アルビノの子を産んだ母は、僕をどう育ててきたか

アルビノの僕を、母は決して悲観しなかった。

"アルビノ"とは

 生まれつき、体内のメラニン色素を生成する能力が無い(または極端に少ない)遺伝子疾患。

 体毛や皮膚など全身の色が極端に薄い見た目に特徴がある。弱視・羞明など視力が弱いことが多い。

―昭和58年夏―

埼玉県所沢市で、母はアルビノの僕を産んだ。

3年前に長男を、1年半前に次男を産み、3人目の息子だった。

産み落とされた僕を見て、医師は母に、言葉を選びながら告げたそうだ。

「色は真っ白ですが、手の指も足の指もぜんぶ5本ずつ、元気な男の子です。間違いなく、お母さんの赤ちゃんですよ」

30年以上前の当時、インターネットなどの情報が無い頃。

現在でも多くの医師が充分には理解していないアルビノという存在。

そもそもアルビノという言葉すら認知されていなかっただろう時代。

母はその日から、3人目の息子を、はじめての"白い子"を育てることになった。

アルビノは遺伝子疾患だと今でこそ解明されているけれど、それでも感覚的には「突然変異」のように解釈されている。

僕の先祖代々をみても、アルビノだった人はいなかったようで。

父も母も、兄たちも「普通の日本人」の家族に突然、真っ白な赤ちゃんが生まれた。

とても信じられない、それこそ理解を超えた存在として僕がやってきた。

動揺しなかったはずもなく、何軒もの病院に足を運び、母は僕が何モノなのか、大丈夫なのかを聞いて回ったのだそう。

それもそう、誰もが"よくわからない"と答えるしか無いような時代、存在。

その頃は根拠もなく「短命だろう」「知的障害があるだろう」「皮膚がんになるだろう」などと言う医師も多かったと聞く。

その足で、どれくらい情報を集めて回ったことだろうか。

不安だらけの時の中で、かすかな希望を探り続けるような日々。

そしてようやく手にしたのは「日差し(紫外線)に注意が必要だ」という事実と「それ以外は健やかに育っていけるだろう」という安心だった。

弱視であることがわかってからも、母は一般の幼稚園、地元の公立小学校・中学校へと僕を進めた。

入園・入学の都度、僕をつれて学校へ、事前に"息子の説明"をしに行った。

僕も少し憶えてる。校長先生の前で「普通の子なので、日焼けだけ気をつけてもらえれば」。

学校での過ごし方は、兄たちがいたこともあってか、わりと何も先手を打たなかった。

僕は兄たちにたまに面倒をみてもらいながらも、友達や担任の先生とのやりとりの中で、自分の出来ること・出来ないことを知っていった。

小学2年生になった時だと思うけれど、視力が弱く黒板がよく見えないことに気付いた僕は、授業のはじめ、先生に向かって「黒板が見えないので前の席にしてください」と、恥ずかしさからか顔を真っ赤にしながら言った。

同じくその頃、日焼けに注意が必要だとわかってはいたけれど、曇り空なら大丈夫か~などと、幼い頭で勝手な解釈をして、プールの授業を楽しんだ。挙げ句、全身を真っ赤に日焼けして大変なことになったりした。

普通の兄たちと違って、僕には出来ないことがある。

そんなアルビノの僕を、母は決して悲観しなかった。

僕が知らなくて困っていたら「日焼けすると痛いから、日焼けしないようにしなさい」とか「人より視力が弱いから、困ったら人に聞いたり道具を使ったりしなさい」と、ひとつひとつ教えた。

もちろん母自身がわからないことも多かっただろうけれど、それも「(指をさしながら)アレは見えてるの?」「今は眩しいの?」と、僕に聞きながら一緒に理解をしていった。

そんな母が、ほとんど毎日のように言っていた言葉が、これまでの僕を生かしてきた。

「幸司は、人と違ってお人形さんみたいに可愛いのよ」

「あなたは、みんなと違って真っ白でとてもキレイね」

母は、とても簡単には理解できなかっただろうアルビノという僕の存在を、一度も否定しなかったどころか、誰よりも一番に肯定し続けていた。

やんちゃしていたこともあったし、わがままで困らせたこともあった。

僕のせいで頭を下げたこともたくさんあっただろうし、けれど、普通の兄たちと同じように、息子として叱り、しつけもした。

母がそうして、アルビノの赤ちゃんを強く肯定し続けながら、ひとつひとつ、ゆっくりと一緒に知りながら、僕を育ててきたこと。

そこから、アルビノとしての僕が、今の僕がこうして生きていられることに、感謝しか無い。

僕の生きてきた意味を、粕谷幸司が生まれてきた世界を、これから少しずつ、ゆっくりと、書き残していきます。

ハフィントンポスト日本版、初投稿でした。

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