北方領土の今を考える

ソ連兵がやってくるまで、恐怖の日々を過ごした日本人。「島へ帰りたい、帰りたい」と言って亡くなった人々のために私たちが今できることとは。

北海道の根室半島から連なる歯舞群島・色丹島、知床半島から伸びる国後島・択捉島。

かつて1万7000人が暮らしていた自然豊かな北方四島は、終戦直後にソ連軍に不法占拠され島民は島を追われた。

早期返還を求める元島民の思いは切実であり、連合も結成以来、早期返還を求めて平和行動を積み重ねてきた。返還交渉はいまだ決着をみていないが、今年に入って進展の動きが出てきた。北方領土の現状はどうなっているのか。早期返還に向けてどんな視点が必要なのか。

今年9月の北方四島交流訪問事業(※1)へ行った際に話をきいた語り部の体験と、連合の取り組みをお伝えする。

北方領土とは?

日本固有の領土だが、第二次世界大戦終結後に旧ソ連軍によって不法占拠され、島民は故郷を追われ、墓参りさえ自由にできない状態が今日まで続いている。連合は、毎年根室の平和行動で、北方領土の返還を求めている。

(※1)北方四島交流訪問事業とは?

1992年から始まった、日本国民と北方四島(択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島)に住むロシア人住民との相互訪問による交流のこと。旅券、査証なしで、外務大臣の発行する身分証明書などにより渡航が認められていることから、「ビザなし交流」と呼ばれている。日本国民が北方四島を訪れ、また北方四島のロシア人住民が日本を訪問することにより、相互理解と友好を深めることを目的としている。

~語り部に聞く 71年前の出来事~

「島へ帰りたい」、その願いを果たせないまま亡くなった人たちのためにも一日も早い解決を

―ソ連軍上陸時の島の状況は?

北方四島は海産物資源・自然の豊かな島でした。

戦前は、歯舞群島(はぼまいぐんとう)は昆布の水揚高日本一であり、色丹島(しこたんとう)は、鱈や鯨が大量に捕れました。国後島の南部、泊村(とまりむら)の一部に温泉が湧き、とても暖かい所でした。鮭、鱈やタラバガニも大量に捕れました。択捉島(えとろふとう)は、日本の離島で一番大きい島で、島内の紗那村(しゃなむら)は役所の出先機関があり、サラリーマンが多く住んでいました。また、本土から多くの人が出稼ぎに来ており、栄えていました。

終戦から13日目にソ連軍が択捉島留別村(えとろふとうるべつむら)の本村に上陸してきました。また、蘂取村(しべとろむら)にソ連兵がやってくるまでは1カ月ほどかかりました。

その間「若い女性が連れ去られる」という噂がたち、恐怖の日々を過ごしました。女性たちは男性の恰好をしたり、炭を顔に塗ったりしました。ついに彼らが村にやってきた時には、銃剣を片手に家中を土足のまま荒らし、懐中時計、指輪、万年筆などを持ち去りました。

しばらく経つとソ連兵だけでなく、家族連れもやって来ました。日本人の家を間仕切りし、私たちは3年間共に暮らしました。学校も間仕切りし、一緒の校舎を使いました。13歳以上の日本人は、工場などで強制労働をさせられました。

労働者のリーダーが独断でお彼岸を休みにしたところ、裁判にかけられてシベリアへ送られました。そんな理不尽な扱いを受けても日本人は何も手出しができませんでした。

また、火葬場の炉を壊して大きなパン窯を作りました。「ソ連の人はなんて恐ろしいんだろう」と心から思いました。

しかし、そんな窯で焼いたパンでさえ、私たちは食糧不足の中を生き抜くためには食べざるを得ませんでした。

荷物のように網で吊り上げられ

―樺太の収容所生活の話をお聞かせください。

ある日突然島を出て行くよう命令が出され、身の回りの品のみを持ち、貨物船で樺太の収容所へ強制的に移送されました。まるで荷物のように網で吊り上げられたのを覚えています。暖房もなく食事も粗末な物でした。劣悪な環境でお年寄りや幼い子どもが栄養失調となり、何人も亡くなっていきました。

その後、やっと日本に帰れることになり、函館に送られました。

その際に、検査があり、文字の書いてあるもの、アルバムなどは一切持ち出しが許されませんでした。また、船には亡くなった人は乗せられなかったため、赤ちゃんの亡骸を生きているかのようにおんぶしたまま乗船しているお母さんもいました。

―伝えたい思いは?

1万7000人以上いた元島民も今は約6000人。

「島へ帰りたい、帰りたい」と言って亡くなった人々のためにも、一刻も早く問題を解決すべく返還運動に取り組んでいます。多くの人にこの体験を語り継ぎ、北方領土への関心を持ってもらいたいと思っています。

鈴木咲子さん (すずき・さきこ)

北方領土語り部、元島民

1938(昭和13)年択捉島生まれ。10歳まで島で暮らした体験を語り継いでいる。

~[連合の取り組み] 北方領土と平和行動~

一刻も早い解決へ

連合は、労働組合が取り組むべき平和運動として、「北方領土の早期返還と日ロ平和条約の締結をめざす運動」に取り組んできた。その意義と今後の課題について、本年9月、「ビザなし交流」で北方領土を訪問した、連合連帯活動局の扇谷浩彰局長(現・組織拡大・組織対策局長)に聞いた。

―連合は、なぜ北方領土返還運動に取り組んでいるのか?

「北方領土返還要求運動」は、世界の恒久平和実現に向けた連合の4つの平和行動の1つだ。

太平洋戦争末期に激しい地上戦が行われた沖縄、原爆が投下された広島、長崎、そして旧ソ連軍に不法占拠された北方四島。戦後70年以上を経た今もさまざまな問題が解決されずに残されている。なかでも、沖縄の在日米軍基地の整理・縮小、日米地位協定の抜本的見直し、核兵器廃絶と被爆者支援、北方領土の早期返還は、ナショナルセンター連合として取り組むべき課題と位置づけ、積極的に活動を続けている。

―具体的には?

北方領土返還要求運動としては、毎年9月、「平和行動in根室」を展開し、納沙布岬・望郷の岬公園で早期返還を求める「平和ノサップ集会」を行うとともに、関係団体と連携して啓発キャンペーンや政府への要請行動などを行っている。

平和4行動の目的は、戦禍の歴史を学び、二度と同じ過ちを繰り返さないよう次世代に平和を継承していくことだ。集会では、必ず学習会をセットして、北方領土問題の歴史的経緯、日ロ交渉の状況などを学び、元島民の「語り部」にその苦難の体験と平和への思いを聞いている。

また、1992年に「ビザなし交流(北方四島交流訪問事業)」が始まると、連合は積極的に参加。戦後60年を迎える、2004〜2005年には「連合の船」を仕立てて現地を訪問した。

事業の目的は、ロシア人の住民と元島民の方を含めた日本人との交流である。政府間の交渉を進める上でも、住民レベルでの相互理解は重要だ。毎年、文化交流、料理教室、スポーツ交流、職場見学、環境保護活動、ホームビジットなど、工夫を凝らしたメニューが企画され、友好関係が深まっている。

―現地の様子は?

島民は、温かく迎えてくれる。意外と知られていないが、本土4島(北海道、本州、九州、四国)を除くと、択捉島は日本でいちばん大きな島だ。船で向かうと、あらためて四島の「近さ」や「大きさ」を実感する。

ロシア政府は、2006年に四島を含む「クリル(千島列島)発展計画」を策定し、インフラ整備や産業振興を進めている。

特に択捉島では大規模な水産加工工場が操業しており、雇用が生まれ人口が増えている。発展計画は2025年まで延長され、今後も商業施設や娯楽施設の建設も含めた投資が行われる予定であり、住民の間では経済発展への期待が高まっていると感じた。

択捉島で水産加工業を営む企業の社長は「これからは観光業にも力を入れたい。そのためには環境保護が重要だ」と話していた。


水産加工場で働く人たち 

すでに1万7000人のロシア人が、四島で働き生活している。主権をめぐる交渉は交渉として、現在の住民とどうすれば共存できるのかを考えることも必要になっていると感じた。

―プーチン大統領来日で、交渉進展への期待が高まっているが...。

元島民の方たちの平均年齢は80歳を超えており、一刻も早い解決が望まれる。12月に向けては、関係団体とともに署名活動や政府への要請行動を行う予定だ。

みなさんにもぜひ関心を持ち、交渉を見守ってほしい。北方領土の何が問題なのか、その歴史的経緯を知り、機会があれば、平和行動や交流事業に参加してほしい。そして、四島の「現在」の姿を見て、「未来」に向けて何ができるのか一緒に考えていければと思っている。

扇谷浩彰

前・連合連帯活動局長(現・連合組織拡大・組織対策局長)

※こちらの記事は日本労働組合総連合会が企画・編集する「月刊連合 2016年11月号」に掲載された記事をWeb用に編集したものです。

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