予見不能な未来がもたらすタイの不安/黒ずむ街バンコクを歩いてみた

タイ社会の抱える不安は解消されておらず、今後も波乱含みだ。激動の恐れもあり、国民は息を殺して国の行く末を見守っている。

タイのプミポン・アドゥンヤデート国王が亡くなってから一か月余りが過ぎた。イベントや祭りは一部復活し、テレビも通常番組に戻りつつあるが、街は彩を欠いたままだ。「消費は落ち込んでいるものの、大きな混乱はなかった」と胸をなでおろす日本企業の関係者は多い。しかしタイ社会の抱える不安は解消されておらず、今後も波乱含みだ。激動の恐れもあり、国民は息を殺して国の行く末を見守っている。

服喪のバンコクを歩いてみた。大規模モールはもとよりチャトチャックやプラトゥーナムといった外国人観光客をあてこむ商業地区でも衣類といえば黒が主流、パッポンやナナなどの歓楽街も店員やダンサーのコスチュームが黒主体だから街はおのずと黒ずんでいる。国王が荼毘に付され、服喪が明けるまではこの状態が続くと思われる。

弔意を表したいと願って着ている人が大多数にしろ、黒服を着ていないかったために警察に呼び止められたり、周囲の人にののしられたりといった例があり、強い同調圧力がかかっている様子もうかがえる。黒服生産のフル体制に入った業者の事情や、複数の黒衣装を買ってしまった人の都合もあるだろう。

弔問の列に並ぶ人たち=バンコク王宮前広場で

11月初旬の月曜日午前6時半、国王の遺体が安置されている王宮内のドゥシット・マハ・プラサート宮殿へ向かう弔問の列に並んだ。前日の日曜日にも王宮前広場周辺を探索し、係員に聞いたら「6時間待ち」と言われた。月曜日の早朝、しかも到着時は大雨だった。さほど待たなくても大丈夫だろうと高をくくっていたが、甘かった。雨は上がり酷暑となり、再び雨が降るが、列は遅々として進まない。王宮前広場をほぼ一周し、正午過ぎに王宮内のワットプラケオに誘導された。棺が安置されている部屋に到達したのは午後2時10分だった。7時間40分! 靴を脱ぎ、裸足になって最後は横座りで拝礼する。この間約1分。写真撮影が許されない代わりに、部屋の写真、お米の入った小袋や、ヤードムと呼ばれるかぎ薬など「弔問グッズ」をお土産として手渡され、弁当と水もくれた。

並んでいる7割以上は女性だ。長蛇の列には、水や食べ物、お菓子などが次々と差し入れられる。役所や企業からの品々が多いが、粽などを作って配る個人も結構いる。タンブン(徳を積む)の一環なのだろう。

タイの仏教徒は、この世で身に降りかかる出来事のすべては前世の行いの結果だという輪廻転生を信じている。徳や善行を積めば積むほど、よりよき来世を期待できる。寺での寄進喜捨に限らず、広く善行を施すことがタンブンであり、徳の銀行預金のようなものだ。最高の善行は出家することだが、男子に限られている。「仏教徒でありかつ宗教の保護者」と憲法に定められている国王への弔問は同時に善行であるのかもしれない。

ワットプラケオで弔問を待つ人々

黒ずむ街を歩いていて奇妙に感じるのは、プミポン国王の肖像があふれる一方、次期国王となるワチラロンコン皇太子の影がまったく感じられないことだ。国王死去当日にも即位するとみられていたが、「国民と悲しみをともにしたい」との理由で先延ばしする一方、3度目の離婚後、事実婚状態にあるとされる女性と、前妻との間の息子が住むドイツに10月末に戻り、今月11日に帰国した。即位がいつになるか、本人の意向は伝わらず、周囲もやきもきしているようだ。

ワットプラケオで祈る人々

タイの民主主義は1970年代以降、国民から深く敬愛されたプミポン国王の「徳」で回ってきた。憲法の枠を超えた国王の判断が、軍事クーデターの成否を決めてきた。それは国民多数の支持があればこそだった。しかし近年は、国王の体調がすぐれなくなるにつれ、その調停力には明らかに陰りが見えていた。

この10年、有権者の多い東北部・北部の農村部や都市貧困層を支持基盤とするタクシン元首相派と、軍部や司法、官僚といった既得権層(王党派)、都市中間層を中心とする反タクシン派の対立が続いているが、国王はそれを収めることができなかった。

既得権層と、それに支えられてきた王室周辺はこの間、選挙やその背後にある民意を、クーデターや突拍子もない司法判断で徹底的に蔑ろにしてきた。今後そのつけが回ってくるだろう。国王という重しがなくなった今、社会の意見対立や分断を調停する機能がこの国には見当たらない。あるのは異論を封じ込める強権だけだ。

プミポン国王が担ってきた調停役を皇太子が引き継げるわけではない。国民は父王のような「徳」を皇太子には見出していないからだ。選挙結果が重んじられず、調停者もいない状況に国民は不安を感じている。

王宮内で弔問の順番を待つ人々

タクシン元首相の妹インラック氏の政権を崩壊させた2014年5月の軍事クーデターは、プミポン国王の治世の終焉を見越して遂行されたとの説がある。「そのとき」にタクシン派が政権を握っていることへの恐怖が軍や王党派を突き動かしたというのだ。その後、国王の病状が一進一退するなか、軍事政権は2年以上も権力の座に居座り、新憲法で軍の政治関与に自らお墨付きを与えた。これで軍は、来年末にも予定されている総選挙後も最低5年は政治を主導できる体制を整えた。

軍や王党派も、世継ぎ後の政治・社会情勢がどう動くか自信が持てず、権力基盤が崩されるのではないかとの強迫観念にとりつかれているようにみえる。だから、「非民主的」という国内外の批判を封殺して権力にしがみつく。

軍幹部や国王を補佐してきた枢密院議員らも、皇太子と十分に意思疎通がとれないところに不安や恐怖の根源があると推測される。国王の死後も状況は変わっていないようだ。次期国王が本当のところ何を考えているか分からない。予測不能なのだ。

即位後、新国王は政治とどうかかわるか。日本企業も含めた既得権層にとって最も好ましシナリオは、立憲憲君主制の原点に戻り、日本の象徴天皇のように政治に口出ししないことだ。ところが新国王が父親にならい、重大な政局の際に調停役を務めようと乗り出せば、話は複雑になる。大きな混乱が予想されるのは、新国王が常に政治に関与しようとする場合だ。

王宮内で弔問へ向かう人々

70年間続いたプミポン国王以外の治世を知るタイ国民はほとんどおらず、国王がどのように政治に関与するかが不透明なところが国を覆う不安感につながっている。

試金石は、喪が明けた後、戴冠時に恩赦を出すかどうか、そのなかにタクシン氏を含めるかどうかだ。かねて皇太子は国外逃亡中のタクシン氏と連絡をとってきたという情報もあり、タクシン派は帰国、復権につながる恩赦を願っている。そうなれば政治的な混乱が起きる恐れは十分にある。軍政はこれを阻止したいが、皇太子がはっきりと恩赦を出すと言えば、止めることは容易ではない。

プミポン国王の国葬終了後、いずれ総選挙が実施される。新国王がどう動くか、ことはそれからだろう。

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