山手線を新橋駅で降りて、汐留の地下道から日本テレビが入っているビルの受付に上がっていくエスカレーターがある。そこにはドラマの番宣など日テレの宣伝ポスターが掲示されているのだけど、いまは写真のようなポスターが掲げられている。これは正月の新聞広告でも使われたビジュアルで、これを見た時、「ををー!」と声に出して驚いた。
説明するまでもないと思いつつ少し解説すると、"日テレ"のロゴマークがテレビ受像機だけでなく、タブレットやスマートフォンなどありとあらゆるモニターを通して見えている。象徴的なビジュアルで、つまり日本テレビはテレビ受像機だけでなくあらゆるデバイスでみなさんと接点を持っていきますからね、とメッセージしているのだ。この企画でよく社内通ったもんだなあとか、他局の人はどう受け止めたのかなあとか、あっちの局やそっちの局だと絶対通らないだろうなあ、などと妙にインナーなことを考えてしまった。実際、誰がどう見てもマルチデバイスで先んじている日テレだからできるアイデアだと思う。
「テレビ」という言葉には3つぐらいの意味がいっしょくたに詰め込まれている。コンテンツとしてのテレビ番組のことであり、電波を使うテレビ局のことであり、映像を映しだすテレビ受像機のことだ。その構造がいま、ちょっと解体されつつある。必ずしも電波を使わないかもしれないし、テレビ受像機ではないデバイスで視聴できることもある。では何がテレビなのかというと番組なのだろうけど、テレビという言葉は電波による映像放送システムのことであり、それを受信する受像機の名称だったはずで、結局何がテレビなのかいま、わからなくなってしまいつつあるのだ。このポスターを見ていると、そんなことまで考えてしまう。
日テレがそういう表現を企業広告で行う2015年に、Netflixが日本にやって来るのはタイミングとして実に絶妙だなと思う。テレビとは、テレビなのかテレビじゃないのか、という禅問答をかき乱すのなら、今年しかなかっただろう。
Netflixについては、AdverTimeにこんな記事を書いたので、参考にしてもらいたい。
また西田宗千加氏がAV watchに書いたこの記事は、Netflixがアメリカで成功した要因と日本への影響を考察している。
また同じAV Watchに、Netflixの"中の人"と、対応テレビをいち早く発売した東芝の方のインタビュー記事が出ていた。これもNetflixの姿勢がよくわかる記事だ。
さてAdverTimesのぼくの記事には「黒船なのか?」という表現がある。これはもちろん、危機感をあおるために「黒船」と意図的に書いているのだが、まんざら誇張でもないつもりだ。
だからといって、Netflixが国内のテレビ局やマスメディアを駆逐するなどと言いたいのではない。よく思いだして欲しいのだけど、ペリーの黒船は徳川260年の眠りを覚ましたけれども、彼らが幕府を滅ぼしたわけではない。条約を結んだあとは領事館で日本の行く末を見守っていただけだ。Netflixを黒船になぞらえたからといって、やつらが国内事業者を滅ぼすと言いたいのだな!と受け取るのは早合点というものだ。
Netflixは国内メディア関係者を大いに刺激するだろう。そしてそこから業界が大きく変化するだろう。ぼくが言いたいのはそういうことだ。そしてそれは、むしろいいことのはずだ。少なくとも、コンテンツ制作者にとってプラスに働くと思う。
実際にぼくが得た情報では、Netflixはすでにオリジナルコンテンツ制作に向けていくつかの打診をはじめているようだ。そして同じ動きを、既存の国内VOD事業者がはじめたそうだ。つまり、VODのためのコンテンツ制作がこれから活発になるのだ。しかもテレビ番組並みの制作費がちゃんと出てくる。(ここが重要!)
「日本のコンテンツメイカーは結局テレビ局なのだ」とよく言われる。これはその通りだけど、それだけではない。テレビ局主導で作られるケースがほとんどだが、テレビ局だけではすべてを制作できない。専門の制作会社が数多く存在するし、脚本家や構成作家は基本フリーランスだ。ディレクターも、テレビ局所属の人もいれば制作会社の社員もいるし、もちろんフリーランスの人も多い。
テレビ局社内の制作者のほうが、ビジネス面では長けているし、マーケティング感覚もある程度ある。制作会社やフリーの人は職人気質でレベルも高いが、ビジネス感覚が弱い。そんな傾向はあるにせよ、VOD事業者の依頼に応えられるのはテレビ局だけではないのだ。テレビ局社内の制作陣に依頼するには、テレビ局そのものとの交渉になり、作ってもいいけどこれこれな条件でどうか、と複雑な交渉になるのに比べ、制作会社やフリーランスだと、純粋に作るかどうか、予算が見合うか、だけの交渉になる。話は早いだろう。
そういう交渉がもうはじまっているし、これからあちこちで具現化したり、一般化したりするのであれば、それは喜ばしい事態だと思う。そういう時代になるのを待ち焦がれていた制作者は多いはずだ。
つまり、コンテンツの流通事業者がいいバランスで増えるので、コンテンツの価値が高まり、制作できる会社や人材の価値も高まる。「いいバランスで増える」というのが重要で、ネットみたいに一気に増えると何でも安くなってしまうのだけど、BtoBのプレイヤーが増えることにより作り手にとって好ましい状況が出てくるということだ。蛇口の数が倍くらいに増えると、水を確保するためにコストを使おうとするので水の価値が高まるわけだ。水の質も問われ、おいしい水が確保できるなら蛇口の利用者も増えるので、おいしい水にはお金も払う。
長くなるので詳しくは書かないが、日本とアメリカは制作者の立場や収益性がまるでちがうのだけど、少しだけアメリカ側に近づくのだと言える。ただ、そうなると制作者にはビジネスマインドがいままでよりずっと必要になる。作りたいもの作ればお金のことなんてどうでもいいっす!とカッコつけててその実めんどくさがってたのが日本の制作者だけど、そんなんじゃ置いてかれるだけだろう。
テレビ局はダメになっていくかというと、そう単純ではない。むしろこれからも、最大の蛇口としての役割は必要なはずだ。ただ、これまでと比べると、放送システムより制作陣営のほうが重要になる。テレビ局の制作者が、Netflixだけで流れるドラマを作る、というケースも出てくるだろう。テレビ局を辞めた優秀なディレクターがVOD事業者の間で奪い合いになることもありえる。テレビ局としては、そうした制作能力をうまく利用して総合的なコミュニケーションの中で優位を保とうとすべき、という時代になると思う。ただし、そういう戦略的な動きが"局として"できればの話だ。キー局であれ、ローカル局であれ、戦略がないと地位は下がっていくばかりになるかもしれない。世帯視聴率は今後も上がりっこないからだ。
最後にこれは希望的観測で具体的事象は薄いけど、この傾向は映像制作界だけの話でもないと思う。ぼくたちのようなテキストの書き手やグラフィカルな制作者(デザイナーや写真家)にも近い傾向が出てきて、制作者の価値は高まると信じている。これは"予感"にすぎないので、そのうちまた考えをまとめて書こうと思うけど。総じて、コンテンツ界は悪くない方向へ向かっているとぼくは思っている。
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コピーライター/メディアコンサルタント
境 治
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