2015年6月の文部科学省から全国の国立大学への通知で、「特に教員養成系や人文社会科学系学部・大学院は、組織の廃止や社会的要請の高い分野に転換する」ことを求めたことに対し、日本学術会議をはじめ、多くの学識経験者が反対したのは当然である。日本学術会議の批判は原則論としては当を得たものである。だが一方、筆者は日本の国立大学が今のままでよいとは全く考えないのでその理由を述べたい。
■ 自然科学と人文学・社会科学の連携
日本学術会議は文科省の通知に幾つか主な反対理由を述べているが、第1の理由として「今日、社会が解決を求めているさまざまな課題に応えるために、自然科学と人文・社会科学が連携し、総合的な知を形成する必要がある」ので、人文・社会科学のみを取り出して組織の改廃・転換を要求するのは疑問、としている。全くその通りでこの論自体に異論はない。しかし実際に国立大学はどれほど自然科学と人文・社会科学との連携を今まで実現してきたのか? 一例を挙げよう。社会学者である筆者は1980年代に米国コロンビア大学の公衆衛生大学院助教授であったが医学部や公衆衛生大学院には、特に社会疫学の分野で社会学者や社会心理学者が多数いた。医学部には医療制度史を専門とする歴史学の教授もいた。医療倫理の専門家もいたと記憶する。つまり米国では医療・健康科学と人文学・社会科学の連携は、医療・健康科学に関する学部内の教授陣の専門の多様性という形で1980年代に既に存在していた。
一方、わが国の国立大学医学・健康科学部で、人文学・社会科学系の教員を任命している大学は未だ極めて例外的である。たとえば社会医療保健学という学問領域はできたが、その専門家はほとんど社会科学系学部での任用である。戦後政治学者の丸山真男はわが国の学問が西洋の様に根本で繋がりながら枝分かれする「ササラ」のようではなく、ばらばらに「タコツボ」化していることを指摘したが、その特性は今もなお根強く残っている。確かに学際的な領域は増えた。しかしそれはたとえば「社会情報学部」の新設のように、新たな「タコツボ」を作ることで、先のコロンビア大学の例のように多分野の専門家が同じ学部内にいるというのとは異なる。また筆者は日本の大学で数学を専攻し、米国の大学院で社会学を専攻した。一般に米国の大学院は他分野専攻の大学生を多数入学させるが、日本の大学院では未だそのような例は少ない。教育過程を通じて、自然科学と人文学・社会科学を横断することも日本では難しいのである。この点で学際的連携の理想と現実との間には大きなギャップがあり、未だ強く残る学問のタコツボ化の抜本的改変無くしては、自然科学と社会科学の連携は絵に描いた餅である。
■ グローバル人材の育成
日本学術会議の論点の第2は、「グローバル人材の養成」に関するもので、グローバル人材が「単に国際的競争力を持つ人材というだけでなく、人類の多様な文化歴史を踏まえ、宗教・民族の違いなどの文化的多様性を尊重しつつ、広く世界の人々と交わり貢献できるような人材でなければならない」としている。これも原則論として全く異論はない。問題は実際にわが国の大学がそのような人材を育てているかという点である。表1は、日本を含むアジアの5カ国について本国国内の大学生数、英語習得目的を含む米国大学への留学生総数、米国の大学院への留学生数と、後者の2つの学生数の本国の大学生数との比を示している。
まず②/①の比率をみると、大学生の絶対数が非常に大きい中国とインドに比べ、日本の比率は少し大きいがあまり変わらない。結果として米国への留学生総数に関し、日本は中国やインドより遙かに少ない。これは人口の違いだから避けられない。しかし一方、わが国より大学生数の少ない韓国や台湾と比べると、比率において台湾は日本の3倍以上、韓国は4倍以上で、ともに留学生の絶対数でも日本より多くなっている。この傾向は、専門家を育てる大学院ではさらに顕著で、大学院生数が分子の③/①の比率でみると、日本と比べ中国やインドの比率は2倍以上、韓国は5倍以上、台湾は8倍以上となっている。絶対数でも格段の差が出る。グローバル人材の育成は国内の教育でも不可能ではないが、留学の方が遙かに有効である。それはグローバル人材というのは単に語学力ではなく、文化的多様性の理解が必要であり、それには海外で他国・他民族の人々と交わりながら共に学ぶ経験によって育成されるからである。しかしわが国のその育成度は上記の他のアジアの国々より遙かに劣っている。
わが国の留学率の低さの原因としてよく言われることが、日本の若者の「内向き志向」である。しかし筆者はその理解は一面的であると思う。米国にいると、たとえば日本からの留学生と韓国からの留学生の意識の大きな違いに気づく。筆者が所属する(した)米国の有名大学で出会った韓国人大学院留学生たちはみな、自分たちが努力してPh.D.(博士号)やMBA(経営修士号)などを取れば、韓国内の一流大学の同等の学位取得者以上に大学や企業への就職のチャンスが大きくなると感じていた。それに対し日本人大学院留学生は、企業派遣の場合を除き、みな一様に米国に来たことによって日本で就職するチャンスは小さくなったと考えているのだ。ちなみに韓国や台湾の大学の社会科学系の教員には、一流大学であるほど、英米の大学の博士号を取得しないと採用されるチャンスが低くなる。その結果、学問自体がグローバル化し、社会科学の国際基準で考える学者が国内学会をリードする形が生まれている。一方、日本の社会科学では、経済学を唯一の例外として、海外の博士号取得が国内の大学教員採用市場ではむしろ不利となり、そのことが一方で学生が留学するインセンティブを奪い、他方でわが国社会科学の国際化を阻んでいる。教員補充について形の上の公募は増えてはいるが、実態は国内の学閥基準や国内推薦での教員採用が多数である。特に国立大学は古い雇用慣行から抜けられない日本企業以上に古い体質だといわれている。
企業もまた、英語を重視するといっても秋田国際教養大学の様に国内で英語を用いて教育をする大学の卒業生は歓迎するが、米国大学の卒業生は歓迎しない企業も多い。彼らが単に英語環境でなく、多文化環境で教育を受け、それが日本の企業風土と合わないというのである。理想の外国人は相撲の白鵬関だという意見をビジネスリーダーから聞いたことがある。日本の文化・慣習に溶け込んで活躍していると。大学も企業も相変わらずの同質集団志向なのだ。だが、それは真のグローバル化とは正反対のことである。繰り返しになるが、単に多言語能力があるかではなく、多文化環境で実力を発揮出来る人間こそグローバル人材である。だが日本の国立大学は自らの教員の再生産において、そのような人材が生まれる環境をいまだ実現していない。リスクを取って海外で学位を取得する学生が、異質な文化をあわせて学習し、その一部を摂取する結果、かえって社会的チャンスを失うなどという日本の大学や企業の同質集団志向のあり方は、若者から世界に飛び出す夢も勇気も奪っている。
さらに特筆すべきは、日本と上記のアジア諸国の情報ギャップである。米国の有名私立大学では、大学院の博士課程の学生には国籍によらず授業料免除、かつ生活費支給をすることが多い。学生の財政状況によらず世界から優秀な学生を集めようとするからだ。ちなみにシカゴ大学の社会科学部の博士課程の大学院生は、原則全員授業料免除で年間250-300万円ほどの生活費を5年間支給される。むろん入学は競合的で難しいが、入学できれば個人の財政的負担はほとんど無い。他の有名私立大学の博士課程も類似の状況である。日本以外の上記のアジアからの博士課程留学生の多くは、この事実を知って応募してくる。しかし日本の大学ではこの重要な事実を把握していないようで、米国私立大学留学は経費が非常にかかるという、学部留学や経営大学院留学などの場合の情報のみが知れわたっている。こういった情報ギャップも日本の大学院留学の低迷の一因であり、改善されるべきだ。
■ 実学かリベラルアーツか
筆者も、文部科学省案の人文学・社会科学系の廃止や転換には大反対である。学問の領域の多様性を残したままで、学際的繋がりや、グローバル化を図るべきと思うからだ。また近視眼的な特定の職に役立つ実学重視にも反対である。それは専門大学院や専修学校のすることである。確かに達成能力(capability)を伸ばす汎用性のある実学は必要だ。たとえば外国語、コンピュータ科学入門、応用統計入門などである。米国大学でも、それらを学科によらず必修とする大学も多い。しかし、大学はまず何より若者を、より自由にする学問、より深く考える力をつける学問、つまり現代社会におけるリベラルアーツ教育を与えるべきである。一口に「考える力」といっても大きく分けて3種類がある。1) 一定の法則やメカニズムを仮定して演繹的に論理で問題に解答を与える力、2) 観察と分析を通じて帰納的に規則性を発見し、かつその適正な理解や解釈ができる力、3) 人の創造した表象(言語、概念、アートなど)で表現された包括的な意味情報から、人間性や文化を多面的に理解および表現出来る力、である。今、学問領域を
数学―自然科学―生命科学―社会科学―人文学・芸術
と一次元の軸で並べると、左の領域に行くほど1) の力が育成され、右に行くほど3) の力が育成され、2) は中の3領域で育成されることがわかる。すなわち人文学・社会科学系を廃止することは3) の力である人間性や文化の理解力はいらない、また2) の観察・分析力についても社会を観察・分析する力はいらない、ということを国立大学の方針にすることである。これでは、理屈は上手でも人間の理解も社会の理解も自分の限られた経験のみからしか判断できない人間が育ってしまう。グローバルどころか、国内でも自分とよく似た人間しか理解や共感ができない偏った人間だ。だが、それこそ本人は意識していないが自由ではないのである。自分の小さな殻に閉じ込められているからである。人はみな、自分の肉体を含めて、自分の殻から逃れることは出来ない。だがその殻を大きくすることはできる。学習を通じて、それまで目に入っていながら見えていなかったものが見えるようになり、たとえば外国語や数式や社会・経済の用語の意味が分かるようになるように、それまで意味をなさなかったことの意味が分かるようになる。そして、それらは多くの多様な他者とも共有できるので、自分と他者を繋ぐ世界が大きく広がる。それが自由になるということで、リベラルアーツとはそのための教育なのである。一方、汎用性のない特定の職業にのみ役立つ知識の教育は、人を役立つ道具にすることである。それは意味のないことではないが、大学は人の世界を、可能性を、広げる場所であって、人を、いずれ近い将来AI機器により代替されてしまうような、モノにする場所ではない。
(2015年9月10日経済産業研究所コラム記事より転載)