ジョージ・オーウェルが1949年に出版したディストピア(反ユートピア)小説『1984年』が、70年近くたって、アマゾンでベストセラー1位を占める――。
このニュースは、トランプ新政権が発足した米国の現状を物語るエピソードとして、象徴的だ。
全体主義国家の代名詞「ビッグブラザー」、その思想を強制するための新たな言語「ニュースピーク」、矛盾する事実の両方を信じるという思考法「二重思考」―。
トランプ新政権の大統領顧問、ケリーアン・コンウェイ氏が言う"オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)"という思考法にぴったり符合する。
それだけではない。
一時はアマゾンのベスト10のうち、2つが『1984年』、さらに、徹底した統制社会の未来を描くオルダス・ハクスリーの1932年の『すばらしい新世界』、ヒトラー的な米国新大統領が登場するシンクレア・ルイスの1935年の『ありえないアメリカ(It Can't Happen Here)』と、ディストピア小説が4つを占める事態となった。
「今、2017年、恐怖はここにある」
アマゾンの人気レビューアーが述べるように、ディストピアのリアリティが、今ほど感じられることはないのかもしれない。
●大統領就任式の聴衆の数
"オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)"という言葉が注目を集めたのは、新政権発足から2日後の22日朝、NBCで放送された報道番組「ミート・ザ・プレス」での、キャスター、チャック・トッド氏による、トランプ新政権の大統領顧問、ケリーアン・コンウェイ氏へのインタビューでのやりとりだ。
トッド:質問に答えてください。大統領は、(ショーン・スパイサー)報道官を、就任後初めての会見室の演壇に立たせて、ウソを言わせたのはなぜか、ということです。なぜそんなことをしたのか? ホワイトハウス報道官室全体の信頼を損なう行為ですよ。
"報道官のウソ"はその前日、21日にスパイサー氏が新政権発足後、初めてホワイトハウスの会見室に姿を見せ、一方的に報道を批判し、質問も受け付けずに退出した件を指している。
批判のポイントは、20日の大統領就任式の聴衆の数だ。
ロイターは今回就任式と8年前のオバマ前大統領の初就任式の、いずれも正午すぎに撮影された、ワシントン記念塔から米連邦議会議事堂にいたる約2キロのナショナルモールの写真を並べて掲載。
180万人が集まり、モールを人波が埋め尽くした8年前と比べ、今回は半分以下ほどに見える聴衆の少なさが、メディアの話題となっていた。
これに対してトランプ氏は、「150万人はいた」と反論。
この反論を後押しするかのように「メディアは意図的に虚偽の報道をしている」との批判で始まった、スパイサー氏の一方的な"会見"だった。
スパイサー氏は、この会見で:
①今回の就任式ではモールの花壇の保護のため、初めて白いカバーを設置。その色のコントラストで人がいないエリアが強調された
②就任式の会場となった連邦議会議事堂から4thストリートまでで25万人、そこからメディアテントまでで22万人、さらにワシントン記念塔までで25万人いた
③就任式当日、公共交通機関「ワシントンメトロ」の地下鉄・バスを使ったのは42万人で、オバマ氏の2013年の就任式31万7000人を上回った
④今回初めて、フェンスや金属探知機を設置したため、ナショナルモールにすみやかに入れず、数万人に影響が出た
と指摘。
そしてこれらを根拠に、「この就任式の聴衆はこれまでで最大のものだった」と述べていた。
だが、ワシントン・ポストなどのファクトチェックによると:
①花壇のカバーは2013年のオバマ氏就任式から設置されている
②聴衆はワシントン記念塔の手前で途切れていた
③「ワシントンメトロ」の利用者数は前回2013年は78万3000人とスパイサー氏の数字の倍以上で、今回は57万1000人
④金属探知機は以前から使われていたが、今回は使っていない
ことが明らかになっている。
つまり、スパイサー氏がわざわざ説明に立った「この就任式の聴衆はこれまでで最大のものだった」との主張は、まったく根拠がない、とメディアに指摘されていたのだ。
ワシントンのベテランジャーナリスト、ウォルター・シャピロさんは、スパイサー報道官の強弁の舞台裏について、ツイッターでこんな解説をしている。
ホワイトハウスの伝統:大統領が首席補佐官を怒鳴りつける。首席補佐官は報道官を怒鳴りつける。報道官はプレスを怒鳴りつける。
●"オルタナティブ・ファクト"とは
「大統領は報道官になぜウソを言わせたのか?」
「ミート・ザ・プレス」のキャスター、トッド氏の問いかけに対して、大統領顧問のコンウェイ氏はこう答えた。
コンウェイ:そんな仰々しいことを言わないで、チャック。ウソというけれど、私たちの報道官、ショーン・スパイサーは、それについてのオルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)を伝えたんです。ただ、問題は...
トッド:ちょっと待って、オルタナティブ・ファクトだって? 彼が口にした5つの事柄のうち、4つは事実ではなかった。オルタナティブ・ファクトなど、事実じゃない。それはウソというんだ。
スパイサー報道官が取り上げた、"オルタナティブ・ファクト"ではなかった残る1つとは、タイムの記者が、「大統領執務室からキング牧師の胸像が撤去された」と事実誤認のツイートをしたことを指す。
タイムの記者は、訂正の上、謝罪している。
すぐに明らかになってしまう4つの誤った情報を根拠に、「就任式の聴衆は史上最大だった」という。
誰の目にも明らかな間違った主張を繰り返す。そしてそれは、ウソではなく、"もう一つの事実"だと言う。
この"オルタナティブ・ファクト"は、早速、ハッシュタグとして、あっという間にネットに拡散した。
●"ファクト"とは―ウェブスター辞典
"オルタナティブ・ファクト"騒動を受け、言葉の定義には厳密な、ウェブスター辞典のツイッターアカウントが、早速反応した。
ファクト(事実)とは、客観的なリアリティをもって提示される情報のこと。
そして、リンク先のウェブスターのブログでは、コンウェイ氏の"オルタナティブ・ファクト"発言を機に、"ファクト"の検索がウェブスター辞典で急増した、と述べている。
そして、ファクトの定義が不安になるほどの状況に、誰もが思い浮かべたのが、オーウェルの『1984年』だった。
●「オーウェルの世界だ」
ワシントン・ポストのコラムニスト、マーガレット・サリバンさんは、"オルタナティブ・ファクト"発言があった22日、自身のコラムでこう述べている。
私たちは完全にオーウェルの世界にやってきた。
また、この日の昼に放送されたCNNの番組「リライアブル・ソース」でも、コメンテーターがオーウェルの名前を挙げている。
これを受けて、週明け23日には『1984年』は米国のアマゾンで6位に浮上。さらに24日には1位となり、この順位は週末まで続いた。
このため版元の一つ、ペンギンはまず7万5000部を増刷、さらに25日には追加で10万部の増刷をかけた、という。
ペンギン広報担当者のCNNへの説明によると、『1984年』は学校の課題図書となっているため、例年春にむけて販売部数は上がるようだが、今回の伸びはそれとは比較にならないようだ。
そして、販売部数の急増は、2013年のスノーデン事件以来だという。
『1984年』はペンギン版に加えて、ブロートリー・プレス版のペーパーバックもトップ10入り。25日には、ディストピア小説の古典であるオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932年)、レア・ルイスの『ありえないアメリカ(It Can't Happen Here)』(1935年)が合わせてベスト10入りする、という事態になった。
●『1984年』のニュースピークと二重思考
「ビッグブラザーがあなたを見ている」
オーウェルの代表作であるディストピア小説『1984年』では、そんなスローガンが街中を覆う。
それを象徴するのが、「ニュースピーク」と「二重思考(ダブルシンク)」だ。
ニュースピークはオセアニアの公用語であり、イングソック(イギリス社会主義)の思想を広めるためにつくり出されたものだ。
(中略)
ニュースピークは、イングソックの信奉者にふさわしい世界観と思考習慣の表現手段だけでなく、他のすべての思考方法を不可能にするためのものだった。
「二重思考(ダブルシンク)」は、より"オルタナティブ・ファクト"を想起させる。
「戦争は平和/自由は隷属/無知は力」。主人公ウィンストンの職場である真理省には、そんなスローガンが掲げられる。
彼の意識は迷宮のような二重思考の世界に滑り落ちていく。
知るべきことと知るべきでないこと、真実を完全にわかっていながら入念につくりあげたウソをつくこと、相反する二つの意見を同時に持つこと、それらが矛盾することはわかっていながら両方とも信じること、論理に反する論理を使うこと、道徳を主張しながらそれを否定すること、民主主義は不可能だと信じながら、党を民主主義の守護者だと信じること、忘れるべきことはすべて忘れながら、必要な時には即座に記憶に呼び起こし、すぐにまた忘れ去ること――そして何より、このプロセス自体を、忘却のプロセスに組み込むこと。
これこそ絶妙なバランスの極みだ――意識的に無意識を呼び起こしながら、さらに、今まさに自分が催眠状態になったという行為についても、無意識の状態になること。
「二重思考」という言葉を理解するのにも、二重思考を使うことが必要なのだ。
黒を白と言いつのる「ブラックホワイト」、「2+2=5」など、『1984年』は"オルタナティブ・ファクト"に事欠かない。
プロパガンダに詳しいロンドン大学ゴルドスミス・カレッジ教授のティム・クルック教授は、ガーディアンの記事の中で、こう指摘している。
『1984年』の重要なメッセージは、プロパガンダの目的とは、人間の意識を狭めて制限し、意識を混乱させた上で、思考の幅をコントロールし、狭めていくことにある、という点だ。
●「"党"への備えを」
今日、ケリーアン・コンウェイがこう話していた。我々はオルタナティブ・ファクトを与えられているのだ、と。過去の改竄と、現在の統制の影。『1984年』のような"党"への備えを。
また、人気レビューアーのプリスロブさんも、こう訴える。
今、2017年に、恐怖はここにある。『1984年』は今週、トップ10のベストセラー入りをした。なぜ?ファシズムが私たちに襲いかかっているからだ。私たちの権利は、日に日に削り取られている。
ジョージ・オーウェルはそれを私たちに伝えた。しかし彼が予測した1984年から、33年かかって実現したのだ。読み続けよう、真実の探求者たちよ、私たちには団結が必要だ。
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■デジタルメディア・リテラシーをまとめたダン・ギルモア著の『あなたがメディア ソーシャル新時代の情報術』(拙訳)全文公開中
(2017年1月29日「新聞紙学的」より転載)