またまた頻発する、セクマイ差別発言
渋谷区、世田谷区に続き、同性パートナーシップ条例を採択する地方自治体が増え、企業もセクシャル・マイノリティに対して意識を向け始める状況と比例するかのように、セクマイ(セクシャルマイノリティの略)に対する差別的考えを公言する人も目立ってきています。
昨年末の海老名市議つるさしますみ氏の差別ツイートから端を発し、練馬区議小泉純二氏、岐阜県議藤墳守氏と、地方議員によるセクマイ差別発言が相次いだことは記憶に新しいですよね。
そしてここに来て、見逃せないセクマイ発言が立て続けにネット上を騒がせました。
誰によるどんな発言なのか、ご存じない方のためにまずはまとめてご紹介しましょう。
昨年後半、難民ヘイトのイラストを発表したことで一気に知名度を上げたイラストレーターのはすみとしこ氏の2月17日の連続ツイート。
2月15日の杉並区議会における小林ゆみ議員の質問。
性的マイノリティに関する質問の全文を含む詳細はこちら
当件に関して触れた小林議員のブログ
この議会での質問に関して石川大我練馬区議と乙武洋正匡氏の反論ツィート。
石川氏と乙武氏のツィートに対する、東洋大学准教授藤本貴之氏のコラム。
「性的指向=やむを得ない」理論こそ危険 #BLOGOS
はすみ氏、小林氏、藤本氏の発言は、もともと無理解(もしくは理解する気がハナからない)な上に誤解を積み重ねていった暴論としか思えず、どこから突っ込めばいいのか頭が痛くなってくるほどです。
が、それぞれの問題点を追求するのが当コラムの目的ではありません。
目くじら立てず受け流すのが大人の態度か?
昨年末の地方自治体議員による差別発言が連発した際、twitterのタイムラインではそれに憤りを覚え反論するたくさんのツィートが書き込まれました。
しかし、中には
「人がどのように考えるかは自由」
「一々目くじらたてても仕方ない」
「言いたい奴は放っておけば良い」
というセクマイ当事者(特に30代以上のゲイが目立ちました)の意見も少なからず書き込まれていました。
たとえばテレビのお笑いやバラエティ番組のネタとしてのセクマイ差別に慣れてしまっている世代にとっては、理解する気のない奴に構う必要はない、と考えるのかもしれません。
または、クローゼットでいることを望む人にとっては、セクマイ差別問題が炎上すること自体が迷惑だと感じるのかもしれません。
しかし、僕は一連の差別発言を黙って見過ごすという考えには違和感を覚えてしまいました。
ちょうどそのタイミングでお会いしたFtMのウェブ媒体編集者の方々と、この話題になり、彼らの言葉から自分が抱いた違和感の理由がみえてきたのです。
彼らは差別発言が連発した問題に関しては憤るよりも
「多くの当事者以外の人たちが差別発言に対して怒っているのを見て、逆にいい方向に進んでいると感じて安心した」
と語ってくれたのです。
たしかに、twitterのタイムライン上では、明らかに当事者ではないと思われる多くの方が差別発言をした議員たちを非難していました。
当事者ではない人たちが、当たり前のようにセクマイ差別を非難するという状況。
言われてみれば、これはすごく世の中の変化を感じさせてくれるものでした。特に、オカマ差別は当たり前、という昭和世代にとっては驚くべきことであります。
そして考えたのは、こういう状況が生まれて来たことにセクマイ差別に抗議し続けた当事者の先人方の功績は大きいということです。
人の意識を変えるための長い道程
日本では明らかなセクマイ差別はない。
先の杉並区議小林ゆみ氏も事実かのように語っていますし、同じように思い込んでいる人は多いです。
それはストレートの人ばかりでなく、クローゼットの当事者の中にでもです。
しかし、それは多くの当事者が自分のセクシャリティを隠してクローゼットでいたから、実生活において表面化しなかったにすぎません。
実際、メディアにおけるオカマ(ゲイ)差別は昔から当たり前のようにありました。
まだ20世紀の1990年代には、そのようなセクマイ差別に対して敢然と立ち上がり抗議をする人たちがいました。
俗に「リブ系」という言葉で語られる人たちです。
クローゼットのままがいいと考える人たちからは
「余計な波風を立てて欲しくない」
と攻撃され、またゲイ生活をエンジョイすればいいと考える人たちからは
「ああいうのはモテない鬱憤を晴らすためにやってるんでしょう」
と一線を引かれ疎まれることもありました。
そして、リブ系の人たちの活動を否定する人たちは
「一々目くじらたてて抗議しても、人の心の中を変えることはできない」
という、諦めにも似た考えを持つ人も少なくなかったと思われます。
たしかにセクマイに対して差別的な感情を持つ人を変えることはできないかもしれません。
しかし、当事者が
「それは差別だ」
「そういうことは不愉快だ」
「私達は傷ついている」
「そういうことは止めてほしい」
と声を上げない限り、当事者以外の意識は決して変わらないでしょう。
「冗談のつもりだったが、これは誰かを傷つけてしまう行為だ」
「(そんなつもりはなかったが)オカマという言葉は差別用語なのだ」
「自分と違うことを理由に誰かを排除してはいけない」
当事者ではない人が、先回りしてこういう考えをもってくれるはずはありません。
だからこそ当事者の中からも理解されなかったり、疎まれたりすることに怯まずに長い間声を上げ続けて来た人たちの功績は大きいと実感せざるを得ません。
セクマイ差別発言を受け流してはいけない理由
とはいえ、今でも本当の自分を隠さねばならず悩んでいる当事者はたくさんいます。
セクマイの存在が顕在化するのに比例して過激化するネット上などでの心ない差別発言に、人知れず傷つけられている当事者も決して少なくないはずです。
特に、自分のセクシャリティを受け入れきれていない若い年代には、傷ついている人が多いだろうと想像することは容易です。
「人がどのように考えるかは自由」
「一々目くじらたてても仕方ない」
「言いたい奴は放っておけば良い」
そういう発言をする方は、ぜひご自分の若い頃、セクシャリティを受け入れきれていなかった時代を思い出してほしいのです。
その当時の貴方でしたら、心ない差別発言を前にしても今と同じように受け流してしまえるほど強い心をもっていたでしょうか。
差別される当事者が、嫌なことは嫌だと声を上げ続けることで、少しずつ人の意識を変えていくことができるのです。
若い頃の貴方と同じように、自分のセクシャリティに自信が持てず悩み苦しんでいる人のためにも、私たち大人はセクマイ差別発言を受け流さずに、抗議の意志表示は続けていくべきだと考えています。
画像引用元
杉並区議会録画放映より