「世界への窓」を標榜するMy Eyes Tokyo、今回は欧州スペインの祭日"イスパニア・デー"(10月12日)を記念し、日本人パエリアシェフの栗原靖武さんをご紹介します。
パエリアはスペイン東部バレンシア地方発祥の炊き込みご飯のこと。米と野菜、魚介類、肉などを炊き込んだ、スペインを代表する料理です。日本を代表するパエジェーロ(パエリアを作る職人)である栗原さんは、この料理を愛するあまり本場バレンシアの超ローカルなお店で修業、帰国後はパエリア"だけ"のお店を都内に作り、世界的なパエリアコンクールで外国人部門優勝、しかもパエリア"だけ"の協会を作り、数千人規模のパエリアイベントを開き、しかも何と、さらにパエリアを究めるために、スペインで穫れるお米を日本で作るという、筋金入りすぎる本物のパエリア"馬鹿"です(尊敬の念を込めてます!)。
こんな尖りまくった栗原さんに出会ったのは、METメンバーがスタッフとして参加した先述のパエリアイベント"豊洲パエリア"(2014年7月5日)でした。主催者である栗原さんの、一見物腰柔らかくて口数少ない、それでいてとても人なつこいお人柄からは想像もできない、煮えたぎるような熱い思い・・・言うなれば燃え盛る赤い炎ではなく、凛とした"碧い炎"。ぶれることのない芯の強さを感じました。
手に入れたいものや実現したいことがあれば、まっすぐに、素直に「欲しい」という気持ちを口にし、まるでやんちゃな末っ子が親におねだりするように物事を進め、しかもそれらが全てリアルになった。そんな栗原さんのストーリーをお聞きし、私たちは思いました。
「やりたい!」という思いを強く持ち、それに乗っ取って行動すれば、共感者や協力者、つまり"仲間"が集まる。一人では成し遂げられないようなことも、仲間の力で形にできる。栗原さんは、見事にそれを証明しました。それでも成功にあぐらをかかず、いつまでも探究心や向上心を持ち続ける栗原さんの言葉は、私たちMETはもちろん、挑戦したいことがある人、そして挑戦を少しだけ躊躇っている人の胸に、きっと刺さることでしょう。
*インタビュー@バルデゲー(江東区豊洲)
■ 出発はイタリアン
今でこそスペイン料理、中でもパエリアには強いこだわりを持っていますが、僕の出発点はイタリアンでした。僕が料理の世界に入った90年代半ば頃は、それまでのスパゲティ+ミートソースやナポリタンみたいなシンプルなものから少し進歩して、ソースをパスタに和えたり、ボンゴレのようなものが出始めた頃でした。でも一般的にはまだまだ"イタリアン=スパゲティやピザ"の時代でした。そんな時代に僕は料理界デビューし、2〜3年働いて料理を覚えては違うお店に移って修業しました。
そうするうちに、イタリアンの世界では片岡護シェフや落合務シェフといった、本場で経験を積んだプロ中のプロが台頭してきました。それまで僕は大皿料理を中心に作ってきましたが、片岡さんや落合さんが作るような肉料理や魚料理こそが、自分が挑戦してみたいことなのだと気づきました。
それから千葉県内のトラットリアに移りました。そこは客単価平均4,000円からで、小皿にいろんな料理が並ぶようなスタイルを学びました。その後、トラットリアの先輩が独立したので僕も彼について行き、23歳でついに料理長になりました。
■ 今まで何をやっていたんだ?
シェフになった喜びも束の間、"教わる立場"から"教える立場"になって、ある事実に愕然としました。
自分の中の"引き出し"、つまりレパートリーが圧倒的に少なかったのです。
「これではダメだ!」と思いました。後進に指導するからには、まず自分が学ばなければ・・・そう思い、僕は本場イタリアに行こうと決意しました。
友人とバックパックでフランスからスペインを経由してイタリアへ。その時点で既にイタリア料理で約5年のキャリアでしたが、初めて本場の食文化を目の当たりにし、強い衝撃を受けました。
ピザは低価格だけどこだわりがある。ムール貝などは、ただ茹でただけなのにおいしい。同じ料理でも、日本で食べているものと本場で食べるものには雲泥の差がある・・・日本で本場のものを再現できていないことを痛感し、これまで日本で自分が積み重ねてきたものを根底から覆された気がしました。
帰国後、僕はもう一度修業することにしました。もっと専門的なイタリア料理をやりたい、もっとプロの道を究めたいと思い、青山にある高級イタリアンの門を叩きました。客単価平均は15,000円以上、僕が渡欧前に働いていた千葉県のトラットリアの3倍以上の価格帯です。そこのお店は僕が働いていた間に料理長が変わり、フランスの二つ星レストランで働いていた方が入ってきました。その人は新宿にあるスペイン料理の店"小笠原伯爵亭"でもシェフの経験があり、スペイン人のシェフと組んでスペインとフレンチのミックスのような面白い料理を創作していました。
もうご想像できるかもしれません。このシェフが、僕にスペイン料理への扉を開いてくれたのです。
■ 24,000 vs 100
スペイン料理には2種類あります。パエリアやスペインオムレツなどのクラシックなものと、"モダンスパニッシュ"と呼ばれる、当時の最新技術"エスプーマ"や、さらには液体窒素を使う最新器材やテクニックを駆使して作られる料理です。素材を分解してから組み立てるという、料理を超えた化学実験のような料理手法が、僕がスペイン料理に触れた当時は流行っていました。僕は当時としては最新の料理法を学びながら、青山の高級イタリアンで副料理長として仕事をしました。その頃に思い出したのが、先に僕が申し上げた欧州バックパッカー旅行です。フランスからスペインを経由してイタリアに行き、イタリア料理を学びましたが、今度は経由地だったスペインを思い出し、スペイン料理を覚えてみたいと思いました。
僕はその昔、自分のお店を開きたいと思っていました。しかし調べてみたら、当時の東京にはイタリアンレストランが何と24,000軒。正直、店を出す必要のないことに気づきあきらめました。でもその夢を思い出し、今度は都内のスペイン料理店の数を調べてみました。
約100軒。
「まだあまり多くの人が手をつけているジャンルじゃない。これはチャンスだ!」と思いました。
2007年、僕はまだオープンしてから3〜4か月ほどしか経っていなかった、この"バルデゲー"に入店しました。ただ店のオープン当時のシェフはイタリアン畑でしたので、スペイン料理というものをあまり分かっていませんでした。しかし教わる先輩もいませんでした。
そこで欧州バックパッカーの旅の途中で食べ歩きした時の記憶を辿ったり、ネットで検索して調べたり、青山のお店で学んだ最新技術"エスプーマ"を採用するなど、東京版スペイン料理として3年ほど試行錯誤を繰り返しながら前に進みました。その甲斐あってお客さんも入り、スペイン人も食べに来てくれるようになりました。
しかし勉強不足は否めず、埋めがたい引き出しの少なさを感じるようになりました。僕は思いました。「これは、違うことや新しいことを覚えるチャンスなんだ」と。
幸いにも"バルデゲー"の母体は和食有名チェーン店"玄品ふぐ"でした。僕は自ら手を挙げて、運営会社である"株式会社 関門海"の本社商品部に移り、流通や原価計算、商品開発、新規出店など多くのことを学ばせていただきました。
■ パエリアの衝撃
ちょうどその頃、当時の上司の岩本(現在はバルデゲーの運営委託を行う"株式会社Masshi"代表取締役)より、関門海から業務委託という形でバルデゲーを独立させる案を聞きました。
まさにスペイン料理を本格的にやるタイミングだと思ったのです。
僕は自ら志願し、バルデゲーに再度戻る決心をしました。
一方、一緒に欧州をバックパックで旅した友人は、スペイン人と結婚しバレンシアに住んでいました。僕は彼に電話し、それから2か月後に現地に行きました。
バレンシアは、スペインの代表的な米料理"パエリア"の発祥の地です。本場のパエリアは日本で提供されるような鮮やかな色ではなく、本当に地味な茶色で、具は鶏肉やうさぎ肉、野菜だけ。あまりにシンプルな見た目にびっくりしましたが、食べてみたらすごくおいしい。それが僕には衝撃でした。しかもバルデゲーではオーブンでパエリアを作っていましたが、本場では直火で炊く。それがあまりにおいしかったのです。
お店で僕は、そのパエリアを作ったおばあちゃんに、出汁は何を使用しているかを聞いてみました。そしたら彼女は「出汁なんて使わない。肉や野菜を炒めて水とお米を入れて直火で炊く。ただそれだけだよ」って。もうあまりにショックだったので、もう一度ここに戻ってちゃんと勉強しようと決めました。
■ 日本で本場を再現させるために
帰国後、僕は社長の岩本に「シンプルだけどめちゃくちゃおいしいバレンシアのパエリアを、日本でも流行らせたいんです!」と説得しました。そうして、現地の友人が探してくれた、街で一番おいしいと言われる有名店での2週間のインターンが実現しました。
インターン初日。「お昼の1時に来てね」と言われて行ったら、お店の営業時間は午後2時から午後4時までのわずか2時間(笑)。パエリアは作るのに時間がかかるので、食べたい人はお店に電話で予約し、お店に入ったら前菜を頼んでパエリアが運ばれるのを待ち、開店から閉店までランチを楽しみます。
夕方5時には仕事終了。一度休憩してディナーの準備をするものと思ったので、スタッフに「何時に来れば良いんですか?」と聞いたら「今日はもうこれで終わりだよ」って(笑)。パエリアはスペイン人にとってはランチで食べるもので、夜はタパスなど軽いもので済ませるそう。お店はランチしか提供しないので、パエリアについて学べるのは一日4時間しかありませんでした。僕はその間はパエリアに集中しました。
インターンを終えて日本に帰国。僕はバルデゲーで本場のパエリアを提供しようと思いました。
しかし現地のスタイルは直火炊きなので、1鍋につき1つの火口が必要。つまり10組のお客様に提供するなら10口が必要になります。それはバルデゲーでは不可能です。
そこで僕は、思い切って岩本に頼みました。
「本格的なパエリアのお店を開きたいのです。しかもここ(豊洲)から目の届く場所で」と。
食材も機材も、全部バレンシアの本場を再現したいという強い思いがありました。でもひとつだけ、どうしても手に入らない豆がありました。あきらめずにリサーチを続けると、北海道でただ一人、その豆を作っている方がいるとのこと。すぐに現地に飛んで彼に会って分けていただきました。
自分で機材の輸入も試してみましたが、最初はスムーズには進みませんでした。機材そのものは東京に入っているのに、3ヶ月も引取り許可が下りずオープンに間に合わないということもありました。
そんな産みの苦しみを経て、2013年1月に同じ江東区内の門前仲町に、パエリア専門店"バレ パエージャ"をオープンしました。
■ パエリアコンクール優勝!でも・・・
念願だった自分のお店。でもすぐにお客様がいらっしゃるわけではありません。僕はお店の知名度を上げるためにどうすれば良いか悩みました。
そこで思いつきました。「何か大きな大会の受賞実績があれば、僕の経歴にもお店にも箔がつくのではないか?」。僕はパエリアに関する選手権のようなものが無いかバレンシアの友人に聞きました。すると彼は、その年の9月にスペインでパエリアコンクールがあると言いました。僕はすぐに参加を決意し、エントリーしました。結果として総合部門4位、日本からは3チームが参加した国際部門では優勝を果たしました。
でもパエリアそのものが日本ではメジャーでは無いからか、まだ反応が薄い・・・ならば同業者であるパエリア料理店の集まりに入って、集団でパエリアを日本に広めて行くところから始めようと思いました。でも日本には、そういう団体が存在しなかったのです。
でも僕はあきらめませんでした。
「無いなら自分たちで作ってしまおう」。そう思い、僕は全国のスペイン料理店に約200通のはがきを出しました。その中で返信をいただいた約20店の同業者や、僕の思いに共感してくれた人たちで、2014年2月に"日本パエリア協会"を立ち上げました。
■ 日本で本場の味を広めるために
僕はまだまだ満足しませんでした。
パエリアを広めるためにはどうすればいい?
身内だけで収まっていてはダメなんだ。パエリアを知らない人たちを巻き込まなきゃ!
でも、どうすれば巻き込めるんだろう?
そこで考えたのが、パエリアそのもののイベント化でした。バルデゲーのある豊洲はファミリー向けの街です。一般の家族層を呼び込み、なおかつ街おこしの一環となるようなイベントを開けば、パエリアをより多くの人たちに知ってもらえるのではないか・・・
そんな思いから2014年7月、パエリアを中心としたスペインのグルメや、フラメンコなどスペインの文化を紹介する"豊洲パエリア"を開催しました。イベント内にてパエリアコンクールを行い、優勝者には本場スペインでのパエリアコンクール出場権を提供しました。メディアにも宣伝していただいたおかげで、たった1日、しかもわずか7時間の開催にも関わらず5,000人以上もの方々にお越しくださったのです。
■ もっと身近に、日本の家庭にパエリアを。
僕はイタリアン畑から料理人人生を始めました。イタリアンが日本に浸透していった過程を知っている身として、僕はパエリアも日本に広めたいです。
日本人にはおいしいものを作る技術があるので、下手をすれば本場よりもおいしいものを作ってしまう才能があります。それに日本はお米の国です。
しかもパエリアは、災害の多い日本にピッタリの食べ物です。なぜなら備蓄米で作れるし、調理時はお米を洗わなくても良いのです。むしろ洗うと米に粘り気が出るから、洗わない方が良いくらい。だからお水の節約にもなりますよね。
パエリアはスペインの家庭料理です。日本の子どもが好きなカレーライスやオムライスは、元々は外国の料理だったり、外国の料理をベースにしたもの。だからパエリアにだって日本の家庭料理になる可能性はあるはずです。
パエリアが日本の食卓に並ぶ日が来ることを、僕は夢見ています。
【関連リンク】
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日本パエリア協会:http://www.paellajapon.org/
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