皆さんはご存知だったでしょうか?毎年9月30日は「世界翻訳の日」(International Translation Day)です。キリスト教の聖職者で、聖書をラテン語訳したことで知られるヒエロニムスという人が亡くなった日として、国際翻訳家連盟が1991年に制定しました。今回はその日を記念して、ある一人の翻訳家をご紹介したいと思います。日本を愛してやまないアメリカ人、ダニエル・ペンソさんです。
ダニエルさんは1999年から2009年までの10年間、東京・足立区にお住いでした。英語講師として生計を立てながらも、日本人とのコミュニケーションは、メールでも会話でも日本語で通していました。アメリカにいる今でも、ダニエルさんのFacebookページには漢字や仮名文字が踊っています。私たちMy Eyes Tokyoの独断と偏見に基づいて言えば、英語のネイティブスピーカーで日々日本語だけで読み書き会話全てを行う人は、かなり珍しいと感じています。
流暢な日本語を駆使し、タイ語や中国語、スペイン語など様々な言語に興味を示す自称"語学マエストロ"。そんなダニエルさんが自ら足を踏み入れた、言語のプロフェッショナルが集まる世界の様子を伺いました。
■ オリジナリティは必要ない
今私はアメリカで、日本語と英語を中心とした翻訳業に携わっています。言わば仕事を通じて日本に関わっているわけですが、クライアントは日本企業だけでなく中国や韓国、それに最近ではベトナム企業も増えてきています。
これらの中でも日本企業は、計画を立てることが好きですよね。それは、私のような文書翻訳者にとってありがたいことなんです。計画には必ず説明や契約が伴い、必然的に交わす書類が増えます。そうなれば、私のような文書翻訳を数多く経験してきた翻訳者の需要が増えるのではないか - そんな期待感を持っています。また2020年の東京オリンピックに向けても、同じような期待を抱いています。
私は2009年以降、タイやアメリカを拠点にして翻訳の仕事に携わってきました。メインは日本語から英語への翻訳ですが、英語から日本語への翻訳も請け負います。それに私はタイ語もできますので、時々タイ語と英語の翻訳もしています。さらにはタイ語から日本語、日本語からタイ語の翻訳依頼も時折入ってきます。
担当分野は特に限定していません。翻訳業に就いたばかりの頃は日本の映画の英語翻訳にも携わったことがありましたが、最近では法律関連文書や契約書など堅い内容の翻訳が中心です。
エンターテインメント系の翻訳ならいざ知らず、覚書や契約書の翻訳には、オリジナリティは求められない気がしますね。昔、法律関係書類の日英翻訳を担当したとき、可能な限りの美しい表現を試みたことがありましたが 、クライアントからの評価は厳しいものでした。
むしろ過去に行われた翻訳の例文などを参考にしたほうが、クライアントの評価は高い気がします。例えば契約書の日→英翻訳なら、実際に一般で使われている契約書に書かれている文言を参考にしたほうが絶対に良いですね。
■ 日本とつながるために翻訳家に転身
私が翻訳業を志したのは、自分の日本語能力を生かせる仕事がしたいと思ったからです。
この仕事を始める前、私は東京やタイで英会話の講師や中学・高校でのALT(外国語指導助手)の仕事をしていました。英語を教える仕事では、当たり前の話ですが日本語能力よりも英語能力が求められます。でも私は、これまで培ってきた日本語能力も生かすことができる仕事がしたいと思いました。それに、仕事を通じて大好きな日本とつながっていたいという思いもありました。
翻訳家として最初に受けた仕事は、私の友人の友人から受注した映画の翻訳でした。その後英語講師など他の仕事をしながら翻訳の仕事を請け負っていましたが、2011年に状況が一変しました。
この年は皆さんがご存知のように、様々な大災害がありました。日本では東日本大震災が起き、その当時私自身が住んでいたタイの首都バンコクでは洪水が起きました。バンコクでは多くの建物が被害に遭ったため、現地の日系保険会社さんから日→英翻訳の仕事を多く受注することになりました。法律関係文書の翻訳も同時に増え始め、それ以来私は翻訳業に専念しています。
■ いつかは再び日本を拠点に
私には、妻との間に生まれた娘がいます。その子には日本風のミドルネームを付けました。 私がタイを経てアメリカに戻る前は、約10年間東京に住んでいました。アメリカの大学を卒業してから来日したので、私の社会人経験は日本で始まったことになります。さらに遡れば、初めて日本語というものを見たのは、私が中学生の頃でした。
私が入学したカリフォルニア州の中学校には、偶然にも日本語のクラスがありました。全く違う文化に触れたかった私は、そのクラスを受けることにしました。私の日本語の先生は、2年間日本に留学した経験を持つヨーロッパ系アメリカ人でした。いわゆる"熱血教師"で、すごく情熱的に教えてくれました。私はその情熱に魅了され、やがて日本語そのものに惹かれていきました。
さらに日本語の学習を深めたいと思い、高校時代は"AFS(American Field Service)"という国際教育交流団体のプログラムに応募しました。それを通じて私は、山梨県と長野県の県境付近にある"日野春"という町の高校に1ヶ月間留学しました。
アメリカに帰国してからも、独学で日本語の勉強を続けていましたが、日本に近い環境をアメリカで作ることに限界を感じ「いつか日本に住もう」と決意しました。大学では日本を含めたアジアの政治や歴史、言語、宗教を学び、卒業後に東京に来ました。来日後は日本テレビの『笑点』を通じて落語にハマり、休日は浅草などの寄席に足を運んだものでした。
それほどまでに愛した日本です。それに、日本はアメリカと他のアジア諸国の間にありますから、私の母国であるアメリカにも、妻の母国であるタイにも行きやすい。それに一番最初にお話したように、アジア企業からの発注も増えています。だから私は、日本に再び拠点を置くことも視野に入れています。
ただ「アメリカと日本のどちらが良いか?」という質問は、答えに詰まります。どちらにも良いところがありますから。私はアメリカのカジュアルさと、日本の丁寧さのどちらも好きなんです。
■ ダニエルさんにとって、翻訳って何ですか?
「新しい世界に出会うチャンス」です。
特に私は、何かの分野に特化するのではなく、あらゆる分野の翻訳を担当するので、とても社会勉強になります。例えば"覚書"の翻訳をすることになったら、まず覚書の意味を知らなくてはいけない。日常生活ではまず出会わない言葉ですから、自分の世界が広がります。
仕事を通じて新しい世界に触れられる。それが翻訳の醍醐味です。毎日違うものに触れていたいという我がままな私にぴったりの仕事。まさに私の"生きがい"です。2011年に起きた大災害が私をこの仕事に導いたことをしっかりと意識して、これからも一生懸命に仕事に取り組みたいと思います。
【関連リンク】
ダニエルさんFacebookページ:https://www.facebook.com/daniel.penso.1