2度目の刑事裁判が行われた。
前回の公判で終えることができなかった25項目をめぐる攻防。だが実際に原告側が問題としている「同志的関係」という単語は、指摘された部分以外にも何度も出てくる。そうかと思うと、他の学者の文章を引用した部分まで、まるで自分が述べたかのように指摘された部分もある。笑えない皮肉。告発自体もそうだが、こういった不正確さと、それに伴う消耗を、私は2016年現在の大韓民国を象徴するもう一つの現象であると思う。ナヌムの家からの告発、検察の起訴、そして学者たちの沈黙と加担が示すものも、また同様である。
1月に下された民事裁判の判決文は、多くの項目について「意見の表明」であり、名誉棄損に該当しないとした。「意見の表明」とは「事実の摘示」ではないことを意味しており、刑法上の名誉棄損に該当するのは「事実を摘示」した場合のみである。そういった基準によって民事判決は、原告側が指摘する項目の多くについて、名誉棄損ではないという判断を下したのである。
しかし同時に、自分の考えは「意見の表明にすぎない」と主張しなければならないことに、私は複雑な心境だった。なぜそう主張したのか理解されなければ、ただ逃げ出すための言い訳にしか聞こえないからだ。
考えてみれば当然のことだ。あらゆる学問が実は仮説でしかない。
仮説(考察)が正しいかどうか(真実かどうか)を判断するには、時間、つまり歳月が必要となる。もちろん同じ時代の同じ空間にも、鋭い判断ができる人間はいるものだが。
私の本は過去20年以上、韓国社会に定着している「常識」に対する異議を提起するものだ。したがって私の考えは、どこまでも現時点で考えうる「私の真実」でしかない。共感してくれる人がいたなら、真実の可能性の空間が広がるだけだ。
検察は「仮説」としての学術書に「事実を摘示」したという前提で詰め寄ってきたわけである。そうしながらも「自分たちが設定した事実」とは異なる「事実」を私が述べたと主張している。これもやはり、皮肉以外の何物でもない。根本的な矛盾、根本的なねじれ。学術書をめぐる法廷とはそのような空間だった。
裁判官が提示した5規則に照らし合わせてみても、私の本には全く該当事項がないようだ。検事がわざわざ私が「事実」を述べたと主張する理由でもある。同時に、規定が定める内容に抵触さえしなければ「無罪」となる法廷の論理自体、私にはもう一つの根本的な矛盾だと思えてくる。法は、国家に似ている。
以下の攻防もまた、実際の内容だけでなく、口に出す機会すら得られなかった考えを含んでいる。しかし、追加で書面提出した内容でもあり、実際の攻防からも、大きく逸脱していないはずだ。
いつかは速記録が公開されるだろうが、当日のメモを元に整理したものであり、順序などが完全に正確ではない可能性はある。
第1回公判と同様に、ここで検察が提起した発言のほとんどが、学者をはじめとする批判者によって、すでに提起された意見であったことを言っておきたい。つまりこれは、批判者に対する本格的な応答に先立つ、簡略版のテキストでもある。
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検事:朴裕河の本は慰安婦の方々を売春婦扱いしている。つまり「事実の摘示」であり「事実」を描いた本だ。
答弁:私は慰安婦を「ただの売春婦」とする人たちに対し、彼らの考えは正しくないと述べようとした。それは言うなれば、慰安婦を再定義する作業だ。そしてそれは既存の支援団体の主張する「性奴隷」と重なる部分もあるが、同一ではない。「性奴隷」という概念が本来どのように形作られ、運動の過程においてどう変質したのかについては、追ってまた述べたい。
検事は、からゆきさんや日本人慰安婦とは異なると主張するが、からゆきさんもまた、ほとんどが騙されたり、売られたりすることで「売春婦」となっている。1970年代初めに巨匠・今村昌平監督が、からゆきさんに関するドキュメンタリーを作成しているが、この作品でも如実に描かれている。
朝鮮と日本の慰安婦の間には、差異や差別が存在していた。むしろその差異を把握するために、私は彼女たちが「女性」として遭遇した体験が基本的に同じ構造からなることを述べようとした。その差異を否定し、単純化することは、事態を正確に把握せずにおきたいという欲求のなせる業だ。
朝鮮半島に暮らし、出て行った日本人女性も少なからず 存在した。それだけを見ても、物理的な強制連行という主張の問題点を理解できるはずだ。もし、一部の学者が主張する通り、植民地にだけ、詐欺的な募集を容易に行うための法体系が存在していたとすれば、朝鮮を離れた日本人慰安婦についての説明が必要となるだろう。
検事:朴裕河はクマラスワミ報告書を引用し、(慰安婦が)「売春の枠組み」の中にあったとし「基本的に」や「根本的に」という言葉を多用している。朴裕河の記述が意見の表明ではなく「事実」であり「本質」を述べたものである証拠だ。
答弁:「売春の枠組み」とは本質ではなく形式について指摘した言葉だ。「枠組み」または「基本的に」という単語もまた、本質ではなく「構造」を示すために用いた言葉だ。
検事:アヘンの使用を「楽しむため」としている。これは「同志的関係」にあることを指摘したものであり、事実と異なる。
答弁:アヘン使用の問題にあえて言及したのは、慰安婦問題を扱ったアニメーションの創作の過程で、事実と異なる歪曲が加えられたからで、そういった歪曲への欲求の問題を指摘するためだ。アヘンを使用すれば「この世は自分のもの」と話した慰安婦の証言を引用したまでのことであり、それが苦痛を忘れるための手段であったと私は強調している。それでもそのような事実や感覚を否定せずにはいられないのは、性とは無関係の「純粋な少女」であるという認識にとらわれているからだ。さらには、そんな少女の枠組みを超えた慰安婦像を亡き者にしようとする暴力的な発想だ。これは文字通りの売春婦を排除して、慰安婦論議を形作ってきた20年余りの歳月が作り出した現象でもある。だが、自分たちの認識を傷つけないために慰安婦の感情を否定することこそが、慰安婦に対する差別だ。検察の考え方は、自分たちの主張を守るために、私の「考え」を処罰しようとする原告サイドの考え方ばかりを信頼した結果、作られたものだ。
何よりもまず、ここでいう関係とは、たとえ同等ではないにしろ、男女の関係に過ぎず、朝鮮と日本が同志であるという意味合いの「同志的関係」とは無関係だ。
検事:「娼婦」という表現を用いているが、これは事実の摘示であり、名誉棄損だ。その上、小説(のようなもの)を用いている。(だから虚偽の本だ)。
答弁:慰安婦が公娼制の延長線上の制度であったことは、山下英愛、宋連玉などの女性学者はもちろんのこと、その他にも多くの学者がすでに指摘している。証拠資料としても提出したので、ご参考願いたい。
また、「娼婦」とは、本文中で「朝鮮ピー」という日本軍人が使用していた単語を分かりやすく言い換えて引用したものであり、日本軍が「朝鮮ピー」は「娼婦」と認識していたという意味だ。その部分を取り上げて、朴裕河自身がそういって非難したかのように言うことは基礎的な読解力不足の結果だ。
検事:日本が不法行為を働いたにもかかわらず、朴裕河は法的賠償を認めていない。自身の解決方法を主張する目的でこの本を書いている。
答弁:私はこの問題をまず、女性問題ととらえている。だが同時に、朝鮮人慰安婦の場合、植民地支配が引き起こした問題であるとみている。そのため、1910年、1965年、そして1990年代を考察し、この問題で韓国と日本双方がどこで接点を持てるかについて、自分の考えを述べた。それは私の考えに過ぎず、たとえ問題があるとしても、名誉棄損とは無関係だ。また、いわゆる不法論は、1990年代の北朝鮮の法学者の主張に依拠している。その判断は「国家が強制的に連行した」「虐殺を行った」という理解に基づいている。そういった前提自体が正しいことばかりではないと判明しているにもかかわらず、20年が過ぎても、慰安婦問題では既存の論議の主軸をなす学者たちが相変わらず、この主張に依拠している。これは怠慢であり、大きな欺瞞ではないか。
検事:強制連行はなかったというが、文書がないからといって、拉致がなかったといえるだろうか?北朝鮮に拉致された日本人の場合、文書がないから強制連行ではないといえるのか?
答弁:(当然のことだが、検事は慰安婦問題関連の既存の論議を忠実に代弁していた。同時に、あまりにもうわべだけの論議を援用していた。正確には別の話を持ってきて、朴裕河は正しからぬ歴史認識を持っているというように強調し、聞いた人が私に対して否定的な認識を持つように誘導した)。
私は文書がないという理由で強制連行がないとしたわけではない。しかも、植民地化した朝鮮半島では「公式的に」なかったとしたまでだ。「公式的に〜」とは、動員を要請したとして、それが必ずしも拉致や誘拐まで認めたわけではないという意味だ。実際に、日本軍は業者の契約書を確認し、あまり幼い少女が来た場合、送り返したという話が慰安婦の証言に存在しており、騙されて連れてこられた時は、他の職場に就職させる措置をとることもあった。初めは国家による物理的な強制動員だったと主張していた者も、そうではないと知ると、今度は募集依頼がすなわち強制動員であるかのように主張した。偽善であり、欺瞞である。結局、慰安婦にまつわる真実(歴史)より「法的責任」を負うべきだと考える我々韓国人の考え(現在)が優位に立った主張であるにすぎない。
検事:同志的関係という言葉は侮辱だ。
答弁:本の小見出しに「軍需品としての同志」とつけた箇所がある。この小見出しが私の意図を物語っている。私は「同志的関係」という言葉にかなり低次元の意味しか与えていない。言うなれば、当時は国籍上、日本人であったことを想起させようと意図した単語だ。戦争の相手国という「敵」の位置ではなく、むしろ戦争を手伝うよう要求された存在だったと述べるための表現だ。あえてその作業をしたことで、「同志」(植民地化、日鮮同祖論、内鮮一体)という関係の中にある表沙汰にならない差別と、国家による国民動員が招いた個人の犠牲であったことを述べようとしたものだ。
検事:慰安婦は愛国者ではなかった。証拠がない。協力者ではない。
答弁:当事者の体験一つ一つが貴重な歴史だが、それがすなわち自らが遭遇した物事の構造を把握していることを意味するわけではない。学者の仕事とは、数多くの事例を検討して、言うなればパズルを合わせるようなものであり、そのパズルが形を持ちはじめたときに見えるものを「構造」として説明することだ。したがって、慰安婦が心からにせよ、形だけにせよ、「愛国」の構造の中にあったかどうかは、どこまでも分析者の意見に過ぎない。実際に肯定的に内面化していた人がいたとしても、それが生きていくためだったとすれば(恋愛と同様に、将校との関係は、慰安婦をして「地獄よりはマシな」空間への進入を意味するものであり、部下たちから丁重にもてなされることもあった)、それを非難する資格は誰にもない。ナヌムの家の慰安婦の中にも「報国隊」として動員されたとか、皇国臣民の誓詞をちゃんと暗唱して配給をもらったと話す方もおり、私はそんな時代像と状況を「愛国の枠組み」と表現したに過ぎない。また、慰安婦を「娘子軍」と呼んだり、慰安所を「愛国奉仕館」を名付けることを当然視した国家を批判するためにそんな単語を用いたまでのことだ。何よりもまず、私はそれこそが「強制された愛国」であったと言いたい。
検事の非難はこのような状況に対する無知か、否定しようという意識のなせる業だ。しかし、この否定とは売春に対する否定に他ならず、慰安婦を二重に排除することになる。私は慰安婦の方々が堂々としていられることを願って本を書いた。そんな構造の中に身を置いた人が1人でもいたならば。
検事:朴裕河は小説を事実のように使用している。
答弁:同じ時代の経験者による小説の歴史的記述は、時として、いわゆる史料からはうかがえないことを示してくれる。私は文学研究者として、史料からは見えてこないことを示すテキストで、作家の実体験に近いことが確認された作品を使用している。何よりも、慰安婦問題を否定する日本人に向かって、あなたたちの祖先もこんな風に慰安婦問題の悲惨さを記述していると言うためだ。慰安婦の証言は嘘だという人に向けてだ。
それでも検察はこういう文脈を完全無視し、単語だけを持ってきて朴裕河自身が非難の意味合いを込めて述べたかのように言っている。ソウル大学の金允植教授も慰安婦に触れた小説をとりあげて小説は「証言」だと述べたことがある。時に小説は口では言えないこと(証言)を語るものである 。
検事:少女像を冒瀆した。
答弁:少女像について言及した部分は、慰安婦ではなく支援団体について批判した部分だ。彼らの運動にどういう問題があったのか 述べようとしたものだ。したがって名誉棄損とは全く無関係だ。
検事:朴裕河は謝罪と補償を要求すべきでないと述べている。朴裕河が「同志的関係」を主張している理由でもある。
答弁:(この部分は検事が勉強不足だったようだ。民事裁判で原告サイドはこう述べている。「朴裕河は自分の 解決方法を貫徹するために『法的責任を否定し、徴兵者と同じ被害者と認定しろと要求』、同志的関係にあったと主張している」)。言うなれば、支援団体は本当は名誉棄損かどうかに大きな関心はない。ただ朴裕河が考える慰安婦問題への理解が自分たちとは異なるという点、それに基づく解決方法が異なるという点、その方法についての社会的関心への警戒心と抑圧を表したものだ。
これは告訴状と以降の意見書に明確に表れている。いつか仮処分裁判と民事裁判でどういった攻防があったか研究してくれる人が現れれば明らかになるだろう。この訴訟が誰のための訴訟なのか。
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公判準備を含めるとすでに8度も刑事法廷に立った。私にはこの事態こそ「韓国的な、あまりに韓国的な事態」に思えてくる。我々韓国人はいまだ解放を迎えてはいない。
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