大腸がん(ステージ4)からの社会復帰、12年目

自然の中に出かけることで心が癒された。誰もいない場所、人がいない場所が心の救いの場だった。

こんにちは。

がん患者さんの社会復帰を支援するNPO法人"5years"の大久保淳一です。

私は5yearsの他に「ミリオンズライフ」というウェブメディアも運営しています。

日本各地のがん経験者の方を取材して、がん闘病から社会復帰までの感動的な実話を紹介するサイトです。

これまで31名の方(2017年12月時点)の体験談を公開しており、今回は、森島俊二さん(大腸がん(S状結腸がん)ステージ4)をご紹介いたします。

本編は第13話まである長編ですが、ここでは要約した短い内容に致します。

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「プロポーズらしいプロポーズはしてないんですよ」

照れと恥ずかしさからそうなった。

大腸がんの肝臓転移から8カ月後に、お付き合いしていた朋子さんと入籍した。

❏ 大腸内視鏡検査

2006年・夏

神奈川県在住の森島俊二さん(46歳、2006年当時36歳)は健康診断の結果を見て「おやっ」と思った。

「便潜血検査:陽性、再検査・要」

でも、あまり気にはならなかった。

なぜなら森島さんはまだ36歳と若い。

しかも、お酒・タバコはまったくやらない。

毎週末スポーツジムのスカッシュ教室で仲間たちとスカッシュをしていて運動不足ということはない。

だから健康診断の結果は気にならなかった。

季節は夏から冬に変わり2007年1月。トイレで用をたすと時々便に血が混じってくる。

「ぢ」かな?

お尻を紙で拭くと血がつくことがあった。

そして梅雨に入った頃、今度は「いちごジャム状」のドロッとした血が出た。

あめ玉くらいの大きさだ。

ネット上で情報検索し確認するが、痔とは思えない。

だけど仕事が忙しいから、会社を休んで病院には行きにくい。

7月に入ると自分でもびっくりすることが起こる。

会社の事務所が4階にあり、みんなと一緒に階段を登るとき自分だけついていけない。

貧血状態になっていた。

だから、会社が夏休みになる7月下旬、相模原市にある総合病院に行った。

痔(ぢ)ですねと言われることを期待して外科を訪れる。

しかし医師は肛門を触診して言う。

「これは痔ではありません。なるべく早く大腸内視鏡検査をしましょう」

それから1週間後の7月31日、内視鏡検査を受けた。

待合室に戻ると直ぐに診察室に来るように案内された。

ノックして入る。

なんとそこには父親と母親がいた。

帰りが遅いと心配して病院に来た両親だったが、先に医師に呼ばれ説明を聞いていた。

2人とも冷静に淡々と聞いている。

狭い診察室に4人。

「生検に出さないと悪性かどうかわからないですが、観るからに悪性だと思いますよ。病理検査の結果がでたらすぐに手術できるように準備しましょう」

医師が言う「悪性」が「がん」を意味していることは理解できた。

❏ 1回目の腹腔鏡手術

3人で自宅に戻るとそれまで静かだった母親が「ちょっと大変なことになっちゃったね」と寂しそうに言う。

森島さんは「悪いことをしちゃったかな。もっと早く病院に行けばよかった」

親を心配させたことで負い目を感じた。

休みが明けて会社が始まるとさっそく上司に報告した。

そして8月に入り1週間程度休み、病院ですべての検査を受けた。

CT画像検査、超音波検査、腸にバリュウムを入れて撮影する注腸検査、血液検査、MRI...

2007年・夏、総合病院

医師から検査結果の報告を受けた。

「病理検査の結果、がんでした。S状結腸にがんがあります。なるべく早く手術して取った方がいいですよ。この病院でもできますがどうしますか?」

手術は腹腔鏡で行うと説明され、10日間程度の入院で2週間から1カ月もすれば仕事に復帰できるという。

「ぜひ手術をお願いします」

がんという言葉に落ち込むというよりも、むしろ会社にすぐ復帰できる喜びの方が大きかった。

2007年8月24日

腹腔鏡によるS状結腸がんを切除する手術が行われた。

両親と兄が見守るなか森島さんの手術は3時間程で終了。

母親か誰かが言った。

「終わってよかったね。ちゃんと大腸は取れたってよ。リンパも取ったって。とったから大丈夫だよ」

森島さんの大腸がん(S状結腸がん)は、進行ステージ3aと評価された。

8月の終わりに退院し、1カ月ちょっと休み10月1日から復職する予定にした。

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❏ 肝転移の知らせ

一方治療はというと10月より経口の抗がん剤「UFT」治療が始まった。

1日3回、4週間毎日服用し、次の1週間は休薬期間。

この化学療法「UFT」治療を合計6クール行う。

翌年の4月に終了する見込みだ。

森島さんは10月から会社に復帰し、会社の復帰プログラムについて説明された。

それによると、最初の2カ月間、時短勤務はあるもののフレックスタイム制度を使えない。

補助化学療法が始まっていたため、その日の体調に波がある森島さんにとっては時短で嬉しいと言うよりむしろフレックスを使えないことがつらかった。

抗がん剤「UFT」の副作用で、だるさと倦怠感を感じていた。

インターネットで調べると森島さんの大腸がんと進行ステージ3aの5年生存率があった。

それによると完治が7割、残りの3割は再発、或いは転移とある。

そのことを自分に置き換えて考え「俺の場合、半々かな...」そんな気がした。

静かな気持ちで無機質の数字をながめた。

自分の場合がんと闘うという感覚ではない。

気をつけよう...、そう思って数字をながめた。

そんな森島さんに両親はいつも通り普通に接してくれた。

特別扱いせず「がんになる前と同じ」に接してくれたのが嬉しかった。

やがて半年が経ち2008年4月。抗がん剤治療は、すべて無事に終了した。

慌わただしい9カ月、この期間、森島さんは仕事と治療を両立させて乗り切った。

すべての治療を終えてからは平穏な日常を取り戻していた。

しかし...、

2009年6月、病院に検査結果を聞きに行ったとき担当医が真剣な顔をして言う。

「今回のCTの結果、肝臓に影が見つかりました。大きさは、3cm × 4cm。大腸がんの肝転移だと思います。まず抗がん剤治療をやりましょう」

「えっ...?」

ショックだったし驚いた。

肝転移については「ついに来たか...」という思いと「半年前は映っていなかったのに、わずか6ヶ月間でこんなことになるなんて」というショックな気持ち。

一方で、情報サイトによると腫瘍が3個以内なら原則手術して切るとあったから意外だった。

森島さんはセカンドオピニオンを聞きたいとして紹介状をお願いする。

❏ 大腸がん、進行ステージ4

国立がん研究センター中央病院は、まず腫瘍内科に行ったら「これなら切って取った方がいい」ときっぱり言われ、直ぐに肝胆膵外科の医師を紹介され、その日に診察された。

とても手際がいい。

そして「1つだし、これくらいのサイズならすぐに取った方がいい」と外科医が勢いがよく助言し「(うちで手術を受けるか)どうしますか?」と聞かれたのでお願いした。即決だった。

2009年9月、森島さんは肝臓に転移したがんを取り除く手術を国立がん研究センター中央病院で受けた。

執刀した医師は「ちゃんとしっかり取れましたよ。もう大丈夫」そう声をかけてくれた。

森島さんは10月上旬までの2週間弱そこに入院していたが、この間、毎日のように3歳年下の朋子さんが見舞いに来てくれた。

スポーツジムのスカッシュを通じて知り合い、お付き合いが始まっていた。

朋子さんは仕事が終わると東京・築地までやって来て病室で森島さんと一緒に夕食を食べて帰った。

退院してしばらくしてのこと、森島さんはそろそろ結婚したいという気持ちを伝える。

照れと恥ずかしさからプロポーズらしいプロポーズになっていなかった。

また、自分が今後どうなるのかわからないという気持ちから中途半端なプロポーズになってしまった。

それでもしっかり屋の朋子さんは受け入れてくれて翌2010年2月に二人は入籍した。

今回の肝臓への転移により森島さんの大腸がんは進行ステージ4となった。

しかし「たぶん大丈夫だ」という自信がある。

うまく説明できないが自信があるのだ。

手術のあと11月から会社に再復帰。

とても順調で普通に残業もできる体力になっていた。

2010年に入り森島さんはスポーツジムにも再び入会する。

仲間たちとスカッシュを楽しむ元の生活を取り戻し出した。

そして2010年6月、朋子さんと正式な結婚式を挙げ、みんなから祝福された。

幸せな時を過ごしていた。

肝臓に転移したがんの手術を終えてからは、結婚、スポーツクラブ再入会と幸せなことが続いていた。

❏ 黄だん症状

そんな矢先の2012年1月、森島さんに異変が起こる。

夜、寝る前、足の裏がかゆくて仕方がなくなる。

何となく顔も黄色っぽい。

1週間経ったら尿が紅茶のような色になる。

1月15日に例の相模原市の総合病院に行くと、これは皮膚科じゃないと言われ外科にまわされる。

血液検査の結果、「黄だん」という診断。

自分でも「今までとは違ったことが起きている」と感じた。

CT画像検査の結果、胆管がつまっていてビリルビンの値が上がっているとわかる。

大腸がんのリンパ節転移によりリンパ節が腫れあがり胆管を押しつぶしていた。

つまり2度目のがん転移だった。

治療としては、まず狭まった胆管を内側から押し広げるためにステントを通す手術。

さっそく内視鏡を使って行われた。

もう一つの治療は絶食して点滴だけで栄養分を取り、時間とともに黄だんがひくのを待つ方法。

なんともまったりとした治療で体力と気力がぐっと落ちた。

結局1ヶ月半入院したが、ビリルビンの値は正常値にまで戻り、3月に退院。

森島さんは今後の治療方針について意見を聞くため国立がん研究センター中央病院を訪れた。

肝胆膵外科医によるとそのリンパ節は太い血管の近くにあるため手術はできないという。

相模原市の総合病院と同じ意見だった。

今後は、直に及ぶ抗がん剤治療のみとなった。

この頃の森島さんはとても弱気になっている。

なぜなら黄だん症状がでた大腸がん患者について調べるが、5年生存率は高くない。

たまらず医師にぼやいた。

「先生、(私のように)ステージ4だと5年生存率が15%と書いてあるんですが...」

即座に反応した医師は強くはっきり言い返した。

「君は君なんだから、他人とは違うんだから。世間一般の数字なんか気にすることはないじゃないか!」

そう言われ嬉しかった。

「人は人。自分は自分」そう思うように決めたときだった。

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❏ 抗がん剤治療の再開

そして4月から抗がん剤(FOLFOX+パニツムマブ)治療が開始。

3週間ごとに3日間入院して点滴で治療することになる。

これが森島さんのサラリーマン人生に大きく影響した。

コマ切れの出社になるし体調が悪い日も多い。

自ら依願して長期の休職扱いにしてもらった。

給料が出ない代わりに傷病手当が出るのだが社会保険料や税金などを会社に収めなくてはならない。

収入は減ってしまった。

抗がん剤(FOLFOX+パニツムマブ)の効果を感じるものの副作用には悩まされた。

一番の悩みはアレルギー反応。皮膚障害が出てしまいCVポートによる治療ができないことだ。

さらに薬を入れると1週間ほどはだるくて具合が悪い。

朋子さんは平日仕事に出ているので日中の食事は自分で作らなくてはならず自然と料理を覚えた。

家にこもっていると精神的によくない。だから森島さんは体調のよい時、野山、湖に出かけた。

自然の中に身を置くと気持ちが落ちついた。

長期の休職扱いにしてもらっているので森島さんには仕事がない。

気分転換にと思い外出すると「平日のこんな時間に普段着でぶらぶらしているなんてこの人はいったい何をしているんだろうか?」と周囲からみられるような気がして恐かった。

でも病気をしているから仕方がない。

今の自分の第一優先は治療なんだ。

そう自分に言い聞かせるが、真面目な森島さんは負い目に感じてしまう。

だから自然の中に出かけることで心が癒された。

誰もいない場所、人がいない場所が心の救いの場だった。

 11年間の重み

そんな生活が1年過ぎ、2013年4月、エルプラットによるアナフィラキーショックのため抗がん剤を変更することになった。

今後は、「FOLFIRI」と「ゼローダ」の組み合わせとなる。

FOLFIRIは点滴による抗がん剤治療だが通院による治療が可能。しかもゼローダは経口の飲み薬。

だから入院しなくていい。

これを機に森島さんは2013年のゴールデンウィーク前に会社に復職する。

求めていた社会との繋がりが再び実現した。

抗がん剤が替わったことでこうも生活が替わるものかと感じた。

再び朝から会社に行って仕事をする生活に戻れたのだ。

ただ1年間のブランクがあり体力も落ちていたので、最初はストレスの少ない事務仕事を担当することになった。

資料を集めて纏め上げる仕事。

そしてこの仕事が何とも面白い。

とても勉強になる仕事で楽しくて仕方がない。

森島さんは会社と上司に感謝した。

その仕事を半年間担当したあと再び設計の仕事に戻った。

2013年秋のことだった。

会社、治療、家族と、また平穏な生活がつづいた。

今回は最初からCVポートをあけ、薬を入れるので通院で済む。ただし3日間、デフューザーポンプを持ち歩かなければならない。

2016年7月からよたび復職した。

この11年間で6回入院し、5回復職、5種類の抗がん剤治療をこなした。

その都度、目に前にある試練を乗り越えて元の生活を取り戻してきた。

温和な森島さんがやってきたことは、どんなすごい鉄人でも成し遂げられない偉業ばかりだ。

荒波にもまれた11年。

いま思うことは、なるべく多くの時間を家族との時間に充てたいということ。

朋子さんはしっかり者で森島さんの体調に合わせてお楽しみイベントを予定する。

例えば、劇団四季のミュージカル鑑賞の予定は半年先までびっしりで、二人にとって至福の時だ。

そして、釣りが大好きな森島さん。

今はフライフィッシングにはまっている。

綺麗にループを描き目指したところに力を入れずとも飛んでいく理想の投げ方に近づいてきている。

確実に上達しているのだ。

フライフィッシング用の「毛針」だって自分で作る。

これがまた楽しくて仕方がない。

いつもこういう毛針がいいんじゃないかとあれこれ考えているほどのめり込んでいる。

そろそろまたスポーツクラブに入会しようかと思っている。

がん発症から11年が経ち、不思議とかなり先のことを考えるようになっている。

がん治療が始まった当初は、1カ月先、1週間先しか見ていなかった。

でも今は半年先のことを考えたりする。

病気との付き合い方がわかり、森島さんはいま楽しみなことに囲まれた生活を楽しんでいる。

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森島さんの話を伺い、人の幸せとは、普段の何でもない日常の中にたくさんあると感じました。

がん治療を11年間こなす一方、普通に会社に行き、家族との時間を楽しむ。

温かみと優しさにあふれた素敵な話を取材させて頂きました。

森島俊二さんの全記事(1~13話)インタビュー記事はこちらです。

また、他の31名のがん経験者の方々のストーリー記事はこちらです。

大久保淳一