理化学研究所(以下「理研」という)の小保方晴子氏のNature論文や博士論文の不正問題は、問題自体よりも関連機関のその後の対応のあり方が、今後の日本の学位や科学的研究への国際的信用に影響する可能性が高く、その点がむしろ重要なのだが、これまでの経緯は取り得た幾つかの選択枝の中で最悪に近いコースを進んでいると筆者には思える。その理由を述べたい。
■実験の再現性の審査のあるべき姿
まず最初に研究に不正の疑いがある場合の審査のあり方についてである。筆者が問題にしているのはSTAP細胞の有無についてのNature論文の「実験結果」の再現性に関する検証のあり方である。不正が疑われる実験や分析結果の検証について筆者の知る米国などでの基本ルールは、利害関係のない第三者によってされねばならないという原則である。
筆者は過去に米国の2大研究財団である米国国立科学財団(NSF)と米国国立保健研究所(NIH)の特定部門の常任審査員をそれぞれ数年勤めた。審査員の仕事は米国の大学や研究所の科学者や研究センターからの研究資金の財団への申請について計画された研究内容と資金の妥当性を評価し、多数の申請間の優劣評価をし、研究資金を出すか否かに関する財団の公正な決定に必要な資料を提供することである。
筆者の属した部門はNSFでは社会科学・行動科学における統計的分析や計測方法の研究部門で、NIHでは生命・医療統計研究部門であり、今回問題になっている分子生物学研究とは全く関係がない。しかし審査におけるルールと倫理は、部門にかかわらず共通である。利害関係者は、利害の葛藤(Conflict of Interest)を持つ者と定義されるが、具体的には個人の研究プロジェクトの研究資金申請の場合、研究主査(PI)とその共同研究者たち(Co-PI)のいずれかと過去5年の間に共著論文を書いた者や同一研究センターやプロジェクトに属したことがある者などはすべて利害関係者とみなされていた。さらに研究センターなどの大学・研究機関内組織の研究資金申請の場合には、同一の大学で研究に携わる者すべてがセンター研究者との共同研究の有無にかかわらず利害関係者とみなされていた。そのため個々の研究資金申請審査にあたり、審査員中で利害関係者が会議場から一時退出し、その審査が終わると呼び戻されるというルールが厳格に守られていた。
これは研究資金申請の審査の例だが、不正が疑われる分析や実験の再現性の有無の検証なども、利害関係のない第三者によって審査されねばならないというのは、米国では普遍的ルールである。しかるに今回STAP細胞の存否に関する検証は、問題となったNature論文の執筆者を中心とする理研のチームが主導することになった。単なる継続研究なら問題はないが、これがSTAP細胞の有無の検証であるのなら、米国では不適切な検証組織の選定とされることは疑いがない。
さらなる驚きは、Nature誌論文中での不正を認定された小保方氏を検証参加させたことである。STAP細胞をつくるには一種の「こつ」があり、それを知っているのは彼女だけだというのが理由だそうだが、不正の当事者を参加させる倫理的問題に加え、その理由そのものが科学の普遍的原理の否定である。実験手続きを他の研究者が再現できるように言語・資料で伝え、伝えられた他者が少なくとも一定の小さくない確率で再現でき、さらにそのメカニズムが理論的に説明できて初めて科学である。特定の個人が関わらなければ再現できないものなど、職人芸であり科学とはいえない。小保方氏の参加要請は、理研自らがSTAP細胞作成技術の科学性を否定したに等しい。
またもし実験手続きが第三者に伝えられないようなたぐいの物なら、科学であるNature論文への投稿そのものに倫理的問題があったといえよう。これらの理研の一連の行動は、明らかに普遍的な科学研究の倫理とルールを逸脱している。
■剽窃はなぜ許されてはならないのか
早稲田大学における小保方氏の博士論文に対する最近の調査委員会の結論は、さらに大きな問題を生み出した。彼女の博士論文は広範にあたる剽窃(盗用)があり、調査委員会はその不正を認めたが、博士号は剥奪しないと決定した。問題はその理由である。調査委員会は彼女の広範多岐にわたる剽窃を「過失」によるものと認定したが、その理由は小保方氏のいう「下書きだったものを誤って提出した」という弁解を受け入れた形である。
あえて断言するが、結論(処分しない)が先にあって理由をこじつけたとしか思えない。もちろん、広範な剽窃は過失などではありえず故意によらねば起こりえない。かりに下書きであっても剽窃が土台となっていることは明らかで、それだけでも倫理的に失格である。また博士論文の「最終原稿」が提出されたのは今年5月で、剽窃問題が公に指摘された後であり、当然改ざんできるので不正の有無の判断の参考にはならない。なにより博士号自体は「下書き」ではなく、「公聴会時論文」で判断されたとあるが、その公聴会時論文にも剽窃問題が多く残っていたと調査委員会自身が認めている。それならば「誤って下書きを提出した過失」は、剽窃自体が過失で起こったことを意味するものでは全くない。「過失」であるとの論理は完全に破たんしている。
さらに筆者が驚愕したのは、盗用の多くが他者の著作権侵害にはあたらないから、不正であっても、博士号取り消しの必要はないとした点である。学問・研究における剽窃やデータの改ざん・捏造は絶対に許されない不正であることは、世界のルールである。これは基本的に学問・研究における倫理および規範の問題であり、著作権の問題では全くない。学術論文の文章の引用は著作権者の許可を得ずに行うことが出来ること事からも明らかである。
米国では大学院生の論文における剽窃は退学処分の対象になり、学部学生の期末論文ですら、単位がF(失格)になるだけでなく、奉仕活動の義務を負わされたりする。繰り返せば学部学生でも退学処分も十分ありうる。
なぜ剽窃にそれほどまでに厳しいのか? それは、学問を学ぶということについて、人の表現を盗むという行為の禁止が、自由で公平な競争を通じた学業達成の促進という目標と不可分と考えられているからである。つまり、剽窃が盗用された人の権利を侵害するからではなく、剽窃は他の研究不正同様、インチキをした人が得をし、正直者が損をし、それにより人々の業績が適正に評価されない社会をつくるという外部不経済を生み出すからなのだ。
剽窃を許すことにより大学という学びの場がそのような社会的にマイナスな機能を持つことは断じてあってはならないという共有の認識がある。繰り返すが、剽窃の禁止は学問や科学における倫理および規範の問題であり、著作権法違反の問題では全くない。しかし今回の早稲田大学の調査委員会の判断は、「著作権の侵害がなければ剽窃をしてかまわない(罰されることはない)」と内外に宣言したことになる。これが海外に伝えられれば、早稲田大学の学位は今後すべて認めないと、他国が宣言してもそれを不当とはいえないであろう。そして、早稲田にとどまらず日本の大学の学位全体が信用を失う可能性も十分ある。
倫理・規範を軽視してはならない。国際的信用の最大の基盤は倫理・規範の共有である。わが国全体の学問・研究の国際的信用を、たった1つの博士論文の審査基準が、今貶めようとしている。早稲田大学のガバナンスの特殊事情(推測だが、他にも問題博士論文がいくつもあり、処分は問題を大きくするという政治判断)により、わが国の学問・研究全体の信用が下がるという大きな外部不経済が生み出されるのは不当である。したがって、今回の調査委員会の判断基準は断じて認められるべきではない。理研も早稲田大学もわが国を代表する教育・研究機関である。何とか軌道修正して、その尊厳を取り戻して欲しいものである。
(7月22日付の経済産業研究所コラム記事を転載)