突然ですが、想像してみてください。
早朝、急にお腹が痛くなり、一歩も動けなくなりました。救急車で運ばれた先で盲腸(虫垂炎)と診断され、緊急手術をすることに。
ところが手術室に入ってきた医師からアルコールの香りがします。顔も赤いようです。どんな気持ちになるでしょうか?
「やめろ、訴えてやる!」と思ってしまいそうです。
実は、それと匹敵するような事態が日常的に起きていてもおかしくないというのが、いまの日本の医療の現状なようなのです。
医師は働き方改革の「例外」
いま、「働き方改革」が注目を集めています。
この3月、政府がまとめた「働き方改革実行計画」では、時間外労働の上限を原則1か月45時間とし、労使が合意した場合は1か月平均60時間(特に忙しい月は100時間未満)とすることになっています。もし、この上限を超えた場合、罰則が課されることになります。
しかし医師は、この「働き方改革計画」において例外とされ、2年後(2019年3月)をめどに「規制の具体的な在り方や、労働時間の短縮策等について検討し、結論を得る」とされました。要は、先送りになったということです。
なぜなのでしょうか?
医師は患者を「拒む」ことができない
その大きな理由が、医師に課された応召義務(おうしょうぎむ)です。
医師法19条は「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と定めています。要は、患者さんが治療を求めてきた場合に、正当な理由がないのに断ってはいけないよ、ということです。(なお「正当な事由」とは医師自身が病気であったり、医薬料が不払いだったりした場合などが想定されています(注1))
仮に、緊急の治療を求める患者さんが病院に来たのに「働き方改革で医師がいないので対応できません」という事態が起きたとすると、この定めと違ってしまいます。何より、私たち治療を受ける側にとって非常に困ることになります。
ですので、お医者さんの働き方は「別枠」で考えなければならない、という論にも一定の根拠があるように思えます。でも、それで話を終えてよいのでしょうか?
様々な意見があると思いますが、個人的には、そう思えません。医師の働き方問題は、医師だけの問題ではなく、私たち治療を受ける側の「安全」にかかわる問題だからです。
医師の「激務」はイメージ通り
総務省の調査によれば、職業別に見た場合、すべての雇用者(注2)のなかで1週間の労働時間が60時間を超える人が最も多いのが医師です(41.8%)。
第51回社会保障審議会医療部会資料(厚労省作成)より
そして実際の働き方を調べた調査からは、医師の1割強が、月に少なくとも1度は24時間を超える連続勤務を経験していると回答しています。わかりやすく言えば、「徹夜」をしているということです。連続36時間勤務を経験していると答えた人も3%ほどいました。
第51回社会保障審議会医療部会資料(厚労省作成)より
筆者が実際に取材するなかでも、「当直中、患者さんが途切れず一切仮眠が取れなかった」「徹夜明けに緊急手術、人がいなくて手術を担当」なんて話はよく聞きます。
いま高齢化を背景に医療を求める人の絶対数が増えているなかで、医師は患者を拒めないわけですから、このような事態が起きるのはある意味で当然かもしれません。お医者さんは大変だろうけど、命を預かる「聖職」としての働きに心から感謝しましょう...、ということで良いのでしょうか?
ほろ酔いの医師に手術されたいですか?
ここで、アメリカで行われた印象的な研究(注3)をご紹介します。「激務の医師は、ほろ酔いの医師と同じくらいミスを犯しやすい」ことを示したものです。
研究の対象となったのは、小児科で働く研修医たち。同じ小児科での研修と言っても、内容によって勤務時間が違います。日中の診療などが中心の軽い勤務(週44時間程度)もあれば、命の危機にある新生児を受け入れるNICU(新生児集中治療室)となると週に90時間、しかも4-5日ごとに当直(連続34-36時間)という激務になっていました(当時)。
研究者たちは、この「激務」によってパフォーマンスがどのくらい落ちるか、ということをユニークな方法で調べようとしました。激務の影響と、アルコールの影響を比較しようと考えたのです。
文献(注3)より筆者作成 画像は「いらすとや」より
まず軽い勤務の人と、激務の人に対し、集中力や注意力を調べるテストなどを行います。
ただそれだけではなく、軽い勤務の人にはアルコールが入ったカクテル(ウォッカ・トニック)を飲んでもらい、その後にもう一度テストを行いました。アルコールの量は、血中濃度で0.04%~0.05%になる程度です。「ほろ酔い」というイメージに近い状態といえるでしょうか。(日本では0.03%以上だと酒気帯び運転とされます)
結果は、驚くべきものでした。
文献(注3)より筆者作成。縦軸下に行くほど反応時間が遅い(反応が悪い)ことを示す
上のグラフは、刺激に対する反応時間から、注意力や集中力などを調べるテスト(Psychomotor vigilance task)の結果です。
軽い勤務の人がアルコールを飲んでほろ酔いになると、注意力や集中力が衰えることがわかります。ところが激務の人の場合、アルコールを飲んでいないのに、同じくらい反応が遅れていました。ほろ酔い状態と同じくらい、脳のパフォーマンスが落ちていたのです。
ほんのちょっとだけ、「自分ごと」として考えてみる
「医師の働き方」なんて話を聞いても、なんだか他人事というか、「偉い人たちで解決してくださいよ」という気持ちになってしまいます。
でもここで、冒頭の「想像」を思い出してみてください。
もし、急病で搬入された病院で、手術室に入ってきた医師からアルコールの香りがしたら。自分自身の身の安全に、強い不安を感じますよね。
ただ、ここまでご紹介してきた調査や研究の結果を考え合わせると、それと匹敵するような事態が日常的に起きていてもおかしくない、というのがいまの日本の医療の現状のようです。激務に真摯に向き合う医師だけでなく、治療を受ける私たち自身にとっても、不幸な事態が起きていると言えそうです。
じゃあ、どうすれば良いのか?法律で医師の連続勤務に制限をかけるのが一番効果的なのは間違いありませんが、さきほどの「応召義務」とのかねあいをどうするかが問題です。医師側からも、一律に規制すると医師が経験や研鑽を積む機会が奪われるとの意見も出ているようです。単純に規制を強めれば解決するような問題ではありません。
国はいま医学部の定員を増員するなど、医師の負担軽減につながる取り組みを始めていますが、すぐに効果が出るわけではありませんし、地域ごとの医師の偏りが改善されなければ、一部の医師に負担がかかってしまう状況は変わらないかもしれません。
でも、もし『なぜ私たちは、酒酔い状態の医師が入ってきたら「訴えよう!」と思うのに、徹夜明けの医師が入ってきたら感謝しこそすれ、この状況を「おかしい」とは思わないのか?』というような問題意識を持つ人がひとりでも増えたとしたら。
2年後をめどに進む医師の働き方の議論に少なからぬ影響を及ぼすかもしれません。そして、例えば医師が最も足りない時間帯である休日夜間の不要不急の受診を控えてみるなど、ちょっとした行動につながるかもしれません。
医師の働き方問題は、社会情勢や法律などのいろいろな要素が複雑に入り組んでいる、なかなか難しい問題です。
だからこそ、国や政府、そして医師会など一部の人に任せきるのではなく、私たち一人ひとりが、この問題にほんのちょっとだけでも「自分ごと」として興味を持ってみることが大切なのではないでしょうか。
※)筆者は今回の記事の執筆に関し、いかなる組織からの依頼も、報酬や資料の提供を含む利益の提供も受けていません。
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注1)医療と法を考える(樋口範雄)より。なお、医療職の中で応召義務が課されているのは医師・歯科医師・助産師・薬剤師の4職。
注2)年間就業日数200日以上・正規職員のうち。獣医師・歯科医師を除く
注3)J. Todd Arnedt et al. JAMA. 2005;294(9):1025-1033.
(2017年6月25日「Yahoo!ニュース個人(市川衛)」より転載)