■医薬品トップ企業の誇大広告を暴いたNHK報道
医薬品最大手の武田薬品工業が、14年間での売上が1兆4000億円余りに上る高血圧治療薬「ブロプレス」に関する「重大な犯罪」、そして、医薬品メーカーとしてのコンプライアンスの根幹に関わる「重大な不祥事」に直面している。
同社のトップ長谷川閑史氏は、経済同友会の代表幹事、日本製薬工業協会会長を務める財界のリーダーであり、政府の産業競争力会議の民間議員として、安倍政権にとっても重要な地位にある。
そういう日本の財界のトップ企業を追い詰める報道を行ったのが、籾井会長の失言問題によって公共放送としての組織のガバナンスの根幹が問われているNHKの報道班だ。
2月27日の午後6時のニュースで、「大手製薬会社、武田薬品工業が販売する高血圧の治療薬が、狭心症などの発症をどのくらい抑えられるのか調べた大規模臨床研究のデータが、薬の宣伝広告に使われた際、一部、病気を発症するリスクが低くなるよう変わっていたことがわかりました。」などと報じたのに続いて、翌28日の午後6時、7時のニュースでは、「ほかの製薬会社の薬と比べた臨床研究の結果を、平成18年ごろ、薬の宣伝広告に使った際、一部、病気の発症を抑える効果が高くなるようデータが書き換わり、研究の結果と異なるグラフが作られていたものです。さらに広告では、複数の専門家がこのグラフの意味を解説する形で、ブロプレスをより長期に使うと、狭心症などになる割合が減っていくなどと、臨床研究の結果と異なる宣伝をしていたことが新たに分かりました。」と報じた。
決定的なのは、28日のニュースで、「臨床研究結果の解説をしていた1人で、臨床研究を行ったチームの代表者だった猿田享男慶応大学名誉教授が、NHKの取材に対し、『広告の記事内容は誤りで、事前にチェックすべきだった。』と話しています。」と、広告の記事が誤りであることを正面から認める研究チーム側のコメントを報じたことだ。
■ノバルティス社に続く誇大広告薬事法違反の表面化
昨年、ノバルティスファーマ社の高血圧治療薬ディオバンの臨床試験に関して、全国6大学の臨床試験データが改ざんされていたことが明らかになり、狭心症などへの効能に関して事実に反する宣伝広告が行われていた問題について、厚労省が同社を薬事法違反(誇大広告)で東京地検に告発、東京地検特捜部は、同社と、臨床試験を行った大学等に対して、捜索差押を行っている。
それと同種の高血圧治療薬の臨床試験に関しても重大な不正が行われていたことを報じたNHKの報道は、最近の企業不祥事報道の中でも特筆すべきものと言えよう。
当ブログ記事【ノバルティス社告発、真相解明を検察に「丸投げ」した厚労省】【ノバルティス社告発、何が「犯罪」なのか】でも述べたように、ディオバンの事件については、同社社員が大学での臨床試験データの改ざんに関わっていたとしても、その事実が、同社において宣伝広告を行う部門において認識されていた事実がなければ、法人としての同社について違反に問うことは困難であり、刑事事件での起訴のハードルは高い。
しかし、今回、NHKが報じている武田薬品の問題は、臨床試験データの改ざんなどというややこしい問題ではない。論文で発表された臨床試験のデータを、一部、病気の発症を抑える効果が高くなるようデータを書き換え、研究の結果と異なるグラフを作り、事実に反する広告宣伝を行ったという極めて単純な話だ。報道の通りだとすると、それが社内のどのレベルまで関与して行われたかは別として、武田側に誇大広告の薬事法違反が成立することは否定し難いのではないか。
薬事法の誇大広告に関する罰則は、「2年以下の懲役」、「2百万円以下の罰金」のいずれか又は併科であり、公訴時効が3年なので、論文のデータと異なったグラフを用いた広告宣伝が2011年3月以降まで継続していことが条件となるが、それが充たされている限り、ノバルティスファーマ社の事件の捜査の対象が、武田薬品に拡大することも十分にあり得る。
■医薬品メーカーのコンプライアンス問題としての重大性
今回の高血圧治療薬ブロプレスの広告宣伝をめぐる問題は、薬事法という法令に関して重大な問題であることは明らかだ。しかし、問題は、決してそれだけに留まるものではない。それ以上に重要なことは、今回の問題が、医薬品メーカーのコンプライアンスの根幹を揺るがす極めて重大な問題だということである。
私は、コンプライアンスは、「法令遵守」ではなく、「社会の要請に応えること」だと、拙著【「法令遵守」が日本を滅ぼす】(新潮新書:2007年)などで一貫して述べてきた。
医薬品メーカーにとっての「法令遵守」は、薬事法の規定に従って、治験を正しく行って効能を確認し、厚労省の承認を受けた医薬品を製造販売することである。しかし、高血圧治療薬の場合、血圧を下げるという効能の先には、実質的に脳疾患や心疾患等の疾病の治療、改善・予防の効果が期待されているのであり、本当の意味で「社会の要請」に応えるためには、薬を処方する医療者に、その点について正確な情報を提供しなければならない。
「高血圧症」というのは、脳疾患、心疾患等のリスクを高めるとされている「血圧の状態」であって、その症状自体というより、高血圧症から引き起こされる重大な合併症の方が問題となる。つまり、高血圧治療薬の目的は、第一次的には「血圧を低下させること」であるが、最終的な目的は、脳疾患、心疾患等のリスクを低下させることであり、その目的に対してどの程度有効であるかについては、多くの患者に対する臨床試験を行うことで明らかになる。その臨床試験の結果をふまえ、それぞれの医師が、どの薬を患者に処方するかを判断することになる。
そういう意味で、高血圧治療薬に実質的な疾病予防の効果があるのか否か、どの程度の効果があるのか、ということに関して、「正確な情報を提供すること」は、医薬品企業の「社会の要請に応える」という意味のコンプライアンスにとって、極めて重要なことなのである。
今回明らかになった、臨床試験結果のデータを偽って宣伝広告に使用する行為は、医薬品のコンプライアンスの根本を揺るがすとして極めて重大な不祥事だと言わざるを得ない。
28日のNHKのニュースでは、この問題に関する武田薬品側のコメントが紹介されている。その中の「治験で確認された、血圧を下げるという薬の効果には問題ない。」という言葉は、日本の医薬品最大手企業である同社のコンプライアンスの考え方が、「薬事法遵守」のレベルに止まっていて、医薬品メーカーとしての真のコンプライアンスとは程遠いものであることを端的に表したものといえる。「治験によって効能を確認し、製造承認を受けるという薬事法上の『法令遵守』に関して問題はない。発売後の臨床試験やその結果に基づく広告は、薬事法に関して重要な問題ではない。」というのが同社の認識なのであろう。そこでは、高血圧治療薬に関する医薬品メーカーに対する重要な「社会の要請」が見過ごされている。それだけではない。それが、薬事法上も誇大広告の禁止の規定に触れる違法行為だという「法令遵守」に関する認識も欠落しているように思えるのである。
武田薬品側のコメントは、高血圧治療薬に関して、臨床試験によって明らかにすべき薬の実質的な効果の重要性と、それに伴う社会の要請を十分に認識していないことを端的に表すものである。このようなコメントを引き出して報じたことにも、NHK報道班の的確な問題意識が表れていると言えよう。
■日本における高血圧治療薬の現状
高血圧治療薬には、利尿薬、カルシウム拮抗薬、アンジオテンシン変換酵素阻害薬(ACEI)、アンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬(ARB)などの種類があり、それぞれの種類ごとにいくつもの薬が製造されている。
これらは、いずれも相応の血圧低下の効果は認められているが、心臓等の臓器保護作用などの副次的作用については、様々な評価があり、高血圧症の患者に対して、そのうちどの薬を処方するのかは、現場で診療に当たる医師の判断に委ねられる。
世界的には、高血圧の治療薬で一番推奨されているのはサイアザイド系利尿薬であり、売上も多い。ところが、日本においては、武田薬品のブロプレスと、ノバルティス社のディオバンが、いずれも1000億円以上を売り上げ、2012年には全医薬品の売上ランキングの1位、2位となるなど、ARB高血圧治療薬が圧倒的多数を占める。それがいびつな状況であることは、以前より一部の医師等から指摘されてきた【「本当に」医者に殺されない47の心得 [心得13] 高血圧の治療薬 そのいびつさ】。
そのような日本における高血圧治療薬をめぐる状況に大きな影響を与えてきたのが、大学等で行われてきた臨床試験である。上記のように、高血圧治療薬の最終的な目的は、脳疾患、心疾患等のリスクを低下させることなのであるから、医師はそのために最も効果的な薬を選択しようとする。高血圧治療薬による脳疾患、心疾患等の予防・改善効果を総合的に検証するために行われる臨床試験の結果が、医師の判断に重要な影響を与えるのは、ある意味では当然と言えよう。
慈恵医科大学を中心に行われた「Jikei Heart Study」 では、ARBのディオバンが脳疾患、心疾患等のリスクを低下させるとの臨床試験の結果が出されて医学雑誌等で公表された。そして、京都大学、大阪大学等の研究チーム「CASE-J」による臨床試験では、ARBのブロプレスとカルシウム拮抗薬のノルバスク(ファイザー社)との効果の比較が行われた。
このような臨床試験に関して、「データの改ざん」が行われ、改ざんされたデータによる広告宣伝が行われたのがディオバンの問題、「データと異なる広告宣伝」が行われたのが、今回の武田薬品のブロプレスの問題なのである。
ARB高血圧治療薬に対して膨大な医療費が投じられてきたことは、果たして国民の健康に、高血圧症によって起きる心疾患、脳疾患の予防・改善にとって合理的だったのだろうか。日本の高血圧医療の在り方にも深刻な疑問を生じさせるのが、今回の一連の問題なのである。
高血圧治療薬のほとんどが特許切れで低価格で販売されている中、特許期間が残存していたARBだけが高価格を維持してきたが、2014年にはディオバン・ブロプレスいずれも特許切れを迎え、それ以降は、薬価も下がり、ジェネリック医薬品の登場で売上が低下することが予想される。2つのARB高血圧治療薬について、特許切れ前の最後の時期に、臨床試験のデータを不正に使用した広告宣伝が行われ、医薬品メーカーに膨大な利益をもたらしたことになる。
■ノバルティス社を告発した厚労省には告発回避の選択肢はない
今回の誇大広告問題の問題は、約1兆4000億円に上る対象医薬品の売上規模のみならず、日本の医薬品業界のトップ企業が起こした医薬品メーカーのコンプライアンスの根幹に関わるという問題の中身においても、「史上最大の企業不祥事」だと言えるであろう。
籾井会長問題でガバナンスの危機にさらされるNHKは、医薬品業界のリーダーであり、日本の財界においても重要な地位を占める武田薬品の重大な不祥事の報道で、公共放送である報道機関としての役割を十分に果たした。
それは、既に、厚労省が、ディオバンの問題に関してノバルティス社を刑事告発していることと相まって、今後の刑事事件の展開に大きな意味を持つことになる可能性がある。
ディオバンもブロプレスも、いずれも、売上1000億円を超えるARB高血圧治療薬である。前掲ブログ記事でも述べたように、ディオバンについては、臨床試験でデータ改ざんが行われたことが明らかだとは言え、ノバルティス社内部の広告宣伝を行う側でデータ改ざんを認識していたことの立証は容易ではなく、刑事立件は相当に困難である。そのような誇大広告事件について敢えて刑事告発を行った厚労省にとって、論文のデータと異なる広告宣伝を行ったという、弁解の余地のない誇大広告について、公訴時効の問題がクリアされるのであれば、刑事告発を回避する選択肢があるとは思えない。
スイスのノバルティス社と日本の武田薬品とで、差別的な取り扱い行った場合には、国際的な問題にも発展しかねないという問題もある。
そのような状況を考えれば、検察当局も、本件の刑事立件の可能性について、早急に検討を行う必要がある。立件が可能と判断された場合、検察は、その捜査権限を、最大限に、なおかつ適正に活用して、公共放送の報道によって明らかになった「史上最大の企業不祥事」の真相に迫る役割を担うことになる。
(2014年3月3日の「郷原信郎が斬る」より転載)