私がFacebookをやめた理由

自分の Facebookアカウントを削除してから、丸3年間が過ぎました。アカウントを一旦停止にしたばかりでなく、全てを削除してしまったのです。

...今年こそ、ソーシャルメディアを見て時間を浪費し過ぎないようにしよう、と新年に誓うことを考えてみませんか? 一人のミレニアル世代の女性がFacebookをやめてしまい、そして二度と利用しなくなった理由を伝えています。

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自分の Facebookアカウントを削除してから、丸3年間が過ぎました。アカウントを一旦停止にしたばかりでなく、全てを削除してしまったのです。

人々が Facebookを好きだ、と言っているのを聞いたことがあります。 Facebookは有意義な体験となり、あるいは連絡を取り合うための「ツール」となりえる、と私も間違いなく信じています。私たちはみんな、様々な個性を持ち、そして自分が提供できる様々な人生経験があります。しかし私にとって、Facebookは私の個人的な不安感を増大させていたのです。

かつてFacebookに登録していた時、ログインして、自分のニュースフィードをチェックすることを、あるいは特定の人々のことを調べ、その近況を読んで画像を見ることを、私は止められなくなっていました。

私はよく、ログインして見たものでした。

私はよく、自分がしたくないとか、考えたくないとか思うことから逃れようとする瞬間に、 Facebookにログインして見たものでした。つかの間の「シュガー・ラッシュ(過度な糖分摂取による興奮状態)」に陥り、いや応なくFacebookの写真と更新の全てを見た後、一種の「思考停止」状態が起こり、その後ログオフして、自分がしていた何か他のことに戻るのです。

Facebookの中には、大抵は女性の友人なのですが、時にはまた昔のボーイフレンド、といった特定の人々がいて、その人達の生活への関心がますます高まり、彼らに何か「新しいこと」は起きていないかを知るために、彼らを調べることによって、多かれ少なかれ、彼らを追跡していることに気付くのでした。

私にとって問題だったのは、常にこうした人々と自分自身を比べてしまっていたことであり、そして多くの場合には、こうした人々は、私の毎日の、またはプライベートな生活に対しては、もはや重要な役割を果たしていない人々さえいました。

それにもかかわらず、私はFacebookの中にいると、その人の最近の嬉しかったこと、大成功したこと、恋愛関係について読み、感情的になったものでした。

相手や相手のポジションと、自分自身や自分のポジションとを比較して不愉快に感じたり、あるいは自分が相手の立場になっていないことに「満足感」を覚えたものでした。この期間に自分が思ったことをよく考えてみると、私は他人を妬み、他人に一方的な判断を下していたことに気付ました。

まあ多少は、自分自身を、自分の周囲の世間の人々と比べてしまうのは、人間の持つ本質です。

自分の行動が不健康で、気分が良くないことだと思い始めた時でさえ、「みんながFacebookに登録している、みんながこれをしているのだ」と自分に言い聞かせていました。

しかし私の Facebookの利用がさらに長く頻繁になり、毎日(大抵1日に複数回)利用するようになってきた時、Facebookは不健康だと悟りました。

私が自分の行動が不健康的で、気分が良くないと思い始めた時でさえ、「みんながFacebookに登録している、みんながこれをしているのだ」と自分に言い聞かせていました(これは事実ではありません。何故なら、 Facebookになど登録していない、たくさんの人々がいるからです。これは私が自分のアカウントを削除してから3年経って気付いたことなのですが)。

時には、他の人のインスピレーションや、自分が有益であると思えるちょっとした情報等、前向きなものをFacebookから自分が入手できることに、気付くこともありました。

しかし大抵は、ログオフした後、無力感に苛まれたものでした。

私はFacebookを止めたいという思いに関して、友人、先輩、家族と激しい言い合いを、何度かしたことを覚えています。Facebook上にある私の1000件以上の新規メッセージや「友達」を削除することは、困難だと思いました。さらにまた、オンライ上に画像を投稿したり、人々が私に感心してくれたり、「いいね」の獲得数をチェックしたりするワクワク感を、手放したくありませんでした。

最終的に、自分のアカウントを削除することは、私にとって精神衛生上良いことだ、と結論付けました。

自分のアカウントを削除した後、まだ約2カ月間は、ログインして、人のことを調べたいという強い願望がありました。これはもう、日常的な習慣になっていたからです。

そのために Facebookの願望を、代わりに『POPSUGAR』や『US Weekly』のオンライン・ウェブサイトを訪れることで満たしました。これらをFacebookから自分を引き離すために、当座の特効薬の一種として使いました。セレブのゴシップを読むこともまた、同様に代替のシュガーラッシュの効果がありました。

私は Twitterに登録しました。これなら、時々撮った画像を投稿することができますが、ここでは人々のことを調べるよりも、ニュース記事を読むことに、重きを置いていました。

ゆっくりとではありますが、私はまた、このようなFacebookにログインしたいというかつての欲望が起きる時、意識的な行動を取る方法も学びました。

『Facebook』から解放されることによって、私は人々への不必要な愛着と、自分がしがみついていた概念を手放すことができたのです。

たとえば、水を飲むために自分の机から立ち上がる時、あるいは街1区画を散歩する時でさえ。友人に電話する時。自分のバッグの中に持ち歩いている本から、インスピレーションを与えるページを読む時。さもなければ、窓から外を眺め、2-3分間深呼吸して、ももに両手を置き、床に足を付けている時にです。

Facebookに登録していないことは、私の日常生活に、そして自分自身を見つめる方法に、計り知れない影響を及ぼしています。

私は自信が付き、成長したと感じています。

『Facebook』から解放されることによって、私は人々への余分な愛着と、自分がしがみついていた概念を手放すことができたのです。これにより、私は自分自身と繋がり、そして最終的には、もっと意義のある、ゆっくりとした、しっかりした方法で、尊敬する人と繋がることができたのです。

そしてまた、自分の人生の他の局面においても、より幸せを感じてもいます。自分自身を他人と比べてはいませんし、毎日無力感に苛まれることはありません。その代わりに、私は身の回りのことに対して、幸せであると思うと共に感謝しています。

その後すぐに、私は将来夫になる人と出会い、定期的にヨガの練習も始めました。

このようにして、一旦余分ながらくたを止めてしまうと、素晴らしい生活の変化が、私の人生に生じることになりました。

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ハフィントンポストUS版より翻訳・加筆しました。