教育無償化政策の哲学
教育の無償化ないしは投資増加が日本政治において注目を集めています。5月3日に発せられた安倍総理のビデオメッセージでは憲法改正のテーマとして挙げられました。維新は独自の憲法改正案を発表していますし、課題となる財源について、民進党は子ども国債を、自民党若手はこども保険を提案しています。
政府の経済運営の指針となる骨太の方針においても間接的に言及が為されるなど、永田町の一つの流行になっているようです。結果として、財源論や制度論の詳細ばかりが先行して、政策の根っこにある哲学について十分に国民的な合意が得られているとは言い難い状況なのではないか。本稿の第一の問題意識は、この点にあります。
思うに、教育の無償化に代表される投資増加策の根本にある発想は大きく二つでしょう。
一つは、21世紀という時代が知識や情報が人々の生活に直結する時代であるということ。この時代には、教育にこそ投資をし、教育の機会をこそ均等にすることが国家の興隆にも、格差の是正にも最も効果があるという発想があります。この大きな時代認識は、おそらく正しい。現に主要国のほとんどが類似の発想と政策にたどり着いています。
もう一つは、少子高齢化社会の人口構造の下で、日本が高齢者の発想に引きずられた社会となっていることへの危機感でしょう。シルバー・デモクラシーにおいて圧倒的な多数派を形成している高齢層の有権者は高齢者福祉の減額を許容しません。高齢化社会の弊害が叫ばれてすでに何十年も経っていますが、改革の必要性が叫ばれても、実際の改革はほとんど前に進まないわけです。
教育への投資増加を訴えるウラには、そんな膠着状態に風穴を開けたいという願望があり、それは正しい思いであると私も思います。
ただ、結論から言うと、現在の日本の制度における、①義務教育以前の幼児教育、②義務教育以後の高校教育、③大学や大学院などの高等教育、のうち、①や②の無償化には賛成でも、③の無償化には反対というのが私の考えです。
まず、幼児教育や高校教育の無償化に賛成する論拠は、これらの段階の教育が事実上義務教育化していると言ってもいいからです。双方ともに国民への普及率は随分前から9割を超えています。
9年間の無償の義務教育が導入された戦後直後と比較して、教育に対する研究も社会情勢も大きく変化しました。この変化を捉えて、義務教育を拡大することには大義があるでしょう。
今日では、良質な幼児教育の提供は、教育への投資が最も成果を上げる時期であることがわかっています。幼いころに一定の集団生活を体験させて社会性を育てること。この時期の高い吸収率を念頭においた知育を受けることは、すべての子ども権利であるべきと思っています。
同様に、複雑化する情報社会にあって、基礎教育と基礎教養を身に着けること、いわゆる現代の「読み書き算盤」の習得には高校までかかるということにも一定の納得感があるでしょう。
そもそも、国民の9割以上に普及している基礎的なサービスについて、親の経済的・文化的な理由から参加できないという不公平を是正することは福祉政策としても正当でしょう。
大学教育の無償化には反対
では、何故に大学教育の無償化には反対なのか。理由は大きく3つあります。
第一は、高卒で働く者との間の不公平を正当化できないからです。現在の日本の大学進学率は約5割です。これを高いと見るか低いと見るかは論者によって異なるでしょうが、現に、国民の半分しか大学には行っていません。
そんな中で、大学教育を無償化することは、高校を卒業して働き納税もしている層から、大学へ通っている層へと所得移転することになります。子女が大学に通っているのは相対的には恵まれた層ですから、何とも頓珍漢で不公平なことではないでしょうか。
推進論者からは、大学を無償化することですべての人が大学に通えるようにしたいのだと反論があるかもしれません。この点については、すべての人が高等教育を受ける必要があるかという点に帰着します。
少々乱暴に言ってしまえば、文系にせよ理系にせよ、大学教育の意義は抽象思考を養うか、専門教育を施すかのどちらかです。抽象思考とは、高校までに身に着けたその時代なりの「読み書き算盤」というツールを使って考えるための訓練を行うことです。抽象思考を行う適性と必要があるのは、どれだけ社会が複雑化してもそれほど大きな割合ではありません。
専門教育については、果たして大学という形態によって担われるのが最適なのかという疑問があります。この辺りが、大学教育の無償化に反対な第二の理由とつながっています。21世紀は、確かに教育の重要性が高まっている時代です。
ただ、専門教育については大学以外にも、企業内教育、生涯にわたって社会において行われる生涯教育や社会教育、労働者への教育として行われる職業訓練など多様なものを含みます。大切なのは、国民各層が自らの人生を豊かなものとするために必要な時期に、必要な教育を受けられることであり、大学教育に偏重して国家資源の投入を増やすことではないのです。
もちろん、投資を増やすには現在の日本の大学が多くの問題を抱えているという現状認識もあります。指標に多少のバイアスがかかっているにしても、世界的な競争力は右肩下がり、中高年の研究者には必ずしも競争原理が働かない中で若手研究者は不安定な身分の下で本筋の研究になかなか時間を割けない。
研究の点からも、教育の点からも学問の足腰はどんどん弱くなっています。個別には改革の努力が行われているし、キラリと光る成功例もあるけれど、全体としては現状に利益を見出す教授会という互助会組織によって抜本的な改革の芽を摘まれていく。当の本人たちを含め、日本の大学教育の未来は明るいと胸を張って言える人はほとんどいないでしょう。問われているのは、そんな組織に、国民の血税から投資を増やしますかということです。
大学教育の無償化に反対する第三の理由は、不必要な国家の拡大を招くからです。教育は、人にとっても、社会にとっても不可欠の営みです。自由に思考し、行動できる市民を作るのは教育によってです。
私から言わせると、そんな重要な分野は政府には任せておけないという感覚があります。教育への国費投入の増加は間違いなく、国家による介入と統制を伴うでしょう。
現状においてさえ、文科省から大量のお役人さんが大学に天下っています。政府という仕組みは、議論にもイノベーションにも向かないのです。国費投入の拡大と、政府によるコントロールの強化は、大学から自由さも斬新さも奪う結果になるのではないでしょうか。
加計学園問題の本質は教育分野における無用の規制
教育無償化の問題が、国会を賑わせている加計学園問題と何の関係があるのか、疑問に思われるかもしれませんが、「教育分野における規制」という問題を通じてなのです。実は、教育分野における様々な規制は、規制国家、官僚国家日本を象徴する問題なのです。どういうことか。
加計学園問題は、獣医学科の新設をめぐって国家戦略特区という政策が導入される経緯で生じています。従来は、獣医学部の新設が認められてこなかった中で、ペットなどの獣医とは別に家畜などを専門とする獣医の不足が、口蹄疫や鳥インフルエンザ問題を通じて明らかになったと。
それに対処する意味も込めて、獣医学部の新設が特区制度を媒介として検討される中で、総理が個人的な人間関係を背景として不適切な影響力を行使したのか否かというのが論点ということになっています。
本件が、野党が追及するように政治スキャンダルとして成立するためには、影響力行使の見返りとして贈収賄や「あっせん利得罪」を構成するような事実があるか、あるいは、影響力行使が純粋に個人的な人間関係を動機とするものである必要があるでしょう。野党やメディアがそのような事実をつかんでいるようには、現段階では見えません。
規制改革という分野において、ほぼすべての省庁は徹底抗戦の構えで来ますから、成果を出すためには何らかの形で「総理のご意向」が必要というのも、この分野に携わったことのある者の間では一つの常識でもあるでしょう。
ということで、現在見えている事実からは何が問題なのか今一つはっきりしません。私が、問題提起したいのは、そもそも、獣医学部の新設が何故にそんなに大問題なのということです。政治家の口利きが(あったかどうかとは別に)、そもそも必要であるのは何故なのかということです。
そもそも論として、国や業界団体などが医者や獣医などの専門職の「品質管理」を担うことには意味があるでしょう。一般国民は、専門的知識を持たないので医者や獣医が適切な教育や訓練を受けているのか、信頼に値するのか判断できないからです。
したがって、一定の教育課程を修めていたり、国家試験に受かったりしていることを免許の条件とすることには合理性があります。
しかし、国家(文科省や厚労省)が、獣医学部の数や、獣医の数を厳しくコントロールすることにどのような意味があるのでしょうか。規制改革の分野では有名な話なのですが、獣医が足りているか否かという問題とは別に、医者が足りているか否かというのは医療行政、教育行政にとって長らく大問題でした。
都知事を辞任して評判を下げてしまった舛添さんは、厚労相だったころに医者が足りないことを役所に認めさせたことを自らの主要な業績として書き残しているくらいです。日本が弁護士や公認会計士を少しずつ増やすのに、どれだけの時間と政治的資源が必要とされたか、何ともバカバカしい話です。
品質管理ならともかく、何故、国が専門職がどれだけ社会に存在するかという、供給管理まで担う必要があるのか。
それは、コントロールのためです。資格や、国家試験や、学部設置というのは、役所がその業界を管理するための道具なのです。そのコントロールは、多くの場合、有資格者の急激な供給増加によって自ら商品価値が減ってしまう業界団体の意向を、それこそ忖度しながら行われます。
加計学園問題においては、文科省と厚労相が登場しましたが、建設や運輸の業界に対しては国交省が、電機や機械の業界に対しては経産省が、文科省とともに登場するのです。
口利き政治を誘発するのは官僚支配
加計学園問題を通じて考えるべき教訓があるとすれば、政治家の口利き政治を生むのは官僚支配であるということです。規制やルールに基づく官僚の統治は一見すると公平なようでいて、実は口利きを通じた腐敗と不公平の温床なのです。
あらゆる規制には解釈の幅がありますが、その解釈の幅の運用は官僚側の理屈で決まって来るからです。民間の個人なり企業なりが新しい事業を行おうとして、当該分野の規制に適合しようとしたとき、お役所の側は様々な理屈で自らの意思を通そうとします。
役所の判断が、既存業者や地域住民などの「既得権者」の利益の下に新規参入のハードルを高くすることであることもあるし、後で責任を問われたくない役人の事なかれ主義である場合もあります。これまでもこうやって来たからというだけの、思考停止に基づく場合さえままあるのです。
そこでものを言うのが、政治家の口利きです。口利き政治は、官僚主義とコインの裏表の関係にあるのです。
では、どうすれば良いか。官僚のコントロールは本当に必要な部分だけに極小化していくことです。市場原理主義ではありません。規制を通じて対応すべき問題と、市場を通じて対応すべき問題を常識的に峻別するということです。
獣医学部の新設を例にすれば、国は獣医さんの品質に関わるけれど、供給には関わらないということです。獣医学部が(自由に)設置されて獣医数が増え過ぎれば、獣医さんはそのままでは食っていけなくなります。
そうなると、獣医さんは(家畜対応などの)それまで供給不足だった分野に進出するか、人々が欲するような新たなサービスを始めるか、そもそも獣医さんになりたがる人が減少するか、などの変化が起きます。
規制改革について議論を聞いていると、この基本がほとんど理解されていないように感じます。それこそ、日本のメディアの論調は、医者が多すぎても少なすぎても批判的です。
医者が多すぎることも、少なすぎることも問題ではないのです。医者が少なすぎる(と感じている)のに、新たに医者を養成できないことが問題なのです。
日本人のメンタリティーに、国家が社会的な供給量を決めてしまう、社会主義が浸透してしまっているのでしょうか。社会主義はどんなに頑張ってもうまくいきません。
ソ連は、鉄鋼は作りすぎてパンは足りなかったのです。それを直そうとしたら、数年後には劣悪なパンが余ってしまって捨てる羽目になるのです。
森友問題から加計学園問題と、今国会で注目を集めたのは総理周辺による口利きの疑いでした。
それらの問題が、国会という国民の貴重な資源を利用する上で意味あるものだったかどうかは読者諸賢がそれぞれ判断するとして、口利き政治の本質には、無用の規制とそれに基づく非効率で不公平な官僚支配があることをせめてもの教訓とできればと思うのです。
(2017年5月21日「山猫日記」より転載)