前編の記事を書いてから一週間経ってしまったので、書こうとしていたことを忘れてしまいかねない、ってことで、続きを書こう。前編を読んでない人は、ぜひそっちから読んでください。
何を書いていたかと言うと、この図の説明だったのだった。
今の社会システムは会社中心にできていて、子育ては主従の従に置かれている。だからベビーカーが会社ムラにやって来ると時として疎まれる。ところがどうやら、そんなのは日本だけらしい。他の国では欧米でもアジアでも、ベビーカーには無条件で手を貸すのだそうだ。それは、子育てを主従の主に置いた社会だからなのではないだろうか。
これは、宇宙の問題なのだ。
私たちは、文化を共有する民族ごとにそれぞれの宇宙で生きている。古代のインドでは宇宙は亀の上に乗った像が大地を支えていると信じられていた。現代人はそれを笑うが、当時のインド人は大まじめでそんな宇宙を頭の中に持っていたはずだ。ガリレオが登場するまでの人々にとっては、大地が動かずすべての天体が地球を中心に動いていた。面白いことに、天動説をベースにした天文学がそれなりに発達して、太陽や星々の動きがほとんどそれで説明できていた。正しいはずの地動説は、ガリレオが唱えはじめたころはまだ未熟で、説明できない部分がたくさんあった。お前の地動説ではあの星やこの星座の動きが説明できないではないか、と問い詰められたガリレオが言ったのが、「それでも地球は動いている!」だった。あの有名なひと言は追いつめられての開き直りだったのだ。
ことほどさように、宇宙は民族や時代で異なる。宇宙がちがうとたがいに全く理解できない。
二十年だか三十年前だかに、詳しくは忘れたけど日本にやって来た大リーガー選手が、大活躍してチームに貢献している最中、子どもが病気になったので突然帰国してしまったことがあった。デッドヒートを繰り広げているペナントレースをあっさりほったらかしてしまった。ぼくたちはたいそうびっくりした。チームより家族を大事にしちゃうんだ!日本のマスコミの受け止め方も、やっぱりアメリカ人は個人主義だよな(つまりわがままだよな)という空気だったと思う。しょせん出稼ぎに来てるから日本のチームなんか簡単にほったらかすんだよ、あいつらは。でもその大リーガー選手にとっては、家族はかけがえのないものであり、何の迷いもなく仕事より重視した結果だったのだといまは思う。
つまり、大リーガー選手が住んでいる宇宙では、そうなのだ。仕事や所属する組織より、家族を大事にするのが当然なのだ。もし迷っている友人がいたら「ヘイ!何を迷っているんだい?家族より大事なものなんかこの世にないじゃないか!」と言うだろう。
地味すぎて例に出しても知らない人が圧倒的に多いだろうけど、少し前のアメリカ映画で『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』という名作がある。ライアン・ゴズリング主演なので女性ならそのイケメン優男ぶりを見るだけでも価値があるだろう。その男は向こう見ずなスタントライダーで女性にもいい加減。明日も知れぬ気ままな生き方の男の前に、いつ会ったかも名前も忘れた女がやって来て、あなたの子どもができた、と告げる。途端に男は風来坊をやめて父親になろうとする。女はすでに別の男と暮らしているのだが、それもかまわず、自分が父親になるんだと言い張る。
これに似たことはアメリカ映画でよくあって、物語の中で男たちは父親であろうとする。好きになった女とは意外に簡単に離婚して別れちゃうくせに、父親であることにはこだわり、子どもと会えないとびっくりするくらい寂しがる。子どものために培ってきたキャリアを捨てたりする。アメリカの男は家族がいちばん大事だと思っている。
彼らは宇宙がちがう。いや、こと家族との関係で言うと、ぼくたちの宇宙がおかしいようだ。そういうことだ。たぶん、ぼくたち日本人だけ宇宙がちがうんだ。しかも、戦後のこの70年くらいの間だけ。イビツな宇宙を、40年体制のあらゆる制度が構築してしまったのだ。
そのイビツな宇宙は、世界史上まれに見る経済成長と、その反動である急激な少子化をもたらしている。
ひょっとしたら先進国はある時期、少しずつそれなりにイビツな宇宙になっていたのかもしれない。工業化が家庭と職場を引き離し、急激な都市化と人口集中でこの図の会社ムラに近い状況を生み出した。鉄道に長時間揺られて、住まいから遠く離れた会社で働く。そんなことをこの100年間くらい、人類は初めて体験した。住処と職場が遠く離れているなんてこれまでの人間の生活にはありえなかったのだ。
欧米は、70年代くらいにそのイビツさに気づき、宇宙を見直したのかもしれない。だが日本はこのイビツさから抜け出せない。その原因が、会社社会主義だ。会社を中心に制度を網の目のように張り巡らしたために、全部を見直さないと修正できないのだ。
この見方で大事なのは、ということは、宇宙を変える際に「会社に人生を預けない」ことが重要な鍵を握る点だ。いま雇用の議論になると全員を正規雇用にするべきだ、と主張する人が多い。ほんとうにそうだろうか。
正規雇用を求めると言うことは、会社に人生を捧げるということなのだ。図の会社ムラの住人になるのが正社員で終身雇用の真実だ。だからこそ、女房子どものために残業もいとわず働き、会社に忠誠心を示して辞めさせられないようにして、女性の進出を拒んできたのではないか。会社ムラの論理から逃れるには、正社員正社員と叫ばないほうがいい。会社に人生を委ねるのは、人生の主体性を喪失することにほかならない。子育て村中心の社会にしていくことと、正社員主義は相反するものだと認識すべきだ。重たいけれど、そのことにぼくたちは気づかねばならない。
人生はもっと柔軟にできないものか。
正社員主義は雇用を固定化する。労働を流動的にしたほうが子育て村にはかなうと思う。男性も女性も育休産休でいっそ退職して一年暮らしても、復帰する時には仕事が容易に見つかるようになればいい。夫がある時、もう一度勉強したいと会社を辞め、主夫しながら大学院に通う間、収入は妻が稼ぎ、夫は博士号を得てまったくちがう分野で頭脳労働者になる。落ち着いたら今度は妻が小規模な起業をするために退職して技術を学ぶ専門学校に通う。それくらい出たり入ったりの職業人生が過ごせてもいいと思う。
子育て村を中心にした世の中に変えていくとは、そういうことだと思う。これを実現するには、社会が「あんたたちの子育てになんかあったら社会がバックアップしますから!」というメッセージを発し、それに伴う制度を整える必要がある。「子どもを作ったのはあんたたちが望んだからで自己責任でしょ」ということでは、少子化は止まらず社会は衰えていくだろう。
ではどうやれば変えられるのか。そこはぼくには、まだ明確にできていない。ただ、すでにこの一年間だけでも、ずいぶん世の中は変わったと思う。例えば、ぼくがここで書くまでもなく、少子化と長時間労働には密接な関係があることを、すでに多くの人が言及している。みんな気づいている。三年前、そんなことはごく一部の人しか認識できてなかっただろう。
それから、世の中を変えるのに国がやることはあんまり関係ないというか気にしなくていいと思う。世の中を動かしてきたのは、少数の権力者ではなく、多数の名もない市民だ。ぼくたちはこれまでも世の中を変えてきたのだ。
あまり国をアテにしても仕方ないし、国への不満をぶっても世の中は変わらない。でも、ぼくたちにできることは必ず有り、それを積み重ね、広げることで変わっていく。必ず変わっていく。そんな中で、自治体の助けを借りたりしたほうがいいと思うし、国に制度を作ってもらう必要もあるだろう。国に求める前に、ぼくたちが何をすべきか考えることがずっと大事だ。
とは言え、具体的なやり方も少しずつ考えていきたい。ポイントは行政の活用だと思っているが、それはまた別の記事で。
ところで、ここで書いてきたことを本にまとめたのだけど、インディペンデントな出版社の無名の著者の本なのでなかなか書店に置いてもらえない。置いてくれるところはどんと置いてくれるけど、そうでもない書店はそうでもないのだ。みなさん、お近くの書店に「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。」を仕入れてよと頼んでください!
※このブログを書籍にまとめた『赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない』(三輪舎・刊)発売中です。
※「赤ちゃんにやさしい国へ」のFacebookページはこちら↓
コピーライター/メディアコンサルタント
境 治
sakaiosamu62@gmail.com