8月は、広島・長崎平和祈念式典や終戦記念日があり、先の大戦に思いを馳せる機会が自然に多くなる月である。唯一の被爆国として、「被害者としての記憶」を継承することは非常に重要であると思う。と同時に、どうしても気になることがある。なぜ「加害者としての歴史」の継承の努力は極めて少ないように見えるのか。
「不可逆的解決」と日本の国益
恥を忍んで告白すると私自身、社会人になるまで「日本の第二次大戦中の加害者としての歴史」から逃げまどっていた。
日本の義務教育課程では、ネアンデルタール人や縄文土器、卑弥呼などの古代史はかなり丁寧に勉強する(そして私も古代史に壮大なロマンを感じる一人ではある)が、20世紀以降の近代史は最後の授業で超特急でさらうにすぎず、大学でも日本史を専攻した訳ではないので、実際学ぶ機会が無かったという事情もある。
と同時に、「そんな昔のことはわからないし、自分が直接加害者になった訳でもないし、そんなおぞましい話は知らなかったこととして、できれば触れたくない」という姿勢も多分にあった。
ところが大学院卒業後、最初に就いた公務員としての仕事で「従軍慰安婦問題」について担当することになり、嫌がおうにも過去の経緯について勉強せざるを得なくなった。
特に、日本政府の公式見解を国連の場で国際社会に向かって説明し理解を促すという立場であったため、(もちろん外交上非常に機微な問題なので、重要な方針は全て経験豊かな先輩外交官によって決定されたが)末端の担当官としての勉強と日々の業務を通して、どうすれば日本の立場を国際社会のロジックで分かりやすく説明できるか、どう説明すると日本の国益を効果的に促進できるか、という姿勢が自然に染みつくこととなった。
その日本の国益促進という観点から考えると、昨年12月28日の「日韓外相会談」共同記者発表において、日本の総理大臣としての「心からのおわびと反省の気持ち」が改めて表明され、また両国政府によって「最終的かつ不可逆的解決」が確認されたことは、(特に被害者を含め全員が納得するものではないことは重々承知しつつ、)日本の国益に資するものと言えるだろう。
「少女像の撤去」などといった極めて後ろ向きな要求に固執することなく、高齢となった被害者の方々の手元に一日も早く「和解・癒やし財団」を通じて日本国民の税金が届くことを願いたい。
ドイツによる「加害者としての歴史の継承」
第二次世界大戦中の「加害者としての歴史の継承」において、よく日本と比較されるのがドイツである。私自身ごく最近まで知らなかったのだが、先月現地で入手した「国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館」の公式パンフレットによると、ホロコーストの記憶の継承のために国際的な資金が集まり始めたのは90年代のことで、現在の「アウシュヴィッツ=ビルケナウ基金」が創設されたのも2008年と非常に最近とのこと。
また、同基金の予算総額1億2000万ユーロ(約140億円)のうち、約70億円は既にドイツ政府から拠出(コミット)済みとのことであった。当然ドイツ政府にしてみれば「戦後補償はとうの昔に精算済み」との見解であろうが、「加害者としての記憶の継承」のために政府として出資していることに留意したい。
そのドイツと言えども、「加害者としての記憶の継承」が一筋縄で行っている訳ではない。
「ルーマニアにおけるユダヤ人虐殺は誇張されたウソ」と発言したために、某ドイツ人大学教授が解雇されたのはつい数年前2013年のことであったし、既に94歳になる元ナチス看守に5年間の禁固刑が言い渡されたのは、今年6月のことである。ドイツとしても、未だに「歴史修正主義的」な思想や「不処罰の文化」に苦しみながら対峙していることが分かる。
現在進行形の「暗い過去との闘い」
更にドイツによる「暗い過去との対峙」を印象付けているのが、昨今のシリア難民危機に対するメルケル首相の対応である。既に累計100万人以上のシリア人が様々な経路でドイツに入国したとされており、最近では庇護申請者による暴行・殺傷事件も相次いだ。
しかし少なくとも現時点では、メルケル首相はシリア難民の積極的受け入れという基本姿勢を崩していない。その背景には、「ホロコーストという暗い過去と闘い続ける」という同首相の固い決意が垣間見られる。
ドイツ連邦基本法第16条1項は、「政治的理由により迫害される者は庇護権を有する」と明記している。
これは、65年前に作られた「1951年の難民の地位に関する条約」の趣旨と目的を反映していると共に、一般の国際法に謳われた庇護に関する権利よりも一歩踏み込んだ表現になっている。その「難民条約」が65年前に出来た大きな理由の一つが、ユダヤ人の大量虐殺に国際社会が効果的に対応できなかった、という深い反省であった。
つまり、ドイツ基本法に謳われた「庇護権」に留保をつけることは、とりもなおさず70年前の暗い過去に屈することになりかねない。メルケル首相の「迫害や身の危険を逃れた人々に保護を与える」という断固とした姿勢は、「ドイツは暗い過去と闘う」という国際社会へのメッセージなのではないか。70年以上前のナチスによる残虐行為に対するドイツの闘いは、ある意味「現在進行形」で行われていると言えよう。
日本による「暗い過去との闘い」
翻って、日本はどのように暗い過去と闘っているのだろうか。
例えば、「現代の性奴隷制度」とも言われる人身取引問題に関し、アメリカ国務省の年次報告書において日本は常に「第二群」あるいはそれ以下という評価を受けている。OECD加盟国のほとんどは「第一群」という評価であり、G7で「第二群」評価は日本だけだ。
また毎年「世界経済フォーラム」が発行しているジェンダー・ギャップ報告書2015年版でも(前年よりは上昇したが)、日本における男女平等は145カ国中101位という評価である。
確かにこれらの国際的報告書には、その評価指標やメソッドに聊か不明瞭なところもなくはないが、方法論を批判したところで日本の不名誉なイメージは払しょくされない。
また2014年6月には、イギリス外務大臣(当時)が、アンジェリーナ・ジョリー国連難民高等弁務官特使と共催で、「紛争における性的暴力撲滅世界サミット」を開催した。
「紛争下における強姦(レイプ)は国際犯罪である」という認識は、特に90年代前半から急速に発達したルワンダ国際戦犯法廷や旧ユーゴ国際戦犯法廷などの判例法と国際刑事法の発展を通じて、国際的に既に定着している。このような国際的取り組みにおいて、日本がより「顔の見える」形で音頭をとることはできないものだろうか。
例えば、現在もイラク北部等では、ヤジディ教徒の女性や女児が過激派組織「イスラム国」による性的暴力の被害に遭っている。そのような被害者で難民となっている者を、日本に受け入れることはできないだろうか。
仮に、ドイツやアメリカのように突然数十万人の難民を受け入れることは難しいとしても、極めて残虐な性的暴力の被害にあった女性や女児を、例えば数人・数十人だけでも日本に受け入れることができれば、「日本という国は、紛争下における性的暴力に断固とした姿勢で闘う国だ」という強烈なアンチテーゼを国際社会に発信することができる。
実は、スウェーデンやフィンランドなどの北欧諸国は、非常に脆弱な立場におかれた難民のための特別人道枠を、年間10~20人という規模で確保している。
そのような「特別人道枠」を日本政府として新設することを、例えば来る9月19日に国連本部で開催予定の「難民・移民の大量移動に関するハイレベル会合」の場などで発表することができれば、「暗い過去との対峙」という意味でも、またより今日的な「性的暴力を受けた女性や難民の保護」という意味でも、日本の国際的イメージの向上に大きく貢献するだろう。そのような戦略的思考は、日本には不可能なのだろうか。
もちろん外交は慈善事業ではない。国際社会において日本の国益を推進するのが外交であろう。真の意味で日本の国益を推進し、国際社会における名誉を回復するのであれば、「少女像の撤去」などといった、極めて後ろ向きかつ国際的には「歴史修正主義」的と取られかねない要求ではなく、現在進行形で起きている類似の蛮行に対して、より積極的に対峙する姿勢こそ有効なのではないだろうか。