EU離脱をめぐるイギリスの国民投票とその後の混乱は、ヨーロッパのみならず世界中に大きな衝撃を与えた。とりわけ日本では、イギリスを震源とする世界経済の混乱への懸念のみならず、本件を日本国憲法改正の際の国民投票と重ね合わせて、日本で国民投票を行えば、イギリスと同様、いやむしろもっとひどい混乱が起きるのではないかとの声が上がっている。
それには、主に2つの理由があると私は考えている。
第1の理由は、「日本人は白黒はっきりさせるのを嫌う」と信じられているからである。EU離脱においても憲法改正においても、国民投票となれば選択肢は常に「イエス」か「ノー」しかないので、必ずどちらかを選ばなくてはならない。それは中庸を好む日本人にとっては酷だろうというわけだ。
確かに日本人は、特に政治について選択を避ける傾向がある。その最たる例は、地方の首長選挙だ。現在、所属政党を明らかにして当選した知事は47都道府県中たった1人、大阪府の松井一郎知事(おおさか維新の会)のみである。当選した知事ばかりでなく、対立候補も大多数が無所属だ。それはなぜか。政党の色がついている候補者をリーダーとして選びたくないのだ。みんな白黒つけず、曖昧にしておきたいのである。
第2の、より根源的な理由は、日本人の主権者意識の低さである。「国民主権」という言葉は社会科の教科書に太字で書いてあり、テストに出るので漢字は書けるかもしれないが、多くの日本人にとってはそれ以上のものではない。ゆえに人々の政治に対する当事者意識は限りなく薄い。
政治はどこかで勝手にやっているし、法律は誰かエラい人が勝手に作っている。政府に不満があっても自分が影響を与えられるとは思っていないが、その反面、政治家に何かスキャンダルが起こると、みな他人事として非難し攻撃する。そこには、その政治家を自分たちの代表者として自分たちが選んでしまったのだという当事者意識はほとんど感じられない。
先日の参議院選挙では、投票年齢が20歳から18歳に引き下げられて初めての国政選挙ということが話題となったが、投票率は結局あまりぱっとしなかった。残念ながら、自分に直接利害をもたらすことが議論されているとか、自分が直接知っている人が立候補しているとかいうことでなければ、当事者意識が生まれないというのが、多くの日本人の政治的メンタリティーである。
何か自分が得するわけでもないのに投票に行く人は、学校の優等生のような「意識高い系」、あるいは政治に関心を向けられるほど生活に余裕がある人とみなされてしまう。
「日本人の投票率が低いのは、人々の政治的関心が低いからだ」という主張があるが、投票率の高い国の国民は、必ずしも政治的関心が高いとは限らない。むしろ特に政治的関心がなくても何が政治的問題であるかは知っているし、それについて自分の意志を反映させるために投票に行く、というのが本当の意味での主権者意識であるはずなのだ。
話が少しそれてしまったが、こうした日本人の政治に対する主権者意識、当事者意識の欠如は、そもそも日本国憲法が占領軍による押しつけであったことによる、という議論がある。アメリカ人からすれば、制定からもう70年も経っており、その間ずっと変えなかったのは、もはや日本人の意志だろうと言いたくなるかもしれないが、日本人には、とりわけ憲法に対する当事者意識が欠けているように思われる。
そしてこの当事者意識の欠如は、イギリス人にとってのEUと非常に重なる。そもそもイギリスはEUの前身であるEC(欧州共同体)の原加盟国ではなく、EUは自分たちが作り上げてきた仕組みであるという認識は持ち合わせていない。また加盟後の世論調査においては、EUを好意的に評価する人の割合が過半数を超えることはほとんどなかった。多くのイギリス人にとって、EUは実によそよそしい存在であった。
国民投票の直前に多くのイギリス人が「EUとは何か」をインターネットで検索していたことが話題となったが、もし日本で憲法改正のための国民投票が行われることになれば、同じようなことが起こる可能性は十分にあるだろう。
そしてイギリスで国民投票の結果が出た後に、特に離脱派の間で再投票を求める動きが広がったのは、通貨ポンドや株価の下落によって離脱決定の影響が現実化し、人々が急に当事者意識を持つようになったためである。これもまた、日本で同じようなことが起こる可能性が否めない。
また今回のイギリスの例は、われわれが国民投票を行う際に気を付けなくてはならない危険性をいくつか明らかにしてくれた。
1つは、国民投票によって社会的結束にヒビが入る危険性である。イギリスでは、国民投票後に移民排斥の動きが一部で強まるなど、離脱派が過激化する動きが見られた。また今回の国民投票では、若者ほど残留支持、高齢者ほど離脱支持という世代間格差が大きな話題となったが、ただでさえ「シルバーポリティクス」という言葉が流行り、年金や福祉をめぐる世代間格差のストレスが充満しつつあるところに、同様の世代間格差が起きれば、若者の不満が爆発することにもなりかねない。
2つ目は、デマや誤解が広がる危険性である。比較的個人主義的傾向が強く、自己判断ができるとされるイギリス人が今回の国民投票の前に散々デマや誤解に惑わされていた姿を見るにつけ、同調傾向が強く、他人に判断を委ねやすい日本人は一層気をつけなければならないと思う。
3つ目は、国民の選択としての正当性を問われる危険性である。今回のイギリスの国民投票では「投票率が約72パーセントであり、その中の52パーセントが離脱を選んだということは、有権者のたかだか36パーセントが賛成したのみであり、これは民意ではない」という主張をときどき耳にする。
日本国憲法第96条は「過半数の賛成」を定めているが、これは有権者の過半数ではなくあくまで投票者の過半数を意味するので、今回のイギリスのように「投票率×賛成率」が50パーセントを越えない可能性は低くないと思う。そうなれば、何のために国民投票まで行ったのかということになりかねない。
このように日本人は国民性として白黒決めたがらないし、そもそも政治や法律、とりわけ憲法に対して当事者意識がない。しかも日本が「民主主義の手本」としてきたイギリスですら様々な問題が起こって社会が混乱しているとなれば、日本で憲法改正のための国民投票が実施されたら一体どうなるのか、と心配するのは無理もないと思う。
けれども「だから日本では国民投票は実施すべきではない」というなら、それは違うのではないか。イギリスでは皮肉にも離脱という結果に終わったが、あの国民投票のおかげで、イギリス人のみならず世界中の人々が「EUとは何か」を真剣に考えたことには、とても大きな意味があったと思う。そもそも、現時点では世界経済の混乱を招いているのは事実であるが、長期的にみてどちらの選択が正しかったかは、まだ誰も決することができない話である。
こんな風に書くと「国民投票は教材ではない」とか「憲法をなめるな」などと言う向きもあるかもしれない。しかし憲法というこの国の根幹をなす決まりに対して、多くの人々が当事者意識を持たぬままにしておくのは、それこそ国民をなめた恐ろしい状況である。
憲法は宗教の聖典ではない。憲法をころころ変えるのが良いこととは決して思わないが、安定性を求めるあまり、国民の手の届かないものにしてしまっては意味がない。民主主義において大切なのは、国民投票について書かれているのが憲法の第何条かを言い当てることでも、憲法改正の発議の条件を暗記してテストの答案に書くことでもない。自分が国民の1人として、憲法のあり方を判断する力をもっていることを自覚することなのだ。
いわんや「国民投票イコール憲法改正」ではない。国民投票によって憲法改正の発議が可決されれば、もちろんそれが国民の選択ということになるが、もし否決されても、それは現在の憲法を維持したいという国民の意志が明らかになったということで、それで良いではないか。幸い憲法改正の場合は、EU離脱と違って基本的に相手のある話ではない(もちろん外交や安全保障上の問題はあるだろうが)。
もとより「白黒」を嫌う国民性である。どちらに転んでも国民投票の結果を踏まえ、バランスを取って運用してほしいというのが、多くの日本人の望むところではないだろうか。