから言うことを聞きなさい!」と大声を出して、子供を引きずっていく。そんな光景を何度も目撃した。
グズり続けるA子を前に、私は途方にくれた。
ああいう若い母親と同じように、声を荒げて風呂場に放り込んだほうがいいのだろうか。でも、せっかく懐いてくれたのに嫌われたらどうしよう。他人の子供が可愛いのは、可愛がるだけでいいからだ。私は大人失格である。このときのA子のようにグズッた子供の対処法を私は知らなかった。
救いの手を差し伸べてくれたのは、A子の祖母だ。
保育現場で40年の経験を持つおばあちゃんは、やはり格が違った。
膝を折ってA子と目線を合わせると、彼女の両肩を優しく掴んだ。
「A子ちゃん」相手をまっすぐに見つめながらおばあちゃんは言った。「いまお風呂に入らないと、お母さんは妹と2人でお風呂から上がっちゃうよ。そうしたら、A子ちゃんは1人でお風呂に入ることになるのよ」
A子は泣き止まない。相変わらずぴーぴーと声を上げる。おばあちゃんの口調はあくまでも優しくて、叱りつけたり論難するような声ではない。
「いまお母さんと入るの? それとも、あとで1人で入るの? 自分で決めなさい」
A子の泣き声が少しだけ弱くなる。
「どうするの。後で入る? それとも、いま入る」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、A子はうなずく。
「いま入るのね」
A子は力強くうなずいた。
「じゃあ、入りなさい」
おばあちゃんはにっこりと笑ってA子の背中を押した。A子はお気に入りのタオルを持ってお風呂場にダッシュした。
すげーな、と思った。
泣きじゃくる子供に対して、「風呂に入りなさい」「言うことを聞きなさい」と命令するのではなく、「自分で決めなさい」と言う。選択肢を示して、子供が自発的に行動するようにうながす。
これが教育だよな、と思ってしまった。
頭ごなしに叱って、無理やり風呂場に連れて行っても、あのときのA子は泣き止まなかっただろう。むしろ、ますます激しくグズッたはずだ。ルールを強要するのではなく、自分で判断させる。それだけでA子はぴたっと泣きやみ、きちんと風呂に入った。
じつを言うと、A子はまだ1人でお風呂に入れない。だから、おばあちゃんのセリフはA子に選択を与えているようでいて、実際には選択肢が1つしかない。大人ってズルい。しかしそれでも、力ずくで風呂場に引っ張っていくより、ずっとマシだろう。
もちろん、このおばあちゃんのやり方が、すべての子供に適用できるわけではないと思う。3歳ぐらいの子供は発達の程度の差が大きいという。ちょっと幼い子供なら、「自分で決めなさい」と言われてもますます混乱するだけだろう。A子の発達程度なら大丈夫だと見抜いたから、おばあちゃんはこの方法を取ったのだ。子供の成長段階に応じて適確な対処法を取る──40年の保育現場経験はダテじゃないな、と敬服した。
子供をしあわせにするかどうかは、こういう教育をほどこせるかどうかだと思う。
いつでも大声で叱りつけて、無理やり言うことを聞かせて、お行儀のいい子供を育てることはできるかもしれない。大人の言いつけを素直に守る子は可愛いし、周囲から愛される。けれど、その子が自分の頭で考えて判断できる子供になるとは思えない。愛でメシは食えないのだ。
インターネットを利用できるかどうかなど、ほんとうは瑣末な問題だ。
大切なのは、その子がもう少し大きくなった時に「インターネットを利用すべきか」を自分で判断できるようになることだ。知識・技能の習得にネットが有用なのは確かだ。が、ときにはネットを我慢すべき場合もある。そのときに自分の頭で「我慢すべきだ」と判断できなければ、その子はニコニコ動画とYoutubeに時間を浪費して、学ぶべきことを学べないだろう。
子供には無限の可能性がある。その可能性を潰すのは、周囲の環境と親の思惑だ。親の思い通りに育てたところで、子供の可能性を活かすことができるとは限らない。マルセル・プルーストは、父親からは外務省の役人になることを望まれていたらしい。彼は親の希望を叶えなかったが、『失われた時を求めて』という20世紀を代表する小説を残した。親の望み通りに育てることが、いい教育だとは限らない。
とはいえプルースト本人がしあわせだったかどうかは別問題だけど。
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トップレベルを目指しても、ほとんどの人間はしあわせになれない。なぜなら、トップレベルに上り詰めることができるのは一握りのわずかな人々だからだ。にもかかわらず、いまの世の中は1位でなければ意味がない。2位でいいやと開き直った瞬間に、2位ですらいられなくなる。商売、学問、芸術──。どんな分野でも、この矛盾から逃れられない。
この矛盾を解決する方法は、たぶん1つしかない。
自分自身が新しい分野の創始者になることだ。まだ競合のいない新地平を開くことができれば、誰だってその分野のトップレベルになれる。誰も知らなかった「何か」を始められれば、その分野の権威はあなただ。
新しい分野を創始するには、既存のルールに縛られない思考が必要だ。自分の頭で考え、判断する力が必要だ。そういう力は一朝一夕で身につくものではない。ルールを見抜いて自発的に選択する訓練を、幼いころから積んでいる必要があるだろう。ルールを守るだけの子供よりも、ルールを守らない子供のほうが、たぶんしあわせになれるのではないか。
ルールを破るべきだと言いたいのではない。
ただルールを守るだけではなく、それを利用できる人になるべきだと思うのだ。新しいルールを作り出す人になるべきだと思うのだ。「新しい分野」は、きっとそうやって生まれる。
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(2013年11月5日「デマこいてんじゃねえ!」より転載)