大阪市の姉妹都市関係解消記事への反応から国際関係について考えたこと―「ネトウヨ」の論理と心理について

ヘイトスピーチが実に多く、ネット言論の劣悪さを自ら体験することになった。

筆者の前記事「大阪市の決定の反国際性―サンフランシスコ市との姉妹関係解消の意味について」にフェイスブックでの「いいね」の反応も大変多かったようだが、いわゆる「ネトウヨ」の反発も多く、筆者は「反日」「左翼」「売国奴」「パヨク(馬鹿な左翼という意味の侮蔑語)」「アメリカのスパイ」などといいようにののしられた。ヘイトスピーチが実に多く、ネット言論の劣悪さを自ら体験することになった。また筆者の意見にツイートで賛意を示して同様な被害を被った方々もおられるようで、その点は大変申し訳なく思っている。

今回の記事の目的は①前回の記事の意図の追加説明と②「ネトウヨ」の論理と心理についてである。これらは、前回の記事に対するウェブへの反応に対しての、筆者が考えたことを多くの読者と共有したいという意図である。長文になるが、読んでいただければ幸いである。

1.前回の記事への追加説明

前回の記事の目的は①なぜ大阪市―サンフランシスコ市の姉妹都市関係の解消が日本にとって国際関係上極めて望ましくないものであったのか、という点と、②なぜ、大阪市の抗議は不適切であるとサンフランシスコ市も筆者も考えたのか、を説明しようというものであった。

1.大阪市―サンフランシスコ市の姉妹都市関係の解消のコストについて

一般に国際間の広義での友好関係は、日米安保条約のような国と国の関係だけでなく、自治体と自治体、企業と企業、大学と大学、文化やスポーツなどの団体と団体、そして個人と個人の間に作られる。それらを通じて国民と国民の間に信頼関係が直接的および間接的に生まれるのである。そういった信頼関係の有無は、何か国際関係にひびが入ったときに、それを乗り越えられるか否かを大きく左右する。したがって、組織間などの国際関係は、多いに越したことはない。もちろん、自治体の姉妹都市関係や大学間の国際的交流協定などの中には、実質的に形骸化して機能しないものもある。しかし形が残っていれば、将来双方にその友好関係を生かそうとする人材が出れば有益なものに活性化もできるのである。だから、60年もの伝統のある大阪市―サンフランシスコ市間の姉妹都市関係の解消は、サンフランシスコ市の魅力を考えると、大阪市だけでなく、日本にとってもマイナスではないかというのが一つの理由である。

第二の理由は大阪市の関係解消の理由が米国で日本に対する大きな負のイメージを与えたことである。サンフランシスコの市民だけでなく、特に知日派・親日派の米国人に対してである。今仮に日本人に「あなたは個人的に信頼関係のあるアメリカ人が何人いますか?」、米国人に「あなたは個人的に信頼関係のある日本人が何人いますか?」と聞いたとしよう。単に個人的に知っているというのではなく、お互いに相手を信頼できると考えている人間関係である。容易に想像できるだろうが、大多数の答えは0である。一方ごく少数の、そのような関係を多数持つ人たちがいて、その中には例えば日本人の米国研究者や、米国人の日本研究者が含まれる。それらの少数の人たちの個人間の国際的信頼関係は、国と国との安全保障同盟などとは別に、二国間の安定的友好関係に重要な役割を果たす。

2015年に187人の米国の日本研究にたずさわる社会科学者(政治学者、歴史学者が多い)が、慰安婦問題に関し声明を発表した。筆者はその187人の一人ではないが内容には強く同意している。原文はウェブでも読めるが、非常に公平に書かれている。不確実なことは何一つ決め付けておらず、また慰安婦問題は日本だけでなく、韓国でも中国でも、ナショナリストたちによってゆがめられて来たとし、特定の国の「主流意見」を擁護する姿勢は皆無である。しかし、旧日本軍の慰安婦制度が、「犠牲者の数が何万人であれ、何十万人であれ」女性への重大な人権侵害を生んだ「非人道的な」制度であったことは間違いがないとしている。また安倍首相が米国議会において「日本は人権を守るという普遍的な価値を尊び、日本がかって他の国々を苦しめたことに向き合う」と声明したことに強い賛同の意を示し、これらの言葉を大胆に実現することを希望するとしている。

これらの187人は(少数の日本人で米国で教える学者を除き)大多数は米国人の親日派、知日派で、上記でいう日本人との信頼関係の多い人たちである。また同時に彼らは、日本のことを良く知らない政府要人やジャーナリストなどに米国で日本について意見を求められる存在でもある。国際的な信頼関係には、直接的なものと、間接的なものがあり、彼らの意見は日米の架け橋として、単に187人という人数では計り知れない重みを持つ。今回の大阪市―サンフランシスコ市の姉妹関係の解消と、日本政府が大阪市の抗議を支持し、関係解消にも異議を唱えなかったという事実により、彼らが自分たちの誠意ある進言が日本に完全に無視されたと大きな失望を感じたことは間違いない。これが将来日米関係にマイナスにならないとは、筆者にはとうてい思えないのでこのことを警告したのである。

2.なぜ、大阪市の抗議は不適切であると考えたのか

再論であるが、筆者はつの点を指摘した。①サンフランシスコ市の慰安婦像設立は、当市の事業問題であり、大阪市が異議を唱える問題ではないこと、②当事業は歴史における人権問題であり慰安婦制度問題について、同様なことが繰り返されないことを祈る記念碑で日本を批判するものでは全くなく、大阪市が日本への批判ととるのは見当違いなこと。③碑文の内容に疑義があるという批判で(碑文の中身をこのように書き換えるべきではないのかという提案なら別だが)、慰安婦像設立自体に反対するのは、部分に疑義があるから全体を否定することで、それは論理的におかしいこと。

③について説明を付け加えよう。通常何かが「無い」と証明するのは「悪魔の証明問題」といわれる。「ある」ことの証明は一例で済むが、調べた多数のケースについて「無い」ことは「無い」ことを証明しないからである。慰安婦像設立への正当な抗議は、「慰安婦たちへの重大な人権侵害は無かった」ということを証明しなければならないが、これは悪魔の証明問題ではない。なぜなら既に重大な人権侵害があったとみなされる例が多数報告されているからである。それに対し、吉田清治の捏造や他の一部に事実誤認がある、という主張では「ある」という結論を否定できないのである。報告されているケースについて論理的にはすべて、そして現実的には大多数が、事実ではないと証明できない限り、重大な人権侵害があったことは否定できず、従って①②の条件の下での慰安婦像自体の設立反対は正当と思われないというのが③の理由である。

なお今回のサンフランシスコ市の決定へ筆者の発言を、韓国におけるものと全く同一視した批判が多かったのは遺憾である。筆者は韓国のことについていったのではない。筆者は韓国に関しては日本大使館・領事館前やバスなどの公共交通機関での慰安婦像の設置は、人権を訴える目的から逸脱した日本への嫌がらせであり、日本の抗議は当然であると考えている。また朴裕河氏が『帝国の慰安婦』出版に関し部分的であるせよ有罪とされたことは、韓国社会における学問の自由と言論の自由への重大な侵害であると考えている。筆者が河野談話を強く支持していることと、韓国における慰安婦問題の政治利用の評価の問題は別である。

「ネトウヨ」の心理と論理

筆者は、欧米での「左翼」と「右翼」を区別する価値基準からは、自由主義者であり共産主義や社会主義を全く支持しないので「左翼」ではないのだが、慰安婦問題に関連する前記事のような発言をすると、いわゆる「ネトウヨ」の論者から「左翼」というレッテルを必ず張られるので、その理由を聞いてみたことがある。その答えは、共産主義支持か資本主義支持などが「左翼か否か」を区別するのではない、要は「反日」か否かで、「左翼とは『反日』のことである」と、というものであった。つまり彼らの観点から見て「国粋主義的」でなく、国際主義的(外国に対し友好的)なものが「左翼=反日」であるらしい。ここで二つの問いが生まれる。①彼らは何を持って人を「反日」とみなすのか?。②なぜ外国に対し友好的な日本人を「反日」とみなすのか、である。以下この二つの問いに対し、筆者が今まで観察し、考えてきたことについて述べたい。

彼らにとって「反日」とは、後述するかなり一面的な日本への「忠誠心」の基準を満たさないことにあると筆者は思い至るようになったのだが、そのことを説明するにあたり、迂遠なようだが、日本の封建社会の「忠誠心」の基準には実は多様性があったという話から始めたい。封建社会の忠誠心というと有名なのは忠臣蔵の逸話だが、笠谷和比古氏は『武士道と日本型能力主義』(2005年)の中で、赤穂浪士には3っの異なる動機を持つグループがあったという。一つは浅野内匠頭(たくみのかみ)個人に忠誠心を持つ者である。「主君の恨みを晴らしたい」のが動機の者たちだ。第2は武士社会における「けんか両成敗」の原則を破り内匠頭のみ罰せられたのでは「武士の一分が立たない」と考えた者たちで、堀部安兵衛はその一人とされる。第3は浅野家断絶に納得がいかず、「お家再興」が第一目的だが、それが叶わないと知って最初の2つのグループと協働した者たちで、大石内蔵助(くらのすけ)はその一人であったと笠谷氏は分析する。これらを、以下「個人崇拝」「名誉倫理」「『家』集団護持」の動機と呼び忠誠心の3つの規準と呼ぶことにする。筆者は「名誉倫理」派には共鳴するところが多い。武士の名誉倫理について池上英子氏の『名誉と順応―サムライ精神の歴史社会学』(2000年)が詳しい。

さて「ネトウヨ」の論理と心理であるが。まず「超国家主義」とも呼ばれた戦前右翼の思想との比較を上記の「忠誠心の三基準」を用いて試みてみよう。「個人崇拝」「名誉倫理」「『家』集団護持」の3基準のうち、戦前の右翼思想に「個人崇拝」と「『家』集団護持」は確実に存在した。天皇個人への忠誠心と、戦前の天皇制という「国体」護持の考えである。では名誉倫理はというと、背景にある日本神道には武士道に相当するような名誉倫理はなかった。だから教育勅語による社会の秩序を重んじて和を尊び、国の危機には一命を投げ出すのが国民の義務という点が代わりに強調されたのである。最後の思想が戦争状況の悪化の下で劣化し、人命・人権軽視の様々な行動に結びついたことは前記事で述べた。筆者は、戦前の右翼思想に武士道に代わる自律的倫理が存在しなかったことが、戦争状況悪化に中で多くの日本兵士の精神の劣化を生んだ一因ではないかと推測している。

では「ネトウヨ」の場合は戦前の右翼と同じかというと筆者の観察では全く異なる。まず天皇への個人崇拝がない。筆者は今年九月の天皇・皇后両陛下の高麗(こま)神社(古代の朝鮮からの帰化人を祭っている埼玉にある神社である)への参拝に対し「天皇皇后は反日左翼」と非難する「ネトウヨ」の主張がウェブに現れ驚愕した。筆者の世代の多くから考えたら恐れ多き行為である。ましてや皇太子殿下・妃殿下の時代から被災者や身体障害者など痛みや困難を経験する国民に寄り添って励まし、常に国民と歩む姿勢を貫くことで、欧州の王制度とは異なる、国民主権の下での象徴天皇制の意味を明らかにした、大多数の国民が自然に敬愛する両陛下ではないか。古の帰化人を含む朝鮮に対する排外主義がこのような皇室への最低限の礼を守ることよりも優先することが起こるのが「ネトウヨ」の世界なのである。

では「ネトウヨ」に「『家』集団護持」に相当する忠誠心の基準はあるか? 筆者の印象だが、彼らの多く、特に若者、が守ろうとするものは「日本国」でも、ましてや戦前の「国体」でもなく、実は「日本における自分の場」であるように思える。理由は後述する。

では名誉倫理はどうか。先に筆者は「ネトウヨ」には一面的な忠誠心の基準のようなものがあると述べた。その基準としてウェブに多く登場するのは「英霊」(戦死者)である。国のために命を捨てた人々だから最も忠誠心が高いと。そして中国と韓国を最も「反日」とみなす理由は前者が南京虐殺問題、後者が慰安婦制度問題を持ちだして「英霊を侮辱する」からであるという考えが見られる。当然筆者もその基準で一刀両断され「反日」のラベルを貼られたのだ。

余談になるが、筆者は以前にも慰安婦問題について別の媒体で意見を述べたとき、「左翼」だけでなく「反日」とののしられたことには大変不快感を持った。在米期間は人生の半分以上と長いが日本国籍を維持し、自分の専門家人生の幾分かを、日本社会で人々がより自由に生き生きと生きられるために自分が専門家として何ができるかを考え努力し、それなりに貢献できたという自負があるからである。だが上記の天皇・皇后両陛下への「ネトウヨ」への反応を見たとき、不快感を持った自分を恥じた。皇室が国民のために何ができるのかを、それこそ一生誠実にお考え続けられ実行されてこられた両陛下に対し、高麗神社参拝の一事を持って「反日左翼」とののしる者たちである。何様のつもりかというより、単なる愚か者たちである。彼らの何百、何千に何を言われようと、気にするだけ自分が馬鹿だと思い知ったのである。

だが筆者に当初不思議に思ったのは「ネトウヨ」には若者が多く、筆者の世代より「英霊」には実感に乏しいはずのことである。「英霊」はむしろ政治家の靖国参拝に対し中国などからの批判があることで、逆に「祭り上げられた」可能性も高い。だから「ネトウヨ」の「思想」の特徴は欧米の「右翼」の特徴の一つでもある排外主義であると考えられる。フランスの極右政党の女性党首のル・ペン氏も排外主義であるとともに、自国のリベラルな歴史教育を「自虐的」と呼ぶ点で「ネトウヨ」と共通している。

以上の分析からは三つの忠誠心の基準のうち「ネトウヨ」に見られるのか「名誉倫理」に代わる「自分は『日本のために命を捨てた英霊』の味方で、それを汚すものは、外国人はもとより日本人でも許さない」という考えのみであると筆者は思う。だがこれは自律的倫理基準ではない。

ただ雨宮処凛氏の「右翼経験」の自伝的説明などを読むと「ネトウヨ」の若者には他に個人的な心理的理由があると思われる。それは現代日本においてよりどころを失った多くの若者の不安と孤立、およびその心の隙間を埋める「ネトウヨ」仲間でいることの安心である。

関連する重要な社会学理論に筆者の学問上の友人でもあるオックスフォード大学教授でイタリアのシシリー島のマフィアの研究の専門家であるディエゴ・ガンベッタ氏の理論がある。彼の研究(The Sicilian Mafia. The Business of Private Protection、1993年)によると、マフィアは組織への忠誠心を第一に考えるが、仲間内の信頼度の高いマフィアの組織は、組織の人間が外部の人間と交流することを肯定的に考えるという。外部との交流は情報や人的関係資本でなどマフィアに恩恵をもたらすからだという。一方仲間内の信頼度の低いマフィアの組織は、組織の人間の外部の人間との交流を否定的に考え、特に「敵」とみなす外部への不必要な攻撃的行動を頻繁に行うという。内部で仲間の忠誠心への信頼度が低いとき、「裏切り者」と思われないことが最重要となり、疑われやすい外部との交流を非難することで自分の保身を図り、さらには組織への忠誠を示す忠誠心競争のために「敵」を攻撃するのであると。

その理論から類推すると、ここからは筆者の憶測だが、「ネトウヨ」の若者の多くは日本が大好きだが、その日本社会に拠り所となる自分の場がなく、それは自分が日本人として十分に信頼されていないからであると感じ、信頼獲得のために忠誠心競争をするのではないだろうか。そして「英霊」は彼らにとって日本への忠誠心の最も疑われない人々と信じ、戦前の右翼が天皇との心理的距離によって日本への忠誠心を示そうとしていたのに対し、「ネトウヨ」は「英霊」との心理的距離により、日本への忠誠心を示そうとしてるように思われる。

最初の問いの答えに戻りたい。①彼らは何を持って人を「反日」とみなすのか? 答えは中国と韓国やこれらの国に友好的と彼らがみなす人々である。その理由は中国は南京虐殺事件や、韓国は慰安婦制度問題で旧日本軍の非を主張するからである。最近は米国も同じ主張をしているとみなし、新米的な人間も「反日」とみなすようだ。②なぜ歴史問題への態度だけでなく、より一般に外国に対し友好的な日本人を、「反日」とみなすのか。これは上記のガンベッタ理論からの推測だが、内部(日本)の人間の日本への忠誠心に疑いを持ち、自分も疑われるのではないかと恐れて忠誠心競争に走ると、外部と友好的な者を「反日=裏切り者」といって批判することが一方で保身となり、他方で「ネトウヨ」内で仲間であるとの認証ともなる、というのが筆者の答えである。だから「ネトウヨ」が守ろうとしているのは「日本国」ではなく「日本における自分の場」である、と。まただから安易に人を「スパイ」などと呼ぶのであろう。だがこれは仮説であり今後の実証が必要だろう。

以上が筆者の記事への反応について筆者が考えたことである。「ネトウヨ」の若者たちに典型的に見られるように、人の考えに対し内容や論理は無視し、排外主義的な特定の結果の基準のみによって「反日か否か」と判断し、「反日」を攻撃する姿勢と行動が広く社会に浸透し社会的圧力となってきていることを、筆者はこれからの日本の国際関係上大変に危惧する。

対策として、政治が排外主義的ナショナリズムを強く否定することに加え、迂遠なようだが、日本の政治が高齢者より若者をサポートする方向に大きく舵を切るべきだと筆者は考えている。実はOECD諸国の中で、日本のみが社会保障・福祉による所得再配分によって、経済的不平等がかえって増すという異常事態になっている。多くの欧米諸国は所得再配分後の不平等が減るのと正反対である。これは日本の場合、比較的貧しい若年齢世代の所得税を、比較的裕福な高齢者福祉へ振り向けることになるからである。これは是正すべきであり、高齢者には酷なようだが、比較的裕福な高齢者層の福祉を大幅に受益者負担とし、その分、子供、若者、育児世帯への投資やサポートに振り向けるべきである。またそれにより、多くの若者が明るい未来の展望を持て、その結果排外主義にともなう心理的な自己肯定に走らずとも日本に自分の場があると感じ、国内や世界の多様な人々の中で、信頼関係を培いながら生きることができるようになる日本社会になることを願ってやまない。

筆者追記(12月6日)

前回の記事とは異なり、今回の記事にはネット言論で建設的批判もありましたので、その主な3つにお答えします。

(1):「ネトウヨ」という表現はそれ自体ラベル貼りであり差別ではないのか。

個人を特定して「ネトウヨ」と決め付けたら確かに差別になります。ただ筆者の記事は個人を特定したものではなく、筆者の最初の記事に「ヘイトスピーチ」と思われる発言をした人々や同様の反応をする人々の総称です。ネット右翼というのが正式な呼称でしょうが、通称という言う意味で常にかぎ括弧にいれて言及しました。前記事でもいいましたが、慰安婦制度であれ「ネトウヨ」の分析であれ、筆者の論は日本や特定の個人を非難するものでは全く無いのに、常に日本や自分が非難されたと受け取る人々が多数いることが、物事の理性的な議論を難しくしていると思います。ただ「ネトウヨ」の呼称を差別と受け取る人々がいるようなので、今回を限りにこの通称は用いないことを約束します。

(2)批判2:「ネトウヨ」は必ずしも若者とはいえないのではないか。

その通りです。分布としては40歳代に大きな山があり、もう一つ18-24歳にもう一つのより小さな分布の山があるといるという分析を読んだことがあります。今回の筆者へのヘイトスピーチにも明らかに若者と思われる人たちがかなり含まれていました。ですから、18-24歳前後の人たちを念頭に置いた論で、年齢を超えた一般化はできません。

(3)批判3:「『ネトウヨ』の論理と心理」の分析は、学術的とはいえないのではないか。

このご批判もその通りです。筆者の今回の論は限られた事例観察からの仮説であり推測に過ぎません。記事でも実際にそう断っていると思います。仮説・推測だけでは学術的とは全くいえず、ネット言論である「ハフポスト」だからできた「評論」です。ですから記事は「『ネトウヨ』の論理と心理」の実証分析では全くなく、笠谷和比古氏の忠誠心の多面性の理論や、ディエゴ・ガンベッタ氏の組織への内部信頼と外部への社会行動との関係に関する理論などの情報を提供し、社会学者の分析視角の一端を紹介する意図がありました。読者から指摘を受けたように、エーリッヒ・フロムの『自由からのに逃走』理論にも言及すべきであったかもしれません。ただ限られた紙面でのファシズムとの比較はそれこそ「ラベル貼り」になりかねないので控えました。またほとんど人に知られていない重要理論の紹介のほうが情報価値が大きいと考えたのも理由です。記事のもう一つの目的は、現代日本で若者が置かれている状況への懸念をあわせて表明したかったことです。

未だ他にもあるかもしれませんが、以上の建設的批判には感謝します。

山口一男

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