PLANETSチャンネルにて好評毎月連載中の稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 の前月配信分を、月イチでハフィントン・ポストに定期配信していきます。
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PLANETSチャンネルで好評連載中の稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』。第4回は、その「ウェブカルチャーの系譜」を辿っていくための補助線として、思想家・浅羽通明のメディア/コミュニケーション論を読み解きます。90年代前半の「ゴーマニズム宣言」にも強く影響を与えた浅羽通明という気鋭の論客は、なぜゼロ年代に迷走に陥ったのか――。「オナニスト」「職能の協働」をキーワードに、その限界と現代的意義を問い直します。
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※この連載の最新回(第5回「つながるものを扱うために」(3月17日配信))はPLANETSチャンネルに入会すると読むことができます。
稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。
博報堂ケトルの嶋浩一郎氏が以前、(正確な言い方は忘れたが)BRUTUSで「ソーシャルメディアの登場以降、一般的なニュース記事が受けるようになってきた」ということを話していた。これは筆者にも実感がある。実際、現在でもポータルサイトのトピックス流入などでは、硬派な政治や経済のニュースにPVが集まることは少なく、そんな記事よりも「きのこたけのこ戦争」や「ノーバン始球式」の方が遥かに高いアクセスを叩き出す現状がある。しかし、そのくせFacebookのような場所では、妙に政治や経済のニュースが流れてくる。
その記事で面白かったのは、確か嶋氏がその理由として「ソーシャルメディアでつぶやくから」と言っていたことである。そう、TwitterやFacebookで自分が見ているニュースをつぶやくことは、自分がどんな記事を読んでいるかの態度表明なのだ。そのとき、普段は「はちま起稿」だの「netgeek」だの「ロケットニュース」だのばかり読んでいる人間であっても、Facebookでは知的な仲間たちに向けて朝日新聞のピケティの書評記事でもつぶやいておくかと考える。まあ、ありそうな心理ではないだろうか。
実際、筆者自身もタイトルをつける仕事をする際には、多少の釣り要素を考慮すると同時に、それをTwitterでつぶやいた人が周囲に良い顔が出来る文言になるように気をつけている。これは実感ベースではあるのだが、極端に不快であったり、内容からかけ離れた釣りタイトルの記事は、アクセス率は高くなるものの、やはりつぶやかれる確率は下がっているように思う。
いずれにせよ、こういう話から見えてくるのは、単純にニュース記事を消費すると言っても、そこに他者の目があるか否かで、そのあり方や拡散の度合いは大きく違ってくるということだ。一方でそれを意識するかは、アーキテクチャの問題であると同時に、当人の自意識の問題でもある。それは、かつてリアルの満員電車において、おしゃれな表紙の雑誌を見せびらかす自意識過剰な若者がいた一方で、堂々とスポーツ新聞のエロ記事を他の乗客に向けて読んでいたオッサンもまた、いくらでも存在していたのと同じことである。
前回から私が、電話という原始的な形態のコミュニケーション媒体に的を絞って、一種の他者論を展開している理由の一つは、まさにここにある。電話のアーキテクチャそれ自体に注目すれば、それは1対1で人間がコミュニケーションしあうメディアである。しかし、そこにおいてすらも電話の向こう側にいる他者をどのようにイメージするかは、究極的にはユーザーに委ねられていた。
では今回、私たちが考えるのは、一体どうイメージされた他者なのか。私は前回、富田英典は他者と1対1の関係を取り結ぶ場合を考え、吉見俊哉は1対Nの関係を取り結ぶ場合を想定しているとした。その比喩で言えば、ここで考えるのは、言わば「1対ゼロ」の関係とでも言うべきものだ。そこでは、人間は自分とのみ関係を持つ。あるいは、この言い方が持って回って響くなら、単純に「孤独」なユーザーたちと言ってもよい。これが最後の電話ユーザーの類型である。
この「孤独」にインターネットで活動するユーザー像というのは、かつてのネット論においてはむしろクリシェだった。例えば、パソコン通信、ホームページ、2ちゃんねるなどの匿名掲示板......そうした場所は事実、社会からも家族からも切り離された「個室」で孤独に展開されてきた趣味や自己イメージが、膨れ上がった自我そのままに表出したような空間だった。だが、そうしたパソ通やHPの思い出も、もはや「黒歴史」という言い方で回顧されることが増えた。この言葉の台頭がソーシャルメディアの流行に伴い、リアルグラフとネット上のバーチャルグラフが一致していく時期に当たっていたのは象徴的だ。
その一方で、この「個室」における孤独な消費は、現在も静かに拡大を続けている。例えば時折、有名サービスのレコメンデーションやランキング機能に思わぬ商品が登場して話題になることがある。数年前には、Amazonで硫化水素入りのトイレ洗剤のページに、ポリ袋などの商品がレコメンドされることが話題になった。あるいは先日、筆者が体調を崩してAmazonで健康グッズを調べていたところ、ジャンル内の人気商品として巨大なバイブレーターが登場してきて、思わずのけぞった。もちろん、多くの日本人にとって肩こりは悩みの種であるが、さすがにこれを多くの人間が必要とするほど病が進行しているとは思えない。
▲Googleで「夫 こ」と打ち込むとこのように表示されます......。
こんなふうに誰の目も気にせず孤独に使う類のサービスで集積されたデータが、ふいにランキングやレコメンデーションという形で「表象」の場に引きずり出されたとき、私たちはギョッとする。それは、「孤独」に利用するインターネットというあり方を、いかに私たちが意識の奥に追いやっているかを静かに告発する。だが、他者の視線に晒されてFacebookやLINEを使う時間と、一人Amazonやpixivで気の向くまま消費活動を行う時間―― 一体、本当のあなたはどっちにネットの時間を割いているのだろうか?
「忘れられた思想家」浅羽通明
さて、そろそろ本題に入ろう。私は今回、この「1対ゼロ」、すなわち「孤独」な電話ユーザーのことを考えた一人の思想家について考える。彼は、そんな電話ユーザーたちを「オナニスト」と呼び、激しく批判した。そして彼は、ほとんどその後の作家人生を賭けて、この問題を考え続けた。その人物の名を、浅羽通明という。
もしかしたら、PLANETSの読者には、この名前に懐かしい感情を抱く人は多いかもしれない。だが、多くの読者は聞いたこともないだろうし、もはやWikipediaに書かれていること以上に、手短に浅羽を説明するのも相当に難しい。
例えば、彼がかつて小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』にブレーン的に関わっていたと言っても、いまやその後に『戦争論』を書いた小林が一周回ってネトウヨの敵になっているという、タイムマシンに乗って当時の読者に話したらキョトンとされそうな時代である(いや、意外とそうでもない......?)。同様に、当時の浅羽の「おたく」批判も、現代ではもはや文脈を違えてしまった。その矛先は大塚英志のような彼と同世代のインテリ趣味人としての「おたく」、後の言葉を使うならば「第一世代オタク」に向けられたものであって、そこにこそ彼の「おたく批判」と「知識人批判」が同一の地平で行われる理由もあった。しかし、既にオタクの世代も何度も入れ替わり、今や「ヲタ」は単なる趣味のカジュアルなカテゴライズ以上のものではなくなっている。
しかも、浅羽はインターネットを嫌っていた。そのことは、後述するライブドア事件に寄せた識者コメントや、その認識の延長線上に書かれた『昭和三十年代主義』(幻冬舎・2008)を読めば分かるように、近年の彼の言論からアクチュアリティを奪っている。
だが、それでもなお浅羽が問い続けたテーマを、私たちは考え直さねばならない。それは、こうして彼の問題意識が失効されていった過程に、現代を覆う消費社会の中でのインターネットの立ち位置もまた見えてくるからである。したがって今回は、この浅羽を通じてネットと「孤独」を考える。実のところこの話題、本連載における主題(※)からは些か脱線気味なので、サラッと片付けるべきだとも思ったのだが、重要な割にほとんど議論されていない問題でもあるので、むしろ一回分を割くことにした。おそらく、本メルマガが事業者に取材して回っているECサイト等の生活系サービスや検索エンジンの問題系、あるいは尾原和啓氏による連載「プラットフォーム運営の思想」を読者が考える補助線になるはずだと思う。
(※)前回にも記したように、本連載はむしろ吉見俊哉の「1対N」のモデルに大きく寄せて、ユーザー文化論を展開していく予定である。
浅羽とオナニスト――1.なぜそれは"おぞましい"のか
まずは、浅羽の考えるオナニストとは何かを確認しよう。
「他者は、それが一個の人格である以上、「私」と同じように、「私」を眺め、「私」を観察する。他者には視線があるのだ」(『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』p86)
これは著作『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』(青弓社・1993)で浅羽が引用した、澁澤龍彦のエロティシズム論の一節である。浅羽は視覚とエロティシズムを結びつける視覚的な快楽の追求(「眼の欲望」)が、強引に対象を切り取り、対象をモノと化す行為であることを指摘する。そして、それが同時に「私」を観察する異性という他者への怯えと裏腹であることを指摘して、こう語る。
「かくして「眼の欲望」の時代は、その裏面としての女性の視線におびえる童貞青年が増大する時代となる。彼らは「視線を意識しないで済む」「物(妄想のなかの死んだ相手)」が相手でなければ、性行為ができないオナニストたちなのである」(同書p86)
ここで浅羽は「視線」を媒介にして、オナニストを説明している。せっかくなので、前回までの議論とこの浅羽の論を接続してしまおう。吉見にとっての「電話(伝言ダイヤル)の相手=他者」とは、演劇場の観客のような複数形の「他者」の眼差しとしてあった。しかも、それは未来から投射される故に、原理的に制御できない受動的なものだ。一方で、富田にとっての「電話(ツーショット)の相手=他者」とは一対一で向き合う、現在進行形で調整可能なものとしてあった。そこでは都市で登場するような見知らぬ他者を排除した、親密でほとんど自分と一体化した存在として他者をイメージできる。それは最終的に、互いに鏡写しに自らの視線の反射を確認しあうような姿になる。
それに対して、オナニストにはそもそも自らを眼差す他者がいない。その代わりに、ただ徹底的に能動的に対象を眼差すのである。浅羽は、この眼差しの特徴について、「見るという関係性が優先してしまうと、もはや相手と溶け合うことができない」と表現する。その眼差しが人間に向けられたとき、それは極端に視覚に偏った、相手の内面に宿る個別性を徹底的に無視する、類型的で表層的な人間把握へと至る。そして浅羽は、その志向が一線を越えたときに、博物館の陳列ケースに過去の剥製を蒐集し続けるが如き、自立したデータベースを築く意思が生じるという。まさに"おたく"である。
実は、このオナニストが浅羽の著作に現れたのは、このときが初めてではない。例えば、遡ること四年前のブックレット『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』(JICC出版局・1989)所収の「伝言ダイヤル症候群 どこかの誰かが上手くやっている」において、それは主題として論じられた。これはまさに伝言ダイヤルについて、若き日の浅羽が論じた文章でもある。
この中で浅羽は強い調子で、ほぼ全編にわたって伝言ダイヤルを批判した。それは激しく感情的なもので、例えば後に評論集『天使の王国―「おたく」の倫理のために』(JICC出版局・1991)で同時に収められたセブン-イレブンを巡る、ほとんど現在のコンビニ論としても通用する理知的かつ網羅的な論述とは、対照的でさえある。ここで興味深いのは、浅羽が吉見とは全く別の認識で「伝言ダイヤル」を捉えていることだ。例えば、冒頭で浅羽は、吉見が「間接話法」と呼んだ伝言ダイヤルの話法を、にべもなくこう切って捨てる。
「彼らの話法が、とんねるずに代表されるTVのバラエティ番組の若い司会者もしくはラジオのパーソナリティの語り口のコピーであることはまず明らかだ。それは多少の訓練で即、口をついて流れ出してくるくらい、彼らの耳に親しい話法なのだろう」(『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』p32)
日本のカルチュラル・スタディーズの第一人者・吉見俊哉が、後に「他者のまなざし」を観客とした即興劇として描いた伝言ダイヤルも、気鋭の若手おたくライター・浅羽の手にかかれば、単なる芸人口調の安易な劣化コピーでしかない。では、浅羽にとっての伝言ダイヤルとはどんなものか。浅羽は、見知らぬ他者のコミュニケーションが、本来は相互警戒のプレッシャーを解く場面から始まることを指摘する。しかし、伝言ダイヤルではそれを失わせるどころか、声と断片的情報しかないことから、むしろ手前勝手な妄想を相手に抱けるのである。
「相手方の他者性は希薄となり、半ば己の妄想を相手とする相互オナニー的交流が始まることになる。部外者にはなんとも異様に聴こえる演技過剰な伝言メッセージの語りの定形は、自分の他者性を希薄化するためのルールに他ならない。それは相手も当方も、他者ではなく己の妄想を相手にすれば済むように、各自を声のオナペット化する技術であった」(同書p33)
ここでも、吉見と浅羽の論はすれ違う。吉見においては、むしろ自己の声さえも他者性を帯びるのが、伝言ダイヤルにおける発話だったからだ。一方でこの認識は、吉見よりもむしろツーショットにおいて富田が指摘した「ナルシシズム」に近いようにも見える。だが、ここでは自らの欲望を動物的に満たす対象=オナペットとして、相手が利用されている。比喩的に言えば、富田において電話相手は自分自身だが、浅羽にとってはただの妄想にすぎない。そして、富田は実はこうした電話コミュニケーションを現代人が自己愛を調達する手段として必ずしも否定的に捉えてはいないが、浅羽の認識においてはもはや自己愛すらも存在しないのだろう。あるのは一方的な眼差しであり、ただコンビニでオニギリを買うように、即物的な欲望のはけ口として相手を消費する行為だ。若き浅羽はその醜悪さに唾棄する。
「どことなく長電話に伴う後ろめたさ、いたずら電話やテレフォン・セックスの醜悪さも、おそらく他者である相手を、オナペットと化して、相互にオナニーを楽しんでいるというおぞましさに由来するのだろう。費やされる膨大な性的想像力によって電話の彼方の異性を、こちらの思うがままのオナペットと化す点において、ヌードや下着から性的欲望を喚起する視覚によるオナニズムの場合とはまた異なって、電話のオナニズムはおぞましい」(同書p33)
浅羽の論はその後『メンズ・ノンノ』が創刊された1985年頃に、社会に"普遍的な"「オナニズム」が誕生したとして、消費社会論の視点からその成立の分析を展開させていく。その内容そのものも興味深いが、むしろ重要なのは、オナニズムに対する浅羽の興味が、消費社会論と強く結びついていたことそれ自体だろう。浅羽は消費社会そのものの達成には極めて肯定的な思想家だった。だが、そんな彼がここでは激しく動揺し、終始書きなぐるようにして憤り続ける。それはなぜなのか。
先に挙げた著作『澁澤龍彦の時代』も、実はこの電話論で表明された「憤怒」の延長線上に位置づけられる。糸井重里の西武百貨店のコピー「ほしいものが、ほしいわ」に象徴される消費社会とは、まさに他者の目を気にしないまま「孤独」に欲望を満たす生き方が(都市の若者には)可能になった社会でもあった。その「オナニスト」の生き方こそが、浅羽もその一人であったおたくやニューアカに純粋な形で象徴される、消費社会に登場してくる新しい「生」のありようであった。
だが、それは当時の浅羽の目には危機に瀕していた。本の冒頭で浅羽は、同世代のニューアカ周辺にいた物書きたちが、チェルノブイリ原発、湾岸戦争の光景、そして何よりも埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)に激しく動揺し、浮き足立ったことを苦渋とともに語る。その動揺の所以は、浅羽が語るところでは、自らの自閉的な生き方のもたらす末路を、そうした事件の陰惨に見出したからであった。とすれば、伝言ダイヤルにおける浅羽の動揺もまた、まさにその点にこそあったのではないか。例えば、浅羽は伝言ダイヤルにおけるオナニズムの、情報の交換と己の妄想によるイメージ補填に、一種のワナビー構造を見出している。互いに芸人口調を真似し合い、「上手くやってる」ナンパ師になった気分を味わい合う。その怠惰な遊戯に、当時の浅羽はほとんど国の危機すら憂う調子で筆を進める。だが、そこには後に、彼がニューアカ批判の文脈で反省的に語った、自身の似姿を見出してはいなかったか。
そして、そんな最中に浅羽は「オナニスト」であることに堂々と居直るばかりか、それをモラルの糧とした澁澤の文章に出くわし、瞠目したという。浅羽にとって、人形やゴチックを愛好した異端の文学者・澁澤龍彦とは、まずはそんな「オナニスト」の青年たちの早すぎた先駆者としてあった。そして、1993年の浅羽がこの『澁澤龍彦の時代』で問うたのは、早すぎた「オナニスト」であるはずの澁澤が、何故に健康で、意外にもモラリストの相貌さえある精神性を保ち得たのかという問いだった。つまりは――なぜ澁澤龍彦は宮崎勤にはならなかったのか。その謎をひたすらに追求したこのとき、浅羽の「オナニスト」は克服さるべき消費社会の時代精神となった。そして、その最終的な解答は、小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』と並走した90年代の充実した成果を経て、「世間」「分際」「職能の協働」などの一連のキーワードからなる処方箋へと結実していくことになる。
浅羽とオナニスト――2.処方箋としての「職能の協働」
では、その最終的な解答とは何だったのか。それはある時期以降の浅羽が何度となく取り上げた劇作家・福田恆存の、この言葉に行き着くのではないか。
「人間は生産を通じてでなければ附合へない。消費は人を孤獨に陥れる」(『消費ブームを論ず』福田恆存)
浅羽の「オナニスト」への問題意識は、ほぼ消費社会が可能にした孤独で自閉的な生き方から、人間がいかに脱却すべきかという問題意識としてあった。その処方箋として浅羽が見出したのは、消費の裏側に常に張り付いて存在する「生産」という営みであった。実際、生産という行為には人間関係の側面がつきまとう。例えば、別冊宝島110『80年代の正体!』(宝島社・1990)に書いた先駆的なコンビニ論で、浅羽はPOSデータの分衆マーケティングで陳列されたコンビニ商品の消費に、新たな共同性の萌芽を見出そうとする。それはそれで現代のセブンプレミアムにまで繋がる優れた知見だが、別に当時からコンビニのバイト同士や店長の間には、普通に人間関係は存在したであろうし、その司令塔たる本社では普通に「カイシャ共同体」が営まれていたに違いないのである。
では、いかにして浅羽はこの処方箋に至ったのか。駆け足で見ていこう。『澁澤龍彦の時代』の結論部において、浅羽は澁澤の来歴を追いかけた果てに、彼の幼年期のエッセイから脈々と見いだせる「専業者のユートピア」とでも言うべき思想を見つけてくる。
「なんでも知っている少年少女と、仕事ぶりを見ているだけでも惚れ惚れする職人。トンボ捕りの名人の少年と標本作りの名人の少年。己の独壇場となる小宇宙を抱く者同士が、その得意技を組み合わせる協働を基礎においた友誼で結びつく社会。二つのエピソードの背後に、澁澤龍彦が希求していたそんなユートピアを窺うことはできないだろうか」(『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』p351)
例えば、澁澤龍彦は女性が社会的職業に就きたいという動機として「社会的視野」を挙げるのに批判的である。それは、性差別にもとづくものというより、彼の職業倫理に抵触するのだ。澁澤には、専業主婦という仕事に「社会的視野」がなく、日がな一日オフィスに座るホワイトカラーの方にはあるという安直な発想に我慢がならないのだ。
「真の専業者は、「私のいるところに社会がある」という強い信念を表明することのできる人間なのだ。すなわち彼ら彼女らは、自分が日々磨いた専業の腕により、客とか家族とかにとってかけがえのない存在になっていることが充分に自覚できるからである。専業者は、その専業を他人様が必要とする関係によって、社会と堅く結びついているのである」(同書p352)
オナニストは、自分自身としか関わらない。他者と自らの必要に応じてしか関われない「孤独」な人間だ。そんな彼らの社会との接続の希望を、端的に言えば浅羽は「仕事」に見出したのである。そこには(富田の言う意味での)ナルシシズムに満ちた全人格的な承認も、吉見のいう「他者の眼差し」のもとでの演技もない。そこでは職能において、「人さまが必要とする関係」においてのみ、互いの断片的な技能が求め合われる。この浅羽の「専業者のユートピア」とでもいうべき処方箋は、やがて小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」にブレーンとして関わる中で、『ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』(幻冬舎・1996)において一種の運動論の文脈で提唱された、抽象的な「個」の連帯ではない具体的な持ち場を手にしたプロによる「職能の協働」という言葉へと結実していくことになる。
地下鉄サリン事件の直後に出版された『思想家志願』(幻冬舎・1995)で浅羽が書き下ろした論考に、「宇宙大に膨張した偏差値エリートの自我」と題された章がある。浅羽はここでオウム幹部たちの発言に、ある共通した特徴を見出す。実は、彼らの多くは高学歴で、弁護士や一流商社などに勤めていた者も少なくない。しかし、彼らは自らの職業の非力さに絶望して、オウム真理教へと入信した人々だった。公害裁判では患者の健康を救えないと悩む弁護士、学問では人間の魂を救えないと悩む障害者教育の研究者、西アフリカの貧困に苦しむ人類学者......その彼らの発言に浅羽は「神に等しいレベルにまで引き上げられた」自我の肥大を見出し、こう詰る。
「せめて勝訴して少しでも多額の賠償金を勝ち取ること。せめて障害者教育を充実させて人間レベルでの救済を一歩でも前進させること。一弁護士として、福祉事業に携わる者として、それが可能な限界というものであろう。(略)だが、人間には許されていない「絶対的救済」を本気で考えたときから、もう彼は彼女は狂人か人非人になってしまう」(『思想家志願』p16)
「神秘主義とはコミュニケーションの否定である」という章もあるこの論考で、浅羽はオカルティズムに傾倒したオウム真理教を、明らかに「オナニスト」の集団とみなしている。だが、考えてみれば、彼らこそは専業者としてのマジメな悩みから、オウム真理教へと入信したのではなかったか。とすれば、むしろ専業の行き着く先としてこそ、社会の転覆は夢見られるとも言えるのではないか。
この時期から、浅羽の文章にはある単語が登場するようになる。それは「世間」である。これは「職能の協働」と緊密に結びつく形で、浅羽の議論の中核を成していく。
「世間」という言葉は、歴史学者・阿部謹也が『「世間」とはなにか』(講談社・1995)などで提唱した概念である。阿部によれば、日本には欧米のような自立した「個」による「社会」は存在しない。しかし、代わりに日本には人々は「世間」という一種の中間共同体に自らの存在を溶かしたあり方で存在しているのだ。この「世間」というキーワードは、一般用語としてはあまり肯定的に使用されるものではない。しかし、それは同世代の高学歴の「知識人」「おたく」が、「世間」ずれした挙句に起こした1995年のオウム事件の狂騒を経て、浅羽にとってはほとんど「オナニスト」の救済の最終着地点とでも言うべき、かなりの程度まで肯定的なニュアンスを帯びた言葉になっていく。
というのも、この「世間」の存在こそが、「職能の協働」という処方箋を支える下部構造だからである。先に引用した澁澤論に「己の独壇場となる小宇宙を抱く者同士が、その得意技を組み合わせる協働を基礎においた友誼」という一節があった。この、「己の独壇場となる小宇宙」は、日本においては「世間」に溶けた形で"個"があることから「世間」への所属となる(※)。
そして、オウム真理教事件を経た浅羽にとって、人間は「世間」を超えることはできず、また超えるべきでもなくなった。浅羽は「分際を知れ」と言うようになる。世間を超えたとき、人間は全能感を得る代わりに、必ず孤独に陥れられる。それはやがて、サリンを撒く宗教のような反社会的存在へと転化していくのだ。
その視点から、徹底的に啓蒙的な意思で書かれたのが、浅羽の現在では最も入手しやすい一冊であるロングセラー『大学で何を学ぶか』(幻冬舎・1996)である。
浅羽はまず冒頭で、本の題名が現代でいうところの「釣りタイトル」であったことを明かす。そして、こんな題名の本に興味を持ってしまう「いかにもまじめなきみ」に向けて、時間をかけて練り上げられた処方箋を、ほとんど仏教の方便の趣さえある語り口で、説いていくのである。興味深いのは、ここで浅羽が「世間」をほぼ「会社」を中心とした共同体と規定して、議論を進めていることだ。澁澤の原風景としてあった「職人のユートピア」を、実質的に浅羽は「カイシャ共同体」に置き換えた。こうして、「職能の協働」とは、ほとんど何らかの職業への所属と等しいものになった。ここにおいて、浅羽のオナニスト救済プログラムは、現実的な着地点として一つの完成を見たと言ってよいだろう。
(※)ただし、知識人と「世間」の関係に対しては、浅羽の立場はいささか異なる。浅羽は、むしろ複数の世間の間を往来しながら豊富な教養で処方箋を当てていく「開業知識人」としての立場を提唱する。(『教養論ノート』幻冬舎・2000)
「生産」による処方箋は現実的なのか
さて、この浅羽の処方箋を見て、皆さんはどう思うだろうか――率直に言って、若い読者には「これが思想家の仕事なのか?」と思った人も多いのではないだろうか。そう思われたのなら、まずは筆者の要約センスが悪いので謝るしかない。実際に読めば分かるように、浅羽の著作は博識に満ちた引用と、評論の醍醐味とも言える逆説のロゴスが全編にわたって繰り出される、大変に面白く知的な刺激にあふれた本である。しかし、その挙句に多くの主著で登場する主張が、素直に解釈すれば「とっとと仕事をして、社会を知れ」というお説教になるのもまた、否定出来ない事実なのである。
これについては、2015年の現在から二つ言えることがある。まず一つは、「消費」の側面における事態の進展である。それは現在では都市から地方へとより広範囲に広がった一方で、多様化しているといえる。例えば、昨年の本メルマガでジャーナリストの仲沢隆氏に、日本におけるロードバイク受容の歴史を聞いたことがあった。
▼参考記事
その際に彼は、ヤフオクの登場がリアルのショップが充実していない地方でも、ロードバイク文化を楽しめるようにしたことを語っていた。その一方で氏の話では、日本中に眠っていた様々なレアなパーツたちが、オークションを通じて日本中のマニアたちの間で次々に交換されていったという。このネット上での動きが、現在に至るロードバイクブームに大きな影響を与えた。仲沢氏もまたこうしたインターネットの動きにいち早く乗り、オークションでレアなパーツを集めたり、趣味の仲間に向けた情報を発信しながら、ジャーナリスト活動を行ってきた人物だ。こうしたCtoCのような消費がもたらす事態は、もはや福田恆存の語るような生産/消費を二分して、消費を孤独に対応させるような単純な議論では捉えきれないものになっている。
一方で、「生産」を巡る問題も難しくなっている。まず、仕事に就くことが、人間をなんらかの「世間」に帰属させることを保証させるものでは、既にない。浅羽が『大学で何を学ぶか』で大学生に説いた「カイシャ共同体=世間」は、21世紀に入りグローバリゼーションに伴う雇用の流動化によって、徐々に中間共同体としての性質を失い始めている。成果報酬は導入されて久しく、新卒の買い手市場の常態化で第二新卒での転職活動もかつての悲惨さは薄れた。また、かつて共同体意識を支えるのに貢献した手厚い福利厚生制度や、社内運動会などの催事は、大企業においてすら予算が縮小しつつある。では、フリーランスはどうか。こちらは、むしろかつての労働観の衰退に伴い、広く多様な選択肢として浮上した。部屋に一人で閉じこもり、チャットワークスやSkypeなどのツールを立ち上げ、HPに記載したメアドやクラウドソーシングから受けた仕事で生きる人々は、もう決して珍しくない。ライターにおいてすらも、かつての「ギョーカイ」のように「飲ミュニケーション」に精を出して仕事を請けることが、どれほど得策かわからなくなり始めている。
そして何よりも、一事に通じた「プロ」という存在が、必ずしも誰にとっても誇り高く、安定した自我を保てる存在ではなくなっている。例えば、途上国への格安の業務委託やITによる業務ツールのオートメーション化は、長期的に確実に一部のエリートを除く専門職を奪っていく。一方で、検索エンジンやCGMは、より細部において一芸に秀でた素人の存在を可視化し、プロと呼ばれる存在のほとんどが実はたまたまその職業に就けた人間でしかないことを暴き立てる。「スキマ時間を活かす」クラウドソーシングによる仕事の再配分などは、現状こそ常軌を逸したダンピングの横行などの問題を抱えてはいるが、やはりその認識を市場へと接続するものではあるだろう。
要は、インターネットの登場と、それがもたらした社会の「フラット化」によって、「職能の協働」の前提となる「世間」という存在が、(「世間」そのものは形を変えてむしろ強固に残っているとは思うが、少なくとも浅羽が考えたような形では)ぶっ壊れてしまったのである。一方で、オナニストがオナニストのまま、ある程度の不安定要素はあるにしても、孤独に生きることを可能にする選択肢が、まさにインターネットが拡大したこの十数年で広がり続けているのだ。とすればやはり、かつては切実な思索の対象となり得た浅羽の問題意識は多くが意味を失ってしまったのではないか。
"つながるその先"は存在しない
ここにおいて、浅羽の処方箋は意味を失った。その後の浅羽の社会観については、例えば以下のウェブ上で読めるライブドア事件におけるコメントに典型に現れているように思う。
確かに、昨今のピケティブームの背景にある資本制のある種の行き詰まり感や、地方のマイルドヤンキー的な感性の台頭をこの時点で、独自の世界史的な視座から捉えている点などは興味深い。だが、堀江や小泉への支持の背景にあった、ある種の世代間格差への憤りや、グローバルスタンダードを巡る桎梏は、既に浅羽の眼中からは消えている。代わりに見えるのは、自らの思想へと議論を沿わせるために、彼らの仕事をひたすらに高みから矮小化しようという冷笑的な意思である。
ただし、ここに一つ興味深い本がある。21世紀に入り浅羽が編著で関わって発売された『携帯電話的人間とは何か "大デフレ時代"の向こうに待つ"ニッポン近未来図"』(宝島社・2001)という、あまり知られていないムックである。
小泉内閣誕生からまだひと月と経たない時期に登場したこの本で、浅羽はJ-PHONEの開発者から認知心理学者、あるいは若者論に強いライター・今一生などに幅広く取材して、携帯電話の使われ方の実情を解き明かした。1999年のiモードをキッカケに、三大キャリア(Docomo、au、SoftBank)が次々にモバイルウェブサービスを立ち上げたこの時代、なかなか進まないパソコン市場の「IT革命」を尻目に、瞬く間に携帯電話は日本人の生活を変えてゆく。この本で浅羽はその理由を、広く社会学や心理学を援用しながら、解き明かす。後にヤンキー論の火付け役となった精神科医・斎藤環と、この時点でほぼ現代のマイルドヤンキー論を先取りする議論なども行っていて、浅羽の優れた現実認知の資質が最良の形で現れた、実は隠れた名著である。
しかし、一方でこの本は浅羽の著作歴の中で特異点とでも言うべき、奇妙な本でもある。例えば冒頭で浅羽は、ここまでの議論とは不思議にずれることを言い始める。彼は自分が90年前後の一連の分析で掴んだ高度消費社会の「要」は、「何を消費するかが大事かと見えて、誰と共に消費するかこそが、彼らの欲望の核心だった」と言い、かつてあれほど罵倒した伝言ダイヤルを、あっさりとこう表現してしまう。
「コンビニエンスストアは、深夜でも買い物ができる以上に、夜通し灯りつづけ、行けば誰か他人がたむろしている都市のオアシスだった。(略)『じゃまーる』誌や「出会い系サイト」の先駆となった伝言ダイヤルはいわずもがなだろう。これらは、よりダイレクトに、もはや消費の目的は、モノよりもモノを介して他人とつながっている実感のほうなのだと告げていた」(『携帯電話的人間とは何か』p23)
そして、浅羽は携帯電話の登場をこの文脈から捉えるのである。
「こうして、つながりを確かめたい欲望が、皆で同じ文化商品――皆が一緒に視聴するTVだの音楽だの――を享受することによって~という迂回路を必要としなくなったとき、若者たちにとって八〇年代を席巻したような特定のアイテムを追いかけるかたちの消費のほとんどは、いっせいに色褪せていった。そして、最後の一押しとして、ただ「つながり」を確認したい欲求だけを直截にかなえてくれる、迂回路を一切介さず即本音だけに応じてくれる商品が登場した。(略)すなわち、携帯電話とメールの時代がやってきたのである」(同書p24)
つまり、ここで浅羽は自らが書いたコンビニ論などで見出した、黎明期の高度消費社会の中にあった人間を孤独にするのとは真逆の「消費」の回路、人と人をつなぐ「消費」の現代版として携帯電話を捉え直すのだ。そのとき、伝言ダイヤルのオナニズムは、むしろ携帯電話の時代を捉え直す希望へと変わる。そして浅羽は、消費における「孤独」を「連帯」へと転化する可能性を検討し始める。
この本はその結果、極めて奇妙な一冊になっている。一方に優れたノンフィクションライターとしての浅羽が、いまやよく知られた携帯電話の様々なソーシャルな文化を明らかにしてゆく。それは、ほとんど現代のマイルドヤンキー論やソーシャルメディア論の早すぎた先駆としか言いようがないもので、この本の知名度が不当に思えるほど異様に優れている。
その一方で、思想家としての浅羽はメールと通話に「共同体」の可能性を見出そうと苦闘する。浅羽は、アンダーソンの『想像の共同体』やマクルーハンなどの様々な論を援用しながら、「つながるのその先」という言葉を繰り返すのだが、見えてくるのは単に承認欲求を満たし合う若者の姿ばかりなのだ。そうしてムックの最後の文章に至ったとき、ついに浅羽は福田恆存の「演技する人間」を引いて、携帯電話を手にした人々による「職能の協働」による「社会変革」のイメージを半ば強引に語りだす。この箇所など、携帯電話が当たり前にあった世代には、どう反応したらいいかわからないレベルの展開である。
もちろん、私たちには浅羽の躓きがどこにあったかは明瞭だ。そもそも――人間が「モノ」を求めることと、人間が「他者」を求めることは別なのだ。そして、「他者」を求めるときに、吉見の言うような1対Nの「演技」として関わるか、富田の言うような1対1の「一体化」として関わるかも、また違う。この本は、携帯電話の「1対1」関係としての性質をフィールドワークで雄弁に語りながら、論としては「オナニスト=1対ゼロ」を「1対N」関係に開く魔法のツールのように扱おうとして、どうしようもなく挫折してゆく本である。
その後、『ナショナリズム』や『アナーキズム』などの啓蒙的な新書を経て、2008年に上梓された『昭和三十年代主義』(幻冬舎・2008)には、もはや浅羽のかつての問題意識の残骸が転がっているばかりだった。当時の昭和ブームを受けて書かれたこの本で、浅羽は「職能の協働」の理想を再び掲げようと試みる。しかし、浅羽の知性は、その前提となる「世間」の崩壊を目ざとく見つけてしまう。その結果、主要部分の主張では、常に宮藤官九郎のテレビドラマ『木更津キャッツアイ』の第八話や映画版のワールドシリーズ、宮部みゆきの小説『模倣犯』、筒井康隆のユートピア小説『美藝公』などのフィクションに頼らざるをえない。
少々気味が悪いのは、上に挙げた作品たちがユートピア主義であったり、あるいは私人が捜査活動や地方自治などの、本来は公的機関が然るべき過程を経て行う行為へと介入する物語であったりすることだ。むろん物語であるから、それは甘美に正義として描かれる。だが、上の三つの浅羽の解説を読み返してみたときに、ふと「まるである種のネットユーザーみたいな物語だったな」と思ったのを告白しておく。戦前の日本の過剰な美化(『美藝公』)や、生活者の視点を傘に着た過剰なメディアへの敵意(『模倣犯』)、そして私人が徒党を組んでの正義の執行(『木更津キャッツアイ』)――それらは、ネット以降にコメント文化圏で栄える、新しい「オナニスト」たちの姿そのものではないのか。
こうして見たとき、浅羽の処方箋の破綻は、果たして放置できることなのかという問いが再び浮上する。このゼロ年代における浅羽の迷走とそのたどり着いた先にあるもの――それは、浅羽がかつて95年に見た「悪夢」の萌芽のようにも思える。そう考えたとき、インターネットにおけるある種のクレーマー文化圏や、炎上中の2ちゃんねらーの行動こそが、情報技術によって「世間」を経由させることなく、個室の中から最も強力にアドホックな「職能の協働」を実現させているのは皮肉に思える。そのことを私たちはどう考えるべきなのか。いずれにせよ、かつて浅羽が挑み、そしてもはや忘れ去られつつある「オナニストはいかに救済されるべきか」という問題は、現在もなお終わってはいない。
(続く)
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稲葉ほたて(いなば・ほたて)
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