評価対象は経済運営の全体
国政選挙論点シリーズの第2回は、「アベノミクスの評価」を取り上げたいと思います。アベノミクスとは、金融政策と財政政策と構造改革のセットであるはずなので、本来であれば、個別の政策ごとに評価をすべきところでしょう。本稿の立場は、アベノミクスのうちの金融政策はデフレ脱却に向けて評価できるが、その後に来るべき構造改革案件が存在しないことが問題、というものです。期待が先行していた第三の矢については、そもそもやる気がないのではないかとの認識に到達しつつあります。そのことについては、これまでも申し上げてきたとおりです。しかし、最近思うのは、このような個別の政策分野を取り出して論じる方法にはあまり意味がないのではないかということです。日本政治において経済問題を評価する枠組みがそもそもそのような発想に基づいていないから、という感覚です。有権者は個別の政策を評価するのではなく、あくまで「経済運営」の全体を評価しているのではないか。消費増税の有無や、予算の無駄使いというように、より注目される政策分野は存在しても、ものを言うのはあくまで経済運営の全体性であると。ということで、本稿の目的は個別の論点に入る前段階の、経済運営の骨子やその発想そのものを取り上げ、評価することとしたいと思います。
骨太の経済政策を語れない日本政治
経済政策の全体像について考えるという立場を取る際には、日本政治における経済政策のリテラシーの低さを指摘しないわけにはいきません。これは、各国の政治を比較して見ていれば明らかな日本政治の際立った特徴です。経済政策についての論争は、あっという間にその時々の細目の論点に矮小化されてしまいます。個別の政策が論じられる場合でも、政策の拠って立つ思想や前提ではなく、しばしば特定の組織との距離感を軸に議論が展開されるのです。典型的な例が、財務省との距離感をめぐる言説です。旧大蔵省、現財務省が日本政治の中で特別な地位を与えられてきたことは事実です。財務省は、行政に大幅な裁量が残された日本政治における最エリートの集団として、財政規律という価値観を軸に国家の経営にあたってきました。強固な自律性と団体性をもち、徴税権力という執行権力までを傘下に持つ組織として、組織的なロビーイングを行ってきた唯一の存在と言っていいでしょう。ただ、その存在感が大きいからと言って、経済論争の構造を一組織との距離感で読み解くのは政治を語るものの怠慢ではないかと思うのです。そもそも、日本政治において経済政策をめぐる骨太の議論が成立しない背景には日本がたどってきた歴史があります。冷戦の初期には、共産主義の経済運営に一定の魅力が存在しました。日本を含む先進各国の保守政権は、統治の至上命題に赤化防止を置き、社会主義的な要素を次々と取り込んでいきました。そして、保守政党の経済分野での左傾化に最も成功したのが自民党です。自民党の「大きな政府」路線は、「お上」からの恩恵を期待する国民意識にも、予算増大を領土拡張的に捉える官僚組織の本能とも一致し、安定した日本の政治・社会モデルとなったのでした。ただ、安定の対価は知的停滞でした。政治家や官僚から情報をもらってくる存在であるメディアは、政権が設定する論点をそのまま受け入れることがほとんどでした。調査報道とは、政権の失態やスキャンダルを暴くことを言うのであって、政権が拠って立つ論理構成や事実認識に挑戦するのは自分達の仕事ではないと言っているかのようでした。経済政策についての根本的な路線選択を迫る発想は、かろうじて日経新聞において存在するくらいでしょうか。現在でも、リベラル寄りとされる新聞が緊縮路線であったり、保守的とされる新聞が市場重視の改革に敵対的であったりと、かなりの混乱が見られます。数字に基づく全体像の議論はあまりなく、どうしても経緯論に偏りがちになってしまう。自民党の左側に存在する野党勢力は、「大きな政府」の自民党よりも、「もっと大きな政府」を求めるという戦略を採用せざるを得ませんでした。国民全体に対しては弱者にやさしいというイメージを売り込みつつ、その実は自らの支持勢力に「分け前」を持ってくるという存在に自らを矮小化していったのです。結果、経済運営で自民党と差別化できず、経済の運営主体としての国民からの信頼感も育成されませんでした。この構造は、今に至るまで続いています。この構造が一瞬だけ翻されたのが2009年の政権交代の前後においてです。小泉政権後の自民党政治は、必要な改革に手が付かず、年金をはじめとする福祉政策において失政を繰り返していました。民主党は、都市住民には「無駄使い」を止め、行政に規律を取り戻すという「小さな政府」的なメッセージを出し、農業従事者や年金受給者などには新たなバラマキを約束する「大きな政府」的なメッセージを発しました。権力を奪取するための小沢氏主導のマキャベリズムは、その本質において矛盾を抱え込み、統治能力の稚拙さとあいまって空中分解したのでした。
経済政策リテラシーの低さを克服する
経済政策リテラシーの低さとは、経済政策をめぐる最低限の共通言語と基本認識が共有されていない状態のことを言います。経済リテラシーが低いと、政策論争が深まらず、事実に基づかない似非科学や暴論が許容される状態が持続してしまいます。以下で試みる経済政策の整理は、まったくもって目新しいものではないと予め断っておくべきでしょう。本来的には経済学者がやるべき仕事かもしれません。しかし、経済政策が政治のプロセスを経て決められていくもので、しかも、国民の関心も高い分野とすれば、政治的な言説としてこそ整理が必要とも思っています。整理の題材は、アベノミクスを構成する金融政策、財政政策、構造改革についてです。金融政策とは、一言で言えば金融的な環境を整える政策です。その最も重要な要素が、金利を上下させる狭義の金融政策です。これは、結果的に市中に出回るお金の価値を決めるものですから、経済主体の投資や消費行動に影響を与えます。政策の目的は、金利にせよ為替にせよ、過度の乱高下を避け、成長に必要な条件を作り出すことです。アベノミクスにおける金融政策の目標は、日本経済の成長にとって最大の足かせとなっていたデフレを克服することでした。金融政策が持っている政治的な特徴は、短期間で効果が期待できるということと、民主主義のプロセスを通じたチェック機能が甘いということです。アベノミクスの第一の矢は、為替や株価に対して短期間で大きな影響を与えました。日銀は政府からは独立して政策判断を行うことが建前となっていますから、総裁のリーダーシップがものを言います。日銀への民主的統制は、審議員の国会承認という形で担保されてはいますが、国会が「ねじれ」状態にない限り政権にとってそれほど強い制約とはなりません。他方で、金融政策は「環境を整える」政策であるという性質から、経済の成長性や競争力を根本的に変化させる政策ではありません。成長や競争の担い手は、民間の経済主体だからです。あくまで企業や家計などの民間の経済主体が活動しやすくするための政策であるという、抑制的な、サブ的な政策です。金融政策を重視することが正しい一方で、金融政策を万能視することは間違っているということです。財政政策とは、自らも経済主体であるところの国の財政的な行動を通じて経済に働きかける政策です。一般的に財政政策という場合、国が何にお金を使うかという歳出側に注目が集まります。その際に、重要な視点は、国がどのくらいお金を使うかという量の議論と、国が何にお金を使うかという質の議論です。もちろん、歳入側の議論も同様に重要です。特に、歳入の原資である税徴収のあり方は、民間の経済主体の富を強制的に収奪する国家の強い権能ですから影響も絶大です。国の債務のあり方は、世代間の富の分配に働きかける政策であり、金融的な環境にも影響を与える政策です。政治的に、財政政策には民主的なチェックがより厳しく働く傾向があります。予算を審議するという確立されたプロセスが存在し、野党にとっての見せ場となっています。何より、財政政策は国民にとってわかりやすい。国が、何にどれだけお金を使っているかということはイメージしやすいし、ある政策が自分にとって損か得かということも認知しやすいからです。財政政策は、経済主体としての国自らの活動ですから、国がコントロールしやすいという点も重要です。短期的に効果を出すことが可能な一方、経済全体に対する効果が持続しないという欠点があります。しかも、国の経済活動と結びつきが強い業界や企業を利する一方で、一般国民への影響は薄いという平等性の問題も大きい。近代国家にあって、経済主体としての国の役割を否定する者はいないでしょうが、その役割の大きさについては、やはり、抑制的であるべきという発想が健全です。構造改革とは、経済主体間の構造に働きかける政策です。資本主義経済の下では民間の経済主体間の関係性は自由競争に委ねられているというのが建前です。実際には、国が様々な規制を張り巡らせることによって事実上の影響を与えてきました。であるからこそ、成長や効率の妨げとなり、経済主体間の平等性に問題を生じさせている規制を変更することが重要となります。現状を変えることに意味があることから、構造「改革」という変化を前提とした表現が用いられるのが一般的です。政治的に、構造改革は国のコントロールが効きにくいという特徴があります。過去には、国の規制変更が民間主体の構造を通じて意図せざる結果を招くこともありましたし、効果が発揮されるまでに時間を要することもしばしばです。そもそも、構造改革が政策として効果を発揮するのは、民間の経済主体間での「競争」を促すからです。規制は緩和される場合も、強化される場合もありますが、重要なことは競争が強化されることです。しかし、戦後政治の伝統として競争には人気がない。しかも、競争は既得権者の利益を減らし、他者に分け与えるという傾向がありますから、必死の抵抗を招くことになります。構造改革と似て非なるものとして、産業政策と言われる政策分野もあります。成長戦略という文脈において十把一絡げに論じられることもありますが、区別されるべきです。厳密な定義はないのですが、乱暴に言うと特定の分野への投融資を促す政策です。国が投融資の直接の当事者である場合と、国が補助金、金利優遇、税優遇等のコストをかけて民間資金による投融資を促す場合とがあります。そういう意味では、広義には財政政策ですが、成長に重点をおいているという点に特徴があります。産業政策は、政府が何に投資すべきかが明確で、経済がキャッチアップ局面にあるときには一定の効果を持つこともあります。が、それ以外の場合にはほとんど機能しません。経済を成長させるのは民間の主体であり、投融資はリスクを負って身銭を切るからこそ結果が実を結ぶものです。そもそも、政府が競争に参加することで競争を歪め、経済の効率や成長性が全体として阻害されることすらあります。
各党の「経済運営」にあたる姿勢について
経済政策の基本的な考え方と政治的な特性を長々と説明してきたのは、一定の共通言語なくしては、意味のある政策論議を展開できないからです。以上を踏まえて、各党の経済運営の全体像を見ていくと、自民党一強の政治状況を生む構造がよくわかります。現在の安倍政権は、そのレトリックとは裏腹に自民党の伝統に忠実な現世利益型の利益誘導政治に回帰しています。その特徴は、緩和的な金融政策、拡張的な財政政策、そして、構造改革への消極性です。上潮派や改革派と言われた方々も存在はするのですが、各国の保守政党と比較すれば、いずれもマイルドな範囲内です。官僚機構と二人三脚で政策を進めてきた結果として、すべての政策分野において漸進的であるのも特徴です。基本的に現状維持に軸足を置きながら、時々プラス・アルファの政策を混ぜてくるわけです。民進党と共産党が考える経済運営の骨子が何であるのかははっきりしません。おそらく体系的な形では存在せず、しいて言えば、財政政策だけがあるようです。基本的な発想は、「もっと大きな政府」であり、福祉の充実であり、分配の強化ということです。予算における「無駄の排除」に熱心なのも、あくまで財政政策の範囲内の話です。金融政策については、アベノミクスを批判する一方で、タカ派なのかハト派なのかはっきりしません。構造改革については、概して競争回避的であるので、消極的に見えます。配慮する既得権益層が、自民党のそれとは微妙にずれているということはあるのでしょうが。その他の野党にも体系的な経済政策と言えるものはないようです。おおさか維新の会は、小さな政府的な発想をするように見える瞬間もあるのですが、はっきりしません。そもそも、政党の歴史や規模が一定水準に達しておらず、党としての考え方というよりは何人かのリーダーやアドバイザーの意見の域を出ていないのかもしれません。経済運営に関する基本的な考え方がはっきりしない段階では、政権に挑戦する権利さえないというのが実態でしょう。そもそも、国民は経済運営を託せる政党にしか政権を与えません。そして、自民党が政権にある限り、経済政策は現状維持プラス・アルファが続きます。それは、緩やかな衰退とも見え、危機のエネルギーが蓄積する過程とも見えます。高齢化と一票の格差の温存によって日本の有権者の平均年齢は60歳近くになっていますから、どうしても現状維持が心地よくなってしまう。結局のところ、この国は破たんするまでは変わらないのだと思います。(2016年5月31日「山猫日記」より転載)