日本政界を代表する主要3陣営
都知事選の総括は、各方面で行われています。小池氏の圧勝という結果を解釈すること自体はそれほど難しいことではないでしょう。今般の都知事選の主要三候補は、過去20年ほどの日本政治の典型的な3つの陣営を代表していたように思います。
鳥越氏は、退潮傾向の左翼陣営を代表していました。分配重視の経済政策と、改憲、原発などの政治性を帯びる論点では一様に政権の反対を唱える政策スタンスです。それでも、参議院選挙の野党4党の得票数を見れば、左翼陣営にも200万票を超える「基礎票」があったはずなのだけれど、候補者本人の資質の部分があまりにお粗末でした。
女性の人権をめぐる点について、事実はともかく、説明責任を果たさなかったことでリベラルな価値観を持つ有権者は離れてしまいました。左側を代表する識者の多くが、この点をあいまいにして、政権と対峙することを優先したことも、日本のリベラリズムに禍根を残すのではないでしょうか。
増田氏は、官僚と与党のボス達が差配する旧来の統治階級を代表していました。政策スタンスは、現状の政治経済システムに満足しているという大前提から導かれています。下から上がってきた新しいアイデアを採用することはあるし、制度の破たんを回避するような弥縫策は打ち出せても、局面を打開するようなリーダーシップはありません。村社会の掟に対して忠実ですから、そもそも、リーダーシップを貴ぶという文化そのものと相容れないわけです。
もちろん、村社会のボスには物事を動かす力が備わっていることもあるけれど、増田氏は、都議会やオリンピック組織委員会のボス達に「使われる」立場であることが、あまりにも明らかでした。私自身は増田氏本人の岩手県知事時代の実績や、氏の代表作でありベストセラーとなった『地方消滅』に透けて見える世界観に大いに疑問を持っていますが、今回は、それ以前の問題であったということでしょう。
小池氏は、過去20年間の「改革」の気運をもたらした勢力を代表していました。日本新党から政界に進出し、小沢氏、小泉氏、安倍氏と、その時代時代で改革の気運を代表するリーダーに重用されてきました。「気運」という言葉を繰り返すのは、これらのリーダーが本当に改革を志向していたのか、はっきりしない面があるからです。
ただ、気運として改革志向であったことは間違いないでしょう。今では90年代的な香りがする言葉ではあるけれど、その内実は、外交安保でいけば「普通の国」という方向であり、経済でいけば「フリー・フェア・グローバル」という方向に向けた改革です。もちろん、小池氏本人には、初の女性都知事という錦の御旗もありました。
鳥越氏に女性スキャンダルが持ち上がったこと、増田氏立候補の過程で東京都連の旧弊で陰湿な雰囲気が明らかとなったことで、女性候補である価値は格段に高まったことでしょう。自民党支持者はともかく、公明党支持者からも、共産党支持者からも小池氏支持が一定の割合を占めたのは、この辺りによるのではないでしょうか。
都知事に求められる「実務能力」
今回の都知事選をめぐっては、2代続けて都知事が政治とカネをめぐる問題で辞任したことで、「実務能力」という言葉が盛んに語られました。今から振り返ってみれば、官僚出身者を候補者として擁立したい勢力が仕掛けたキャンペーンだったように感じますが、その過程で前提とされた「実務能力」の内実には強い違和感を覚えました。
知事に求められる実務能力は、役所の中で稟議書を効率よく回す能力ではないし、ボス達の言うことを聞き、地方政界にはびこる利権構造と「うまくやる」ことでは断じてありません。まあ、さすがにそれは論外であるというのは多くの国民が同意することでしょう。
リーダーに求められる実務能力ということには、いくつかの段階があります。一つは、組織の規律や効率的な運営にかかわる点です。現在の東京都で行けば、情報公開がひどく遅れていることや、公共事業に関してやたらと随意契約が多く、ボス達の周りに多くのクローニー(=既得権を持つ業者など)の存在を感じることです。これらの現象に対しては、情報を徹底して公開し、競争入札を強制し、他の都市や民間企業と徹底して比較することで風通しは良くなります。言ってみれば基層としての実務能力です。
同時に、しかし、リーダーには政治の大きな方向性を語るビジョンが必要です。それは、東京という都市がグローバルな競争でどうやって生き残っていくかであり、喫緊の課題である待機児童や待機高齢者をどのように乗り越えるかであり、防災や物流のインフラをどのように更新していくかということです。
東京という都市が日本に占める地位がとても高いことから、このビジョンは、同時に日本のビジョンでもなければいけません。それは、都市と地方の格差の問題であり、人口動態の問題であり、道州制などの統治機構をめぐる問題です。
しかし、都知事ともなると基層としての実務能力とビジョンだけではダメなのです。両者をつなぐ「高度な実務能力」というか、ビジョンを実現するための実務能力であり政治力が必要なのです。これは、ビジョンを示すこととは異質のものです。極端な話、発想力や洞察力があればビジョンは示すことができるし、書店に行けば、いくらでもビジョン本が並んでいます。
ビジョンとは、その政策をめぐる論点と利害関係者を幅広く理解し、関係する法令や規則を把握し、世論と多数派を味方につけ、ときに妥協もしながらでないと、絶対に実現することはありません。それは、「現状維持の暴力」と戦うことであり、途方もないような忍耐力を要することです。当然、改革を支えるチームの求心力を維持するだけの人間的魅力も必要になるでしょう。
都知事に求められるのは、そこまで含めての「実務能力」であって、お役人の「実務」の能力とはまったく異なるものです。小池氏にそのような実務能力が備わっているかどうかは、未知数です。
そもそも、日本の政治家にせよ、官僚にせよ、作家にせよ、経済人にせよ、そのレベルで実務能力を試されてきた方はほとんどいらっしゃらない。好き嫌いはあるにせよ、石原都知事や橋下大阪市長が発揮してきた実務能力が最も近い例でしょう。有権者は、小池氏にセンスを感じたのだと思います。小池氏には、それらの例にも学びながら、結果から逆算して戦略を立ててもらいたいと思います。
内田氏の首をとって終わりではない
開票直後、小池氏の圧勝と、自民党支持者の過半数が小池氏に票を投じたという現実を前にして、さすがに自民党の東京都連は意気消沈していました。それでも、石原伸晃会長は、「いまでも増田氏が都知事にふさわしいと思っている」という趣旨の発言を行い、「捲土重来」という言葉を使いました。その意味するところははっきりしませんが、都議会自民党と、小池氏との対立が激化し、両側からスキャンダルが噴出するような政局含みの展開は、まあ、いかにもありそうです。
そんな中、元都知事の猪瀬氏の記事や発言から、都議会のドンとして内田茂氏への注目が高まっています。小池氏がブラックボックスと批判するボス政治の象徴として、今後、内田氏の首を取りに行くような権力闘争が行われることでしょう。それはそれで政治の必然的な作用でもありますから、良いと思いますが、政治の浄化作用をそれだけで終わらせてはいけないと思います。
日本の政治の利権の問題、東京の政治の不透明さは、構造の問題であって、一人のボス政治家のキャラの問題ではないからです。取り除くべきは、構造であって特定の人物ではありません。
オリンピックの準備をめぐって噂される利権の問題は、もう少しスケールの大きな課題です。資材費や建設関連の人件費が上昇しているからと言って、当初の計画からオリンピック関連予算が2倍にも3倍にもなって、兆円単位の誤差が生じているのは異常です。不透明なカネの流れが国際的にも指摘されていますから、日本という国の信用の問題として、この国には自浄作用があることを示していただきたいと思います。
そこでは、成熟国のオリンピックとして、コンパクトに設計するという原点に立ち返る必要があるでしょう。北京五輪や、ソチ冬季五輪のような国威発揚型ではない、スポーツを通じた個人やコミュニティーの可能性を引き出すというコンセプトを打ち出してほしいと思います。
小池氏は、オリンピックの組織委員会に集う政財界のボス達と協力して実務を進めていく必要があるわけですが、民意のバックアップがあるのは自分であると自信をもって接してほしいと思います。オリンピックという国を挙げての事業でありながら、組織委員会にはなんの民主的基盤もないわけですから。
日本政治の構造を決める二つの問
小池氏は、日本政治の構造を変える触媒となるかもしれません。期待も込めて、そのような見方をする識者が出てきています。確かに、都知事には、直接的にコントロールできる領域を超えて、メディアの注目度も高く、大きな政治運動の中心となる可能性があります。
衆議院でいけば、東京には小選挙区で25の議席があり、比例代表でも17の議席があります。東京での動きが、周辺の県にも広がるとすればより大きな勢力となり得ます。小池氏にそのようなビジョンがあるか、そのような力量があるかは、見極める必要がありますが。
今後の日本政治をめぐる構造は、大きく三つの勢力へ収れんしていくのではないかと思っています。その構造を分けるのは、極めて単純な二つの問です。言われるまでもなく、激しく乱暴な単純化です。
一つ目の質問は、「輝け憲法!と思っている」か否か。つまり、憲法9条をまるごと守ることを自らの政治的アイデンティティーの根幹に置いているかという点です。この問に、Yesと答える方は戦後日本的な護憲派「リベラル」です。今日の世界におけるリベラルとは似て非なるガラパゴス的な存在ですが、引き続き、人口の2-3割が当てはまるでしょう。
二つ目の質問は、「自分は利権につながっている」と思っているか否かです。この問にYesと答える方は、自分の生活の基盤が、公的な支出や、特定の制度や、許認可によって支えられていると感じている。特定団体への帰属を自らのアイデンティティーの根幹に置き、○○先生にはお世話になったから、あるいは、○○先生のお父様にはお世話になったからという理由で投票先を決める方も、広くはこの区分に入るでしょう。伝統的な村社会を肯定し、そこから利益も享受する層であり、こちらも人口の2-3割が当てはまるでしょう。
双方の問にNoと答えた方は、言ってみれば、「その他」の方々です。その中には、環境問題が大事であるとする方もあれば、子育ての環境が大事な方もあれば、年金が保護される方が大事な方もあるでしょう。最重要の論点が何であるかは異なりますが、多くは、その時々の政治情勢に応じて投票先に柔軟性を持っています。投票先を決める以前に、価値観の根本に、現実主義的で、個人主義的な発想を持つ層です。人口の半分はこの区分に入るのではないでしょうか。
戦後日本的護憲派リベラルは、野党4党の中の左派に対応し、伝統的村社会的保守主義は自民党の主流派に対応します。安倍政権は、当初は現実主義と個人主義を基盤とする都市型保守の感覚を前面に出していましたが、新たな党三役の布陣を見れば先祖返りしていることは明らかです。今もって高い内閣支持率を集めているのは、その信頼が、一定の層の間では、崩れていないからであり、より直接的には日本政治に都市型の保守主義を代表する勢力がほぼ存在しないからです。
小池氏は、ひょっとすると都市型の保守主義を代表する勢力の結集を進める触媒となるかもしれない。今般の選挙の結果は、すくなくとも、淡い期待があることを示したのではないでしょうか。
(2016年8月3日「山猫日記」より転載)