(「帝国の慰安婦」刑事訴訟 最終陳述1から続く)
5.検察・原告側の誤読
裁判長、
『帝国の慰安婦』が虚偽ではないという事実を証明するための資料はすでに十分過ぎるほど提出したかと思います。しかし、重要な点を少しだけ付け加えます。まず、検察が問題にしている「矜持」と「同志的関係」について、もう一度簡単に説明します。
1)「矜持」の対象
まず、意図的あるいは無意識的な誤読についてです。
検察は私の本が慰安婦の「自負的愛国心」を語っていると言います。しかし、私は本にそのように書いたことはありません。『帝国の慰安婦』で「矜持」、「自負」という言葉は全て、「愛国」自体というより、どんな役割であっても自分が必要とされる場で感じる、自分の存在価値についての自負心という意味で使っています。例えば、私はこのように書いています。
それは不条理な国家の策略だったことは明確だが、外国で悲惨で暗い生活をしていた彼女たちにとって、その役割は自分に対する矜持となり、生きていく力になったであろう。そのような社会的認定は苦しい毎日を忘れ、生きていく上でも必要だったことだろう。「シンガポール近くには6000余りのからゆきさんがいて、1年に1000ドルを稼ぎ、その金を日本人が借りて商売」をしたという話は、海外のからゆきさんが日本国家の国民として堂々と生きていたことが教えてくれる。
からゆきさんの場合ですが、この文で重要なのは矜持という感情自体であり、その内容ではありません。私ははっきりと、矜持を持たせるのは、その「役割」だと書き、「社会的認定」と説明し直しています。そして、「国民」として堂々と生きることができたと書きました。要するに、貧困と娘を売るような家父長制と、あるいは「売春婦」として社会から排除され差別されていた位置を離れ、「国民」の一人として同等に扱われることによる感情自体が、私が言うところの「矜持」なのです。やっていることがなんであれ、「自分の存在を肯定する感情」、私はそれを矜持と言ったのです。矜持の対象は愛国心ではなく自分自身です。
他の文章でも、「彼女たちが"皇国臣民ノ誓詞"を覚え、特別な日には"国防婦人会"の服を着て、着物の上に帯を締めて参加したのは、あくまでも"国家が勝手に押し付けた役割」だと明確に強調し、続けてそのような行為が持つ誰かを慰労する役割について「彼女たちが置かれた過酷な生活に耐えしのぶ力になり得たということは十分に想像できる」と書いたように、「矜持」はあくまでも自分の存在に対する矜持でしかないのです。
自分の存在に対する意味付けが、人間が生きていくために必要不可欠なことだというのは、あえて言うまでもないでしょう。極端なことを言えば、その内容はなんだっていいのです。
告訴者と代理人と検察がこの部分を慰安婦が「愛国自体に矜持を持った」と解釈するのは、文脈を正確に把握できていない、誤読です。
たとえ愛国心自体に対する矜持と判断したとしても、それは構造的に強制された愛国に過ぎず、検察が主張する自発的/自負的愛国とは異なるものだということも、すでに申し上げました。
2)「同志的関係」の概念の意図
検察は私の本が日本軍との違い、日本人慰安婦との違いを消去したとしながら、「同志的関係」という言葉が慰安婦の名誉を傷つけたと言います。しかし、例えば、
表面的には「同志」的関係だったとしても、「朝鮮人のくせに包帯を上手に巻くことができるのか?」と(軍医が)考えていることからも、差別感情がベースになっていた。しかし、そのような隠された差別感情を知るためにも「朝鮮人慰安婦」という存在の多面性はむしろ直視されなくてはいけない。明確に見ることだけが、責任を負うべき責任主体と被害者の関係性を明確にしてくれるからだ。
と書いたことにも、私の意図を読み取ることができると思います。
さらに、「何よりも、"同志"的関係を記憶し、その記憶だけに固執した彼等を無条件に糾弾し拒否するのではなく、正しく応答し対話するためにも事実をあるがままに見なくてはいけない。慰安婦の苦痛を理解できない彼等をきちんと批判するためにも、彼らの内面に存在した差別意識を指摘するためにも、"同志的関係"はまず認める必要があった」と、「同志的関係」という言葉をあえて使う理由についても明らかにしました。
言いかえれば、検察が言うように、朝鮮と日本を同じように扱い、日本の責任を免罪しようとしたのではなく、むしろ目に映らない差異を見るために「帝国日本の構成員」という範疇-同質性を見ようとしたのであり、そのような論旨が日本の謝罪意識を引き出すことができるのを期待したのです。
まさに、日本に向かって書いた部分で「彼女たちは生命の危険の中で時には運命の「同族」(古山高麗雄『白い田圃』、14ページ)として日本の戦争をともに遂行する者でもあった」と書きながら、続けて「そのような意味で彼女たちに送られるべき言葉は、時に彼女たちに暴力を行使し過酷に扱ったことに対する謝罪の表現でなければいけない。軍人の暴力は、表面的には「内鮮一体」であっても、差別構造を温存させた日本の植民地政策がもたらしたものだった(162ページ)」と強調したのです。
6.支援団体・検察・学者の欺瞞と忘却
裁判長、
ここでは彼らが「虚偽」だと主張する三つの論点についてもう少し付け加えます。
1)売春/強制 日本人慰安婦の差異化
私は慰安所のことを「管理売春」であり、「強要された売春」であると言いました。そして、この部分については検察と原告側代理人ももはや反論していません。
ところが、挺身隊問題対策協議会の代表だった尹貞玉教授も、ハンギョレに連載された有名なルポ記事で、「売春を強要された」と言っています。(1990年1月4日付ハンギョレ新聞、韓国挺身隊問題対策協議会研究報告書『日本軍慰安婦新聞記事資料集』、2004、45,46ページ追加)
そして、この資料を含むこの報告書は、「京城地法日本軍慰安婦関連判決文」というタイトルで1930年代後半の裁判資料をまとめていますが、ここには戸籍謄本や印鑑証明等を偽造して連れて行った「私文書偽造行為詐欺」、「満洲にお嫁に行くとだまして酌婦契約」した「詐欺」、「人事紹介業者に長女の娼婦斡旋を依頼」した「詐欺」、「内縁の妻を酌婦に受け渡し、その利益を得」(41ページ)ようとした「営利誘拐詐欺」、「営利誘拐私文書偽造詐欺」等が列挙されています。
この資料と報告書のまえがきにある「朝鮮社会の貧困化とそれにともなう女性の深刻な人身売買を見ることができる」「相当数の女性が満洲に売られたという記事が出て」いるということは、支援団体が早くから慰安所の形態が管理売春であり、必ずしも軍人による強制連行ではなかったという事実を知っていたことを示すものです。2004年、もう12年も前のことです。
それでも支援団体と関連研究者達は長い間、メディアや国民にはこのような事実を隠し、「強制連行」と「総督府命令を受けた銃剣を携えた巡査」だけを強調してきたのです。その結果がまさに、今年の初めに300万以上が見たという『帰郷』での強制連行の場面です。そして検察の起訴はそのように作られた「国民の常識」を一度も疑わなかった結果だと言わざるを得ません。
また、2009年に発刊された国務総理傘下日帝強占下強制動員被害真相究明委員会が発行した『インドネシア動員女性名簿に関する真相調査』には、ソン・ボクソプという朝鮮人軍属の手帖を基に「光州で従軍慰安婦61人の名簿が確認され、日本帝国主義が韓国人慰安婦をインドネシアスマトラ島にも連行し売春を強要した事実が明らかになった」との新聞記事が収録されています。(1992/1/16、光州毎日)この記事にはまた、慰安婦の中に「3人の既婚女性が含まれていたとソンさんが証言」したと書かれています。
つまり、現在の私たちの記憶は、慰安婦問題発生初期の記憶の忘却とともに作られたものなのです。
どの程度意図されたものだったかはわかりませんが、原告側の代理人と検察は自分たちの無知あるいは欺瞞を隠して、日本人慰安婦は「自発的売春婦」であり、朝鮮人慰安婦は日本軍や総督府関係者によって「強制的に連行された少女」ということばかりを強調します。そして、私の本がそのような考えを否定するとして、私を厳罰に処せよと求めているのです。
しかし、日本人女性の中にも慰安所とは知らずにだまされて行ったケースが少なくなかったというのも最近刊行された日本人研究書でも明らかになりました。(『日本人慰安婦-愛国心と人身売買と』、22‐23ページほか)
また、日本の研究書だけでなく、韓国の報告書も「慰安婦や遊興業等への動員過程で誘拐誘引、就業詐欺、人身売買等、合法不法の各種手法が盛行していた」という指摘をしながら、「日本女性すら日本内務省、外務省が提示した原則が守られていなかった」と指摘しています。(『インドネシア動員女性名簿に関する真相調査』、71ページ、追加資料)
つまり、「日本人慰安婦は自発的売春婦」との検察の断定は何の根拠もありません。
原告代理人は、また、千田夏光の『続従軍慰安婦』を提示しながら、同様に朝鮮人慰安婦は何も知らない少女だったと強調しましたが、同じ本に「29歳の朝鮮人娼婦」(118ページ)も登場していることは言及しません。日本軍は朝鮮人慰安婦を卑下し「朝鮮ピー」と呼びましたが、日本人慰安婦も、卑下する言葉である「ピー」と呼ばれたという事実も、他でもない同じ本に出てきます。(韓国語翻訳書148ページ)
前述のナヌムの家の慰安婦の方々のケースのように、いわゆる強制連行とは異なる状況があっても、原告側はこれについて説明しながら、「イ・オクソンさんは拉致、キム・グンジャさんは軍服を着た人に連行、キム・スンオクさんはだまされて、カン・イルチュルさんは家で軍人と巡査によって強制的に連れて行かれた」とだけ書いています。(追加資料)。つまり、義兄が送ったという事実は隠ぺいし、パク・オクソンさんについてもただ「お金を稼げると思って行った」とだけ記述するだけで、どのように行ったのかについては言及していません。
原告側の代理人たちは、国民に向けて行ってきた長い間の欺瞞を、裁判でも行ったのです。『帝国の慰安婦』仮処分および損害賠償1審の法廷は、このような資料を詳細に見てはいなかったはずです。
2)制服を着た業者、朝鮮の「娘子軍」
裁判長、
前述の公判で軍服を着た業者についての資料を提出しました。その資料について追加説明します。
慰安婦の募集は時期によって形態が少しずつ変わったようです。30年代には主に業者の自主的な募集だったのに対して、日中戦争以降には戦争への国民総動員時代を迎えて「愛国」の枠組みでの動員の度合いが強くなったように見えます。
以前提出した証拠資料45号の中にある植民地時代の朝鮮在住日本人の回想には「金原始彦」という軍属が満洲で「皇軍慰安婦として引率活躍、要員を募集のために、偶々厚昌邑内に帰省」しているとし、「一人でも多くの娘子軍を集め、戦力増強に寄与しなくては、と覇気満々」(証拠資料45)だったと記述しています。
「娘子軍」とは、女性の戦力化を称賛してつけられた名前です。この言葉が業者によって使われていたことは、つまり韓国人の大多数が想像するような「強制連行」とは異なる形で慰安婦の募集が行われた可能性を示すものです。
また、当時軍属には軍服に似た制服が支給されましたが、普段でも制服を着ていた業者を、少女が「軍人」と錯覚した可能性は排除できません。そして彼らの態度によっては「軍人が強制的に連れて行った」とする証言はいくらでもありうると考えます。もちろん、先の公判で申し上げたように、実際の軍人による強制連行の可能性も、私は本の中で否定していません。
強制連行でなくとも、少女と女性の慰安所生活は十分に悲惨です。
なのに、長い歳月、支援団体は募集状況に関して国民とメディア、そして国際社会に向けて強制連行とのみ主張してきて、初期の間違った認識を修正しようとしませんでした。私の本はただそのことを伝え、「再び議論」することを願ってのものでしかありません。
3)軍属としての慰安婦
4回公判で説明したように、指定慰安所にいた慰安婦は「軍属」として待遇されました。そのような状況がわかる資料はこれ以外にも存在します。それだけでも、慰安婦が愛国の枠組みにあったとした私の記述が「虚偽」でないことは明白です。
しかも、私だけではなく、このような状況についてすでに知っていた研究者がいたことを、わたしは最近知りました。
例えば、「慰安婦を看護労働に従事させることは頻繁にあったこと」とし、彼女達が「文書に記載」された理由を「看護婦の仕事をしながら正式に名簿に記録して軍属待遇することが妥当だとの第7方面軍首脳部判断の結果」とし、「留守名簿に記録したということは」「援護と関連した各種処置も受けることができる」とし、「日本帝国の国民として保護を受けることができるという点もある」と、政府支援研究報告書は(『インドネシア動員女性名簿に関する真相調査』、2009)言っています。「植民地女性を相変わらず日本帝国の一単位として認識し、現地にいた日本人女性を組み入れたのと同じように、朝鮮人女性を組み入れたと見られる」というのです。先の公判で提出したように、実際に日本の国会で慰安婦を援護(支援)対象にするための論議が行われたということは、彼らの主張が正しいことを示しています。(証拠資料44)
また、ある日本の軍人が書いた本は、中国に慰安婦が8万人いたと聞いたとして、「県知事の呉錫卿氏が坐りその右に私がおり10名の女性がり囲んでいるもので、女性は着物を着ているが全部朝鮮人」(長嶺秀雄『戦場』、94ページ)と一枚の写真を説明しつつ、フィリピンの「セブ市にいた慰安婦約100名は、特殊看護婦の名で、軍の野戦病院と行動を共にしており、わが第1師団に配属されていました」とし、米軍に包囲された時も「某部隊が、陣内を右往左往している時、この看護婦部隊は毅然として動揺しませんでした(98ページ)」と書いています。
第4回公判で提出した、自分は軍属だったと言ったムン・オクジュさんの手記には慰安婦達が好きな人を「すーちゃん」と言っていたとし、ムンさんが「私たちは大概すーちゃんが一人ずついた」(証拠資料42、韓国語翻訳書87ページ)という記述があります。これも、まさにこうした関係の中で可能だったことなのです。今日この席に出られたイ・ヨンスさんもやはり、好きな人がいたと、私に話されたことがあります。(追加資料)
にもかかわらず、こうした状況を知らないまま、原告側と検察、そして一部の学者は、私の本を「例外の一般化」として、非難し続けてきたのです。
4)小説の使用について
ソウル大の金允植教授が慰安婦に関する韓国の小説に言及し、小説を「証言」とみなしたことを先の公判ですでに話しました。ところが、政府による教科書検定は違憲だと提訴した、いわゆる教科書裁判で有名な家永三郎教授も著書『太平洋戦争』で、私が使用した田村泰次郎の単行本『蝗』や『人間の条件』に触れながら、「高い史料価値が認められる」と書いています(追加資料)。なのに小説を一部使用したという理由で、私の本は「虚偽」だと言ってはばからない検察の発言は、文学に対する無知、そして慎重さに欠ける言葉がさせたものと言わざるを得ません。
7. 帰ってこられなかった慰安婦のために
裁判長、
先に申し上げたように、私もまたかなり早くから慰安婦問題に関心を持ってきました。しかし『帝国の慰安婦』で、具体的に名前を挙げて記述したのはたったひとりです。血を吐くような遺書を書き、インターネットに載せたシム・ミジャさんです。それもその方の慰安婦体験ではなく支援団体批判でしたし、誰も彼女の声を聞こうとしなかったという文脈で言及しました。
したがって、万が一私の本が慰安婦の方を非難した本であったとしても、私の本を読んで具体的に誰かを思い浮かべる人は誰もいないことでしょう。なぜなら、慰安婦体験はひとつではない、ということが私の本の主な論旨のひとつだったからです。
そのうえ多くの方が偽名を使っておられるので、たとえどんな方かを特定しようとしても、可能な構造ではありません。
裁判長、
慰安婦の戦場生活と帰還、あるいは未帰還について書いた第1章の最後に、私はこのように書きました。
「おそらく今私たちが耳を傾けなければならないのは、誰よりも彼女たちの声ではないだろうか。戦場の最前線で日本軍と最後までともにし、命を失った彼女たち―言葉のない彼女たちの声。
日本が謝罪しなければならない対象も、あるいは誰よりも先に彼女たちであるべきなのかもしれない。名前も言葉も失ったまま、性と命を「国家のために」捧げなければならなかった朝鮮の女性たち、「帝国の慰安婦」たちに。(韓国語版『帝国の慰安婦』 104ページ)
私が本を書きながらも頭から離れなかったのは、誰よりも戦場で死んでいった慰安婦たちのことです。当時も記録されず、死んでも他の軍属のように遺族が支援金を受けとることもなかった、そのような慰安婦たちです。差別を受けることを恐れて帰ってこなかった慰安婦です。
それなのにどうして私の本が、生きて帰ってきた生存する慰安婦の方を特定した本になるというのでしょう。私がこの本で考えてみたのは、日本人女性を含む、国家の無謀な支配欲と戦争によって犠牲になったすべての個人のことでした。
8. 「慰安婦の苦痛」は誰が引き起こしたのか
1)当事者が排除された代理告発
裁判長、
ところが、告訴と起訴は不当だというわたしに、原告側代理人と検察は言います。慰安婦の方がつらく感じたのだ、「慰安婦の方」が「苦痛」を感じる限り告発と起訴は当然だ、と。一部の学者さえそのように言います。最近も原告側代理人は私が「もっともらしい話術」で「慰安婦の方の胸に五寸釘」を打ちこんだと話しました。
しかし、慰安婦の方に「五寸釘」を打ちこんだのは一体誰でしょうか。私の本を歪曲して伝え、慰安婦の方に苦痛の思いをさせ、怒りを引き起こしたのは果たして誰でしょう。
私は告発直後にふたりの慰安婦の方と電話で話しました。ひとりはナヌムの家にいた方で、原告として名前が挙がっていた方です。
先に申し上げたように私はナヌムの家の一部の慰安婦の方々と親密に交流し、その中のひとりであるペ・チュニさんとは半年にわたって電話もたびたびしました。会った回数よりも電話のほうが多かったのは、ナヌムの家が私を警戒していたからです。そのためペさんもやはり、会うことに慎重でした。
ところが最も親しかったペさんは、告発の一週間前に亡くなってしまいました。そこで私は嵐のようだった告訴の衝撃が少し通り過ぎてから、ナヌムの家に住むユ・ヒナムさんに電話をかけました。この方もやはり、私と対話をしてきた方で、私が主催したシンポジウムに出る予定だった方だからです。
いったいどういうことなのかをうかがったところ、ユさんはおっしゃいました。
「(私は目が)見えないでしょう、それで(職員が)来て読んでくれたけど、強制連行ではなくて何...ただ行っただとか...まあ、読んでくれたのに、聞いたけど忘れてしまったよ」「なぜそのようなことを本に書いたの」と。(参考資料156)
この方は目が不自由で、私の顔さえはっきり見えないとおっしゃっていた方です。そしてこの言葉から、ユさん自身が読んだのではなく、慰安婦の方々を集めて職員が読んだということがわかります。また、ナヌムの家の安信権所長は今年1月の日本での講演で、慰安婦の方々は高齢で本を読めないから、一部分を抜粋して繰り返し聞かせていたと言いました。つまり慰安婦の方は全体を読んだのではなく、支援団体によって前後の文脈が切り離された、抜粋の文章だけを「聞いた」のです。
聞く行為が本にあっては間接的な行為だというのは言う必要もないでしょう。詳しく読んでも読者の数だけの読解が可能なのが一冊の本です。私のために苦しまれたというナヌムの家の慰安婦の方々の苦痛は、私が引き起こしたのではなく、ナヌムの家の顧問弁護士主導の下で行われた漢陽大法科大学院の学生たちの雑な読解と、それをそのまま伝えたナヌムの家の関係者です。
そこで私がユさんにそのような意図で書いた本ではないと言うと、「意図はそうだけれど...」と言葉を濁しました。ユさんは、私が悪い意図をもって書くような人間ではないとご存知だったからだと思います。
そして3日後、今度は一人暮らしのある方から電話がかかってきました。この方はユ・ヒナムさんから聞いたと怒っていて、そのような本ではないと説明しようとすると、「5人のソウル大教授があなたの本は悪いと言ったよ!」と繰り返し、聞こうとされませんでした。(参考資料157)
裁判長、
私に対する告訴において、慰安婦の方々は当事者ではありません。
すでにおわかりのように、本を読んだのはもちろん、告訴書類の作成、論理構成、私を告訴したすべての主体は周辺の人々です。告訴状に押されている慰安婦の方々の印鑑、同じ形の印鑑をご覧になってください(リンク)。私は、慰安婦の方々の中、2014年6月告訴以前に私の本について知っていた方はいなかったと思います。ペ・チュニさんでさえ、亡くなるまで私に告訴のことなど話していません。
私との親密な交流を知らなかったからでしょうが、ナヌムの家の所長は、ペさんも生きていれば告訴に加わっただろうと言いました。しかし、私との通話記録をご覧になれば、そのようなことなどありえないことがお分かりになると思います。
そのうえ、慰安婦の方々は検察が進めた調停課程をご存知ではありませんでした。私に日本語版の絶版という要求を含む調停案が来たとき、他のことはともかくそれは私が決められることではないと伝えて理解を求めるため、刑事告訴で原告として名前が挙がっていたふたりの方に電話をかけました。
告訴後1年も過ぎた秋の時点だったのに、そのうちのひとりユ・ヒナムさんは親しみを込めて受けてくれました。私の話を聞いて、調停問題のことは安信権所長に話しなさいとおっしゃいました。もうひとりのイ・ヨンスさんは、原告として自分の名前が挙がっていることさえ知ってはいませんでした。
ナヌムの家の安信権所長は、最近提出した嘆願書でも相変わらず嘘やいい加減な記事で私を非難しましたが、慰安婦の方々との通話内容や映像を確認すれば、なぜ彼が嘘までついて私を非難するのかがわかるでしょう。
遅きに失しましたが、告発前後に何があったのか、ようやく書き始めた私の文を御覧ください(『歴史との向き合い方』 )今も出回っている「20億懐柔説」がユ・ヒナムさんの偽証だというのも、ペさんとの通話記録を見ればわかります。そして安信権所長が繰り返し非難してきた、事前の許可なく訪ねてきたとしたNHK問題もやはり、彼の嘘であるとわかるでしょう。必要ならば、安所長と交わした携帯メッセージを提出できます。ペさんは日本人との対話を待っていた方で、記者たちは解決のために努力した人々です。
2)血を吐く声
裁判長、本裁判と関係ないような話まで長々として申し訳ありません。しかし、「法」とは正義と共同善を追求することだと理解しています。私がこのような話をするのは私自身のためでもありますが、それ以上に慰安婦の方々のためのことです。相変らず慰安婦の方々の一部は、世の中に届かない声を持っていますが、依然として世の中に送りだすことができない状況です。ペ・チュニさんとの対話から、それがひしひしとわかりました。
ペさんは、自分の経験が世の中に通用するものとは違うということを口にできず、私と対話するときも誰かが盗み聴いているのではないかと気にしていました。
同時に、支援団体の運動やケアの方法に批判的ながらも、自分の考えを思うままに話すことができませんでした。そして彼女たちの言葉を「半分は嘘」(参考資料77、16ページ)とし、慰安婦の方々の講演料が支援団体の建物に使われることに不満ながらも言えませんでした。私に会えないようにするために、体の状態が良くないのに病院からナヌムの家に無理やり移され、血を吐くように彼らに対する不満を吐露しました。亡くなる1か月前のことです。
「人は助けて命は救っておくべきじゃないか」「どんな人だって、命を救おうとすべきじゃないか」と。
その背景にどんなことがあったのか、通話記録を確認していただければありがたいです。メディアや検察がすべきことは、まさにそんなことではないでしょうか。
そうしてペさんは「敵は100万、私はひとり」と思いながら、孤独な生活の末に亡くなったのです。
実際、似たような言葉で支援団体を非難した方がかつておられました。その方の声を偶然聞いたのが、私が『和解のために』で慰安婦論を書くことになったきっかけのひとつです。2004年のことです。しかしそれから12年が過ぎても、状況は何も変わっていません。
韓国の社会は慰安婦に関心が高いです。しかし、私たちは彼女たちの心からの声を果たして聞いたでしょうか。間に合わなくなる前に、生存している方だけでも、本当の声を聞いてあげられる社会になればと思います。
裁判長、
原告側代理人は、最近提出した書類で「朴裕河の解決策がどんな説得力を持つことができるのか疑問」と言いました。
まさにこの言葉に、この告発と起訴の本質が込められていると考えます。
原告側は、すでに告訴状に明確に表れているように、ただ「異なる声」の拡散を防ごうとしました。以後のやり取りでも、彼らがこだわっているのはひたすらこの部分です。日本の「法的責任」を繰り返し主張した理由もそこにあります。
先に申し上げたように、私が会った慰安婦の方のほとんどは、なぜ解決が遅れているのかを知ってはいませんでした。ただただ、日本が何もせずにいるからだとのみ考えていました。もちろんそれは、関係者が彼女たちに情報を伝えず、当事者の多くを排除したまま自分たちがすべてを主管したからです。
私はそのようなやり方を批判しただけで、彼らの活動のすべてを批判したわけではありません。なのに私を、彼らは国家の力を借りて抑圧し、20年以上情報を共有した結果として支援団体と同じように考えるようになったメディアや国民を動員して、私に石を投げさせました。
3) 攻撃を引き起こす意識
裁判長、
彼らの攻撃は、いろいろな構造が複雑に絡み合わされたものです。
そのうちひとつだけ申し上げるなら、検事や代理人の攻撃、慰安婦は自負心を感じてはいけないと抑圧する考えは、女性差別、売春差別的な考えが生み出したのです。
それは、原告代理人が「被害者の声」として彼の書面で繰り返し記述する表現から明確にわかります。彼は絶えず日本人慰安婦に対して「娼婦」「体を売った」「達磨屋」等々の単語を引用・使用しています。そうして「自発的な売春婦」の日本人慰安婦を、強制的に、あるいはだまされて連れて行かれた朝鮮人慰安婦と私が同一視した、と非難しているのです。
しかし彼のこうした言葉こそ、日本人慰安婦たちが名誉毀損と訴えることができる発言ではないでしょうか。彼の単語の使い方には明確に売春婦に対する差別があり、名誉毀損の条件という「社会的評価を低下させる」認識が存在しているからです。
いわゆる「女工」や「売春婦」たちは、いたしかたなく生き続けた日々の苦痛の中で、1銭、2銭とためて故郷に送りました。そのお金で兄は上級学校に行き、仕事をすることができたのに、妹や姉の恋愛に干渉し、時には暴力や殺人さえいとわなかった心理こそが、長らく韓国社会で慰安婦の「異なる」声を殺してきたのです。同じ考えを内面化した女性たちもまた、韓国社会には少なくありません。
これまで私を罪人扱いし攻撃してきた原告代理人と検事、そして彼らに論旨を提供してきた活動家や一部の学者もやはり、そのような認識の持ち主です。慰安婦を抑圧し、自分の存在に何の意味も感じられないように差別し疎外させ、自殺に追い詰めたりした考えの主犯なのです。
このように私を抑圧する理由はただひとつ、そのような存在たちが自分を居心地悪くさせるからです。
裁判長、
自分たちの告発と起訴によって、また何の確認もなしに報道された記事によって、私が今も日本から金を受け取って慰安婦を懐柔しようとした売国奴であり、スカーフで首をしめて殺したくなる人物としてまで指さされているのに、私に対する非難を止めろという人が彼らの中からひとりも出てこないのはまさにそのためです。
告訴に達するもうひとつの背景には、慰安婦問題をめぐる日韓知識人の考え方の違いがあります。詳しくは申し上げませんが、参考資料とホームページに載せた告発までの経過を御覧ください。(参考資料46)
しかし、知識人間の考え方の違いが、法廷で争われるべきことでしょうか。しかも彼ら自身は現れることのない法廷で、検事と弁護士が代理してやるべきことでしょうか。
4) 攻撃の目的
ところで、彼らがこのように一貫して「自発的にいった人と被強制連行者」の差異を強調する理由はどこにあるのでしょう。どうやって行こうがおしなべて悲惨な状況であったことを、彼ら自身が誰よりもよく知っているはずなのに、差異を主張して私を非難する理由はどこにあるのでしょうか。それは、「強制連行」としなければ、彼らが初期に誤って要求してきた「法的責任」を引き続き問えないからです。自分たちの認識に誤りがあったことが明らかになるのを隠すためです。
裁判長、
支援団体は、国民やメディアが与えた市民権力、学界やメディア権力、そして国連や世界女性と市民連帯に至るまで、大きな力を持っています。支援団体の代表のひとりは、有数の学会の元会長であり、有名なマスメディアの元主筆の奥様であり、ウ・ヨンジェさんが言及した「ソウル大教授」でもあります。そして彼らの後ろには、長い歳月の運動を通して作られた固いつながりだけでなく、長官や国会議員を排出した人脈があります。さらに政府や企業、国民が集めてくれた資金があり、何より仕事をする「人」があります。
しかし、私はもっぱらひとりで、批判者たちが集団になって次々と出してくるすべての攻撃文を分析して反論を出さなければなりませんでした。その作業以上に苦しかったのは、その中に含まれる歪曲や敵愾心、根拠のない嘲笑でした。
彼らはひたすら、自分たちの考えを守るため、それまで国民に向かって行った数多くの矛盾をただ隠すため、運動の邪魔になるという理由で、それまで守ってきた権力と名誉が傷つくことなく維持できるようにするために、私を売国奴、親日派と追い立て排斥してきました。 変ることなく大衆の誤解や過度の非難を、知らぬふりをしました。
さらに、ただこの裁判で勝つために、何の根拠もなく私の本が慰安婦を「歪曲」するために資料を「意図的に」「巧妙に」「徹底して」「繰り返し使用」したとし、私に「悪辣」「残忍」「利己的」「悪意的」との単語まではばからないのです。このような態度や表現が典型的な魔女狩りの手法だということは、すでによくご存じでしょう。
裁判長、
これまで多くの資料と説明で、私の本が虚偽でないと主張してきましたが、本当はこの問題は本の問題でさえありません。
私が訴えられたのは、慰安婦の方々と私が親しく交流すること、それによりナヌムの家の問題が世の中に知られることを恐れたナヌムの家の安信権所長と、彼に同調したナヌムの家の顧問弁護士、そして慰安婦問題についてよく知らないまま、教授が指示した通りにいい加減な読解をもとに本を100か所以上めった切りにするレポートを作成した漢陽大法科大学院生の、反知性的な行為であり、謀略であり、陰湿な攻撃です。
裁判長、
「異なる」声に対する暴力的な抑圧と、それによって引き起こされた言葉に言い表せない苦しみの経験はもう私だけで充分です。
代理人は私を非難し、私を放置すれば「第ニ、第三の朴裕河」が出てくるだろうと言いました。
同じように申し上げたいです。私が言う意味での朴裕河を、いわれなき苦しみを経験する第二、第三の朴裕河を、もうこれ以上は生み出さないでください。
彼らは「厳しく処罰されずうやむやに終わっては」ならないと裁判長を脅迫までしました。彼らが私を処罰して守りたいものが何か、もう理解してくださったと信じています。
裁判長、
彼らの攻撃と告発によって私の学者生活二十数年の名誉が一瞬にしてめちゃめちゃにされ、この2年半もの間苦しみの中を生きてきました。
私は彼らの嘘と歪曲が犯罪的レベルのものと考えましたが、仮処分と損害賠償裁判所はそのような彼らの扇動を検証しませんでした。その結果として韓国の法廷を、世界の笑いものにしました。
ごく少数の人だけが私の本を正しく受け入れてくれ、苦しみながらも多くの人々に助けられてなんとか耐えてきました。告発事態でこうむったわたしの名誉毀損と心の傷は、たとえこの裁判で私が勝訴しても完全に消えることはないでしょう。
「社会的価値が低下」することが名誉毀損の定義だと聞きました。
どうか明晰な判断を下していただき私の名誉を回復させ、大韓民国に正義が生きていることを見せてくださるよう、切にお願い申し上げます。
2016年12月20日
朴裕河