福島第一原子力発電所の事故処理、特にその技術的課題に世間の耳目が集まる一方、その地域に住む人々の暮らしについては見過ごされがちである。しかし私には、事故を起こした原子力発電所とともに生きた経験がある。
1980年、米国原子力規制委員会の若手職員だった私は、スリーマイル島原子力発電所事故の廃炉作業を指揮管理する任務を命ぜられ、妻と二人の息子を連れて、スリーマイル島に程近いセントラルペンシルベニアに引っ越した。福島とスリーマイルでは、事故の状況も地域の事情も違う。福島の事故はスリーマイル島の事故よりも複雑で、その収束にもより長い時間がかかるだろう。しかし、原子力発電所の周辺住民たちの心理的状況――その不安感や先が分からないことへのやるせない気持ち、国の原子力政策に関する議論に振り回されているのではないかという疑心――には共通したものがある。
福島第一原子力発電所の事故後、私は何度か来日し、発電所の汚染水対策などに助言をしてきた。しかし、今年5月に福島を訪れたのには違う理由があった。このときは、避難している住民を含む、事故によって影響を受けた人々と交流し、彼らの不安に耳を傾け、私が知る限りの正確な情報と私の福島の人々に対する思い、地域の未来についての考えを伝えるためであった。
会津大学で講演するバレット氏
今回の旅に、私は妻のリンと孫のジェシカを同行させた。私がスリーマイル島の事故処理にあたっていた当時、地元の病院で助産師をしていた妻のリンは、多くの母親たちと事故の不安を共有してきた。ジェシカの父親は、スリーマイル島原子力発電所の間近で育った。
福島の人々の話は、そんな私たちのなかにある 34年前の鮮烈な記憶を呼び起こし、彼らの復興に対する思いに、私たちの心は震えた。
■ 母親たちとの交流
母親と子どもと語り合うバレット夫人(相馬市)
福島の女性たちとの交流会には、広野町や富岡町に住む母親や祖母たちと、これから母になる妊婦たちが集まった。彼女達は子どものことを心配し、真の情報を求めていた。 彼女たちは、政府や地元自治体等から届けられている情報だけでは安心できない、方々から聞こえてくる否定的な情報に恐怖心を抱かずにはいられないと感じていた。福島の人々を永遠の被害者としてのみ描くこうした否定的な情報に、彼らは翻弄され、そして再び傷つけられていたのである。なかには「家に戻りたいと言う子どもたちを避難先から自宅へ連れて帰ってきたが、それ で良かったのか自問自答の日々を過ごしていた」という母親もいて、その人は「スリーマイル島事故の体験談を直接聞けて、安心した」と涙ながらに話した。
放射線の健康への影響については、実に多くのことが分かっている。そして世界には福島よりも線量が高い場所で人々が幸せに暮らしているところはあり、福島における被ばく量が安全だということは明らかである。「どうして帰れるの?」「あなたの子どもは放射線を浴びているから私の子どもとは遊べない」という心ない言葉に、母親達が罪の意識を感じず反論するためには、正確な情報を得る必要がある。私たち家族もスリーマイル島の近くに住んでいたときには同じような周囲の反応に直面した。そしてそれらの問いに自信をもって回答するため、情報収集に腐心した。
■ 農家と漁師との交流
稲作を再開した農家を訪れ懇談(川内村)
農家の方と漁師からは、彼らが放射性物質の問題について独自に調べ、回答を求めようとしていることがうかがえた。コメ農家の方は、放射性物質を含む土が何処に廃棄されるのかを気にしていた。山に放射性物質を含む土が処分されたら、山からの水流によって水田がより汚染されるのではないかと心配していた。しかしそうではない。なぜならどこに汚泥を処分したとしても、この3年間で放射性物質は既に物質的に半減しており、その後も半減し続けているからだ。また漁師の方は、厳格な放射性物質検査により安全だと証明された魚でも、「福島」という表示があるだけで買い控えを起こす風評被害を心配していた。スリーマイル島付近の農家も似たような的外れな疑義に苦しめられた。しかしながら、時間とともにセントラルペンシルベニア産の食物の品質と安全性が一般に認識されていき、的外れな疑義もなくなっていった。
入念なモニタリングと発電所の汚染水管理の進歩が、海を守り、この地域で獲れた魚が安全であることを証明していく。私たちも福島を訪問中、安全性については何も心配することなく福島の魚を食べた。
原釜漁港で試験操業をする漁業組合理事から課題を聞く
■ 希望を持つことの大切さ
事故から3年間、被災者への支援というと、もっぱら金銭的補償に焦点があてられてきた。しかし私が現場で感じた限りでは、福島の人々には政府や東京電力、その他関係者による積極的な情報の提供や精神的なサポートも不可欠である。東京電力は福島の復興のために長期的な支援を約束しているが、その支援のなかに、より積極的な情報提供や精神面に対するサポートも含めるよう求めたい。
今回私が話したようなスリーマイル島原子力発電所事故の経験談は、福島の人々の参考にはなったであろうが、それだけでは足りない。ふるさとを復興させ、ふるさとで生活しようと決意している住民達も、一方ではその決意に対する不安も感じているのだ。彼らが自信を持ち、安全、繁栄、そして幸せな将来についての青写真を持てるかどうかは、今後の支援にかかっている。そしてそれは、スリーマイル島でのやり方とはまた違う、日本の文化や細やかな感情に敬意を払ったものとなるだろう。
福島の人々に何よりも必要なことは「希望を持つ」ことではないだろうか。彼らには是非とも信じて欲しい。再び米が実ることを。学校や職場に戻れることを。何世代にもわたって暮らしてきた地域に未来があることを。