■禅を経営のツールに
日本のビジネスリーダーで、スティーブ・ジョブズのように禅をビジネスに反映させている人が何人いるだろう。
ジョブズは、どのように禅をビジネスの成功につなげていったのか。
「ジョブズと禅」の化学反応。その中身を探ることで、ビジネス思想としての禅の活かし方がみえてくる。
筆者自身、数年間にわたって禅の修行(主に曹洞禅)を経験してきた。そこで得たビジネスへのヒントは、次の3つの観点に集約できる。
■自然やエコシステムを意識した全体観
禅の開祖である道元禅師の教えには、自然との一体感が色濃く現れている。
たとえば、湧き水が敷地内を通るような寺の造り。あるいは、食事中に数粒のご飯粒を集め、それを鳥の餌にする生飯(さば)という作法。
提供されるけんちん汁は、食材の余り物を食べるための料理。またニンジンやジャガイモの皮は袋につめ、味噌汁の出汁にすることもある。
これら一つひとつの事柄の根底にあるのは、この世界を一つの大きな命としてみる全体観だ。
他方、アップルの飛躍をもたらした要因の一つは、プロダクトとサービスを統合したビジネスにおける全体観だ。ジョブズの常識にとらわれない発想の根底には、「ビジネスの成功」と「人々の願望や社会の流れ」を、一つの大きな世界という文脈で捉える感覚があったのだと思う。
積み上げてきた特定の技術、慣れ親しんだ産業界の構図。そんな静止画的な「業界」を「世界」と勘違いしていたら、itunesやibooksなどは生まれなかったに違いない。
技術的な優位を保っていた日本のメーカーは、無機質な部分観から泥沼に陥ってしまった。それを記憶に新しい反面教師とすれば、為すべきことのヒントが浮かんでくるのではないだろうか。
■シンプルを極める
禅の作法には無駄がない。お経を入れた箱の持ち方、歩き方の一挙手一投足が、体幹を活かした動作になっている。
そのため私たちが一般にイメージする通常の動作とは異なり、初心者は戸惑う。しかし実際は理にかなったもので、腕や身体全体が疲れない動きになっている。
そして見るからに美しい。
こうした無駄のない合理性も、マッキントッシュなどアップルの製品デザインに反映されている。マック支持者の多くが口にする直感的な操作性は、虚飾を排した美しさと密接に関係している。それがまた、多くのファンを惹きつける力になってきた。
和包丁や高品質な爪切りなど、世界でも高い支持を受ける日本製品にも、同じような特性を備えたものが色々ある。サービス業における規律や効率性に置き換えれば、本来の強みを活かした応用領域は、さらに広がるだろう。
■脱“非日常”
最後に、もっとも重要なことは、禅寺という非日常での体験を、日常に持ち込んで習慣にすることだ。言わば、禅の日常化である。それは、気づきを具体的なアイデアに昇華させるために、欠かせない時間なのだ。
ジョブズが日常的に坐禅や瞑想をしていたのは有名な話だ。非日常での体験を日常で再現することにより、少しずつだが着実に、禅はビジネスにおける思想の種となっていく。逆に言えば、ただ禅寺に行ったからといって、画期的なビジネスプランが生まれるわけではない。
坐禅や瞑想の経験者はお分かりのことだろうが、すべては継続にかかっている。そして言うまでもなく、継続の場は日常にしかない。
続けていると雑念を取り払う能力が磨かれ、明鏡止水という言葉で表されるような、クリアな心も自覚できるようになる。そこで人は初めて、澄みきった水面から湖底を覗くようにして、心の奥底にある創造性にアクセスできる。
これはけっして、どこか怪しげな話ではない。当ブログでは、あくまで科学的な立場から、関連するトピックを取り上げている。その一例として、前回の記事で御紹介したインテル社の検証データを参照いただければと思う。
実際、私が教えを受けている禅の老師も、坐禅の最中に良いアイデアが湧いてくることが非常に多いという。そのため坐禅中にメモ帳を横に置いておき、ときには書き留めておくそうだ。
これは本来ならイレギュラーな行為だろうが、禅が私たち俗人に提示する日常性の一端といえよう。
ジョブズが同じようなことをしていたと想像しても、まったく違和感がない。
非日常の体験や師からの教えによって得た全体感、シンプルさの追求。これはまだ抽象度の高い、禅の世界の学びである。学びそれ自体が目的化すると、その体験が心地よいものであるぶん、よけいにそこで停止してしまう。
いっけん限りなく隔たりの大きい、ふだんの生活のなかに「エクササイズ」を置くか否か。
ここが大きな分かれ目だ。
そしておそらく、それを誰よりも徹底して続けた経営者が、スティーブ・ジョブズその人だったのだ。
たとえその動機の源に、ビジネスを制するための飽くなきエゴイズムが隠されていたとしても。
(一般社団法人マインドフルリーダーシップインスティテュート代表理事 荻野淳也)