地獄谷と呼ばれた日系人収容所跡地、ホノウリウリを訪ねてー「ハワイと日本、人々の歴史」第6回

アロハ、Myハワイ編集長明子です。「ハワイと日本、人々の歴史」シリーズでは、観光地としてのハワイから一歩踏み込み、ハワイと日本をつなぐ人々に焦点をあて、その歴史を掘り下げて紹介しています。

アロハ、Myハワイ編集長明子です。「ハワイと日本、人々の歴史」シリーズでは、観光地としてのハワイから一歩踏み込み、ハワイと日本をつなぐ人々に焦点をあて、その歴史を掘り下げて紹介しています。今回の記事のためにハワイ日本文化センターの会員向けツアーにご一緒させていただき、オアフ島中央部のホノウリウリと呼ばれる場所を訪ねました。雑草や藪に覆われた、何もないのどかな田舎...に見えるホノウリウリ。しかしハワイの日系人にとって、非常に重要な意味を持つ場所なのです。

もう70年以上も前の話です。1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃後、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領は「大統領令9066号」を発令し、アメリカ本土の主に西海岸に住む日系人とその家族を強制収容所へと隔離することになりました。住み慣れた家を追い立てられ、全ての財産と思い出を没収され、12万人もの日系人たちは砂漠や、荒地など人里離れた場所の日系人強制収容キャンプへと送られたのです。

一方、プランテーション農場での労働などにより、日系人人口が非常に多いハワイではどうだったのでしょうか?

1940年代初頭、日系人の人口は、ハワイ全州の40%をも占めていました。そのすべての日系人を隔離するとなると、たちまちハワイの経済は成り立たなくなってしまいます。また、莫大な費用も掛かります。なので、そのなかから1,200~1,500名の1世、2世のみが強制収容所に送られたのでした。それらの人々は、仏教や神道の聖職者たち、日本語学校教師や経営者、漁業従事者、日本語新聞の編集者、領事代理など、日系社会のリーダーたちでした。アメリカ政府より、日本への忠誠心が強い人々とみなされたからなのです。

ハワイで強制された人々は主にハワイ州内の5ヵ所の収容施設(カウアイ島のカラへオ軍刑務所、マウイ島のハイク・キャンプ、ハワイ島のキラウエア・ミリタリー・キャンプ、オアフ島のサンド・アイランドとホノウリウリ)へと送られました。

今回私たちが訪ねたホノウリウリは、1943年3月1日、5ヵ所の強制収容所のうち最大のものとして開所しました。オアフ島クニアの山あい、何もない荒地160エーカーを切り開いて作られたのです。非常に暑く湿気が高く、常に蚊の大群がわいていたため、日系人収容者の間で「地獄谷」と呼ばれていたそうです。ホノウリウリには日系人に加え、同じく敵国のドイツ人、イタリア人約100名も収容されていました。収容者はすべて単身で、家族と引き離され、数年間にわたり鉄条網に囲まれた地獄谷での生活を余儀なくされていたのです。

1945年、米軍勝利と共に地獄谷はひそかに閉鎖され、住居や風呂場、食堂などの建物は破壊され、いつしか人々の記憶からも消え去りました。ハワイの生命力あふれるジャングルはまたたくまにキャンプ跡地に根を張りました。収容者たちは家族の元に戻り、日々の生活を取り戻すために必死で働き、収容所での暮らしを口にすることはほとんどありませんでした。そしてそのまま長い間ホノウリウリは歴史の片隅にひっそりと姿を潜め、その存在を知る人もほとんどいないままに、20世紀も終わろうとしていました。

1998年、ハワイ地元のテレビ局が、このホノウリウリについてリサーチをはじめ、ハワイ日本文化センターにその場所を探す手伝いを要請しました。その質問をみたボランティア・スタッフのジェーン・クラハラさんはさっそくリサーチを開始、棒を突き刺しながらジャングルの中を何時間も探索するような丹念で気の遠くなるような調査の末、2002年についにコンクリートの基底部が発見されます。石の壁や溝、フェンス、下水跡なども次々と見つかりました。その後米国国立公園局の考古学者も調査を行い、同じ結果を出しました。ホノウリウリは、全米で最も保存状態の良い強制収容所跡地である、と。ハワイ日本文化センターは2005年、ホノウリウリを歴史公園として保存するための運動をはじめ、2006年に当時のブッシュ大統領が強制収容所保存法案にサインしたことで、さらに運動は活気付いてきました。ホノウリウリ一帯の土地を収用するある種苗会社も、その土地を国立公園局に寄付する意思を表明しています。ハワイの多数の学術団体はホノウリウリの調査保存に尽力し、ハワイ日本文化センターでは前出のジェーン・クラハラさん、ベッツィー・ヤングさんが中心として、ホノウリウリの史料編纂や保存活動、そしてハワイ州教育局と協力し学校での教育プログラムの普及に奔走しています。

筆者がホノウリウリを訪ねた11月9日は、小雨が降っており、足元の赤土はぬかるみ滑りやすく、頭よりも高い雑草は時にするどく、あっというまにジーンズとスニーカーは草の実と赤土だらけになり...さらに容赦のない暑さが降り注ぎ...まさにこれが「地獄谷」かと。しかし、たった数時間のツアーではなく、収容者の人々はここに単身で数年も居住したわけです。しかも、鉄条網にかこまれ、常に銃をもったアメリカ軍兵士...つまり自国の兵士に監視されながら。その苦しみ、悲しみ、やるせなさはいかばかりだったでしょうか。このツアーの参加者は年配の日系人男女が多く、知人が収容されていた方々もおられました。いわば、巡礼のようなこのツアー。日本人である私も色々と考えさせられるばかりでした。ハワイならではのフレンドリーで和やかな雰囲気のツアーながらも、実は今私たちが踏みしめている大地のしたで70年ちょっと前に何が起こったのかを思うと、歴史というものの深み、凄みすら感じられるようでした。ツアーの最後には、参加者全員でバラの花びらを手に「ハワイ・アロハ」を合唱。花びらをキャンプ跡地に撒きました。過去を思いつつ、そして平和な世を願いつつ。

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(※この記事は2013年11月22日の「Myハワイ」より転載しました)

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