メディアやコンテンツについて語るのがこのブログの基本趣旨なのだけど、その趣旨とは別の社会性のあるメッセージのシリーズを去年からやってみている。12月に「日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない」という記事を書いたら、転載されたハフィントンポストで5000以上のいいね!をもらって恐れおののいた。今日はその続きみたいな内容を書こうと思う。
都知事選が公示前からすでに盛り上がっている。ハフィントンポストに主要な候補者の顔が並んだ記事が出ていた。見ているとなんだかげんなりしてきた。
原発が争点としてどうか、などと言う前に、どうしてこんなに年老いた男の顔ばかりが並ぶのだろう。安倍晋三氏が総理大臣としては比較的若々しいのに、首都の知事の候補は"高齢者"に分類される人びとが争うのだ。
細川さんはとっくの昔に引退した人だ。もっと言うと、日本が変わるんじゃないかと期待させるだけさせといて、疑惑が浮上していじめられたらあっさり引っ込んじゃって日本中をがっかりさせた。その責任は実はものすごく大きいとぼくは思う。
55年体制とやらが、いや「日本人の普通は・・・」の時に書いたことに添えば40年体制が、ようやく終わる兆しがあったのに終わらなかった。なし崩し的に自民党政権に戻ってしまって改革ムードがご破算になった。その張本人だ。今さらどの面下げて都政に出てくるのか、と正直思う。
あのあと二十年間、日本の進化が止まった責任の一翼をまちがいなく担っている人だ。
そんな人も含めて、60代70代が政界でも頑張ってしまっている。ご老体の皆さんに頑張られてしまっている、それがこの国の実情だと思う。
ちょっと話がさかのぼるが、1月6日の仕事始めの夜、ニュース番組が経済界の新春の集まりを取材していた。出てくる人、出てくる企業が、昭和だった。上の写真の都知事候補の皆さんよりさらに年配な人たちが、今年の景気はいいが消費税が心配だ、てなことをおっしゃっていた。どれもこれも、高度成長を担った企業、あるいはそのいくつかが合併して生き残っている企業だ。
この時ふと思い出した写真がある。もうずいぶん前、スティーブ・ジョブズも写っていたからかなり前だが。調べると2011年の2月だった。
オバマ大統領がホワイトハウスにテクノロジー企業のリーダーたちを集めて晩餐会を開いた、という写真だ。ここをクリックしてその写真を見てください。ああ、あれね、思い出したよ、という人も多いだろう。そこそこ話題になった写真だ。
ジョブズ以外もそうそうたる面々で、Yahoo、Cisco、Twitter、Oracle、Netflixといった企業のCEO、もちろんGoogleのエリック・シュミットやFacebookのマーク・ザッカーバーグもいる。
IT界のヒーローたちがオバマとめし食ってる、ということで話題になったわけだけど、この時ぼくはちょっとちがうことを感じた。ここに映っている企業はどれもこれも新しい!
この中ではAppleが古い方になってしまう。OracleとCiscoがそれに続く。他は、登場した時をぼくらが覚えているほど新しい企業だ。
彼らトップは白髪頭でもなく加齢臭はしなさそうだ。日本の財界の年頭の集まりと比べると信じられない。
もちろん、テクノロジー業界のリーダーが集まった食事会だから、というのはあるだろう。でもアメリカの"戦後"を支えた企業はそもそも、もう残ってなかったり業態を変えたりしている。
アメリカの家電企業はもうほとんど残っていない。GEは得体のしれないコングロマリットになってしまった。VISIOというテレビメーカーがあるが、工場は国内に持ってないらしい。
自動車メーカーは健在だが、数年前に各社倒産同然に至ったのは記憶に新しいところだ。
アメリカでは、家電や自動車が衰退しても次の産業が湧いてくる。新陳代謝や世代交代が起こる社会なのだ。あるいは、世代交代を促したのだ。社会全体が進化する、そういう仕組みを持っている。
ずっと残っているのは映画会社だったりする。UniversalもFOXもDisneyも健在だ。だがよく見ると、テレビネットワークや出版社などとくっついてメディア企業のコングロマリットを組んでいる。映画産業はテレビ界と戦ったり仲良くしたりしながら変遷の末にいまの状態になった。やはり新陳代謝を繰り返してきたのだ。huluもそんな変遷の中、彼ら自身が生み出した企業だ。
生物は新陳代謝を繰り返して成長していく。種は世代交代を何度も経るうちに進化していく。
日本という社会が成長せねばならず、進化すべきだとしたら、新陳代謝や世代交代が必要なのだ。なのに。
日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない、と書いた。この記事は、だから変われるはずだ、というメッセージだったけれども、別の見方をすると、日本人の普通は"いまだに"昭和の普通なのだ。それは、新陳代謝も世代交代もしてこなかったからだ。
90年代、"バブルがはじけた"とか"55年体制の崩壊だ"とか、つまりは過去を反省するべきだというムードが、確かに一時期あった。変わらねばならない、という空気はあった。その上、昭和な大企業や銀行がいくつか潰れもした。あの頃、もう20年ほども前になるが、あの頃には新陳代謝が起きそうになっていた。
でも、それは起きなかった。なし崩し的に昭和に戻り、昭和を引きずったまま21世紀に入ってしまった。
日本が変わりかけたけど変わらなかった。その責任を、さっきこってり批判的なことを書いた老人ひとりのせいにはできないだろう。そうだ。日本社会が変われなかったのは、ぼくたちひとりひとりが変われなかったからだ。昭和にしがみついたのは他ならぬぼくたちなのだろう。
そんな思いを噛みしめながら、例えばぼくたちは今回の都知事選挙にどう対処すればいいのか。答えは見当たらないが、探さないわけにはいかない。
この記事はちょっとした試みをしているシリーズのひとつだ。ネットでは見出しとビジュアルがセットで流通する。だったら見出しコピーとビジュアルの関係をちゃんと考えて記事にした方がいい。そこで、記事の見出しを最初にいくつかコピー的に書いてみて、それにふさわしいビジュアルを選んだり作り出す、というやり方をしている。いま間借りしているデザイン事務所BeeStaffCompanyのボス・アートディレクター上田豪氏と一緒にやってる作業だ。この試みは、気長に続けてみようと思っている。
コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
sakaiosamu62@gmail.com
(2014年1月20日の「クリエイティブビジネス論!~焼け跡に光を灯そう~」から転載)