「タクシーに乗る幽霊」が話題となっている。
きっかけは1月20日の朝日新聞の記事。東北学院大のゼミ生たちがフィールドワークを重ねて書いた卒論についてのものだ。卒論のテーマは、震災後、宮城のタクシー運転手たちが経験した「幽霊現象」。
記事には、季節外れのコートに身を包んだ若い女性が告げた行き先に運転手が「あそこはほとんど更地ですが構いませんか」と尋ねると「私は死んだんですか」と震える声で答え、振り向くと誰も座っていなかったという話や、やはり夏なのに厚手のコートを着た若い男性を乗せたものの、到着した頃にはその姿が消えていたなどの「不思議な現象」が綴られている。
このような話に対して、「震災・津波の犠牲者に不謹慎な」という声もあるだろう。が、私自身、東北の被災地に通い、ボランティアをしていた人から、似たような話は多く聞いていた。
例えば夜、海の近くの道を、津波などで身内を亡くした人を乗せて車で走っていると、「あっ」と声を上げる場所があるのだという。
「お母さん!」「一郎!」「お爺ちゃん!」。遺族たちは窓の外の一点を見つめてそれぞれ声を上げ、口々に「あそこあそこ、ほらあそこにいる!」「わかるわかる!」などと叫び始める。
が、同乗している「遺族」たちには見えているものの、ボランティアの彼には何も見えない。しかし、みんなに言われるまま車を止めると、一斉に名前を呼びながら車から走り出すのだという。その場所では、何度かそういうことがあったそうだ。
「本当に、彼らにははっきり見えてるんですよ」
そう聞いたのは、3・11から2年も経たない頃だったと思う。その話を聞いた時、私はいわゆる「怖い話」や「幽霊話」とはなぜか微塵も思わず、「そういうこともあるだろうな」と思った。想像を絶する大惨事は、死と生の境界を時に曖昧にする。4年と10カ月前、東北では家族や親しい人を、あまりにも多くの人が失ったのだ。
先のタクシーの記事では、証言した運転手が「幽霊」に恐怖心ではなく「畏敬の念」を持っていることが紹介されている。津波で身内を亡くした運転手の中には、「こんなことがあっても不思議ではない。また乗せるよ」と言った人もいるという。
死者と生者が近い場所。卒論は『呼び覚まされる 霊性の震災学』(新曜社)というタイトルで書籍化されるというので、早速予約したのだった。
さて、こういった「民俗学」に通じるようなテーマに妙に惹かれたのは、最近、ある本を読んだからだ。それは『驚きの介護民俗学』(医学書院)と『介護民俗学へようこそ! 「すまいるほーむ」の物語』(新潮社)。著者はどちらも六車由実さん。
「介護民俗学」というのは、六車さんの造語だ。この言葉が生まれた背景には、彼女の経歴が大きくかかわっている。民俗学を専攻し、大学の准教授として教え、また『神、人を喰う ー人身御供の民俗学』(新曜社)でサントリー学芸賞を受賞するなどしてきた著者だったが、突然大学をやめて介護の世界へ。老人ホームで介護職員として働き始めるのだ。
そうして入った介護の世界は、民俗学者である著者にとって、「宝の山」のような場所だった。何しろ、大学のフィールドワークで訪れる村にはもういない、大正一桁生まれや明治生まれの利用者もいるのだ。「昔」を語る彼ら彼女らの記憶は鮮明で、認知症がある人でも、話をしているうちにどんどん記憶が蘇ってきて、表情豊かになってくる。
そうした彼ら彼女らの話には、これまでの民俗学では取りこぼされてきたテーマや人物、生き方が多く登場する。
例えば「高度経済成長期の漂泊民」。戦後、まだ電気の通っていない村々を移動しながら電気を通していく仕事をしていた昭和10年生まれの利用者。ひとつの村の滞在期間は一週間から10日ほど。20年間、家族ごと移動しながら(子どもはそのたびに転校しながら)仕事を続けてきたのだという。高度経済成長の中、「漂泊の民」のように生きてきた家族が存在していたこと自体、少し前の歴史なのに、おそらくほとんどの人が知らないだろう。
また、大正生まれの男性は、農家の副業として「流しのバイオリン弾き」をしていた時のことを語る。他にも蚕の「鑑別嬢」や電話交換手の仕事をしていた女性たちの話が出たかと思えば、終戦直後の急激な人口増加への対策として、「産児制限」が行われていたことも語られる。産児制限が始まると、産婆さんが月に一回無料でコンドームを各家に配布して、使い方を教えて歩いていたのだそうだ。
著者はそんな話を、まさに「胸躍らせながら」聞き、書きとめる。「聞き書き」だ。そんな聞き書きについて、著者は以下のように書いている。
「介護の現場での聞き書きは、心身機能が低下し常に死を身近に感じている利用者にとって、一時的ではあるが、弱っていく自分を忘れられて職員との関係が逆転する、そんな関係の場なのである」
「聞き書きでは、社会や時代、そしてそこに生きてきた人間の暮らしを知りたいという絶え間ない学問的好奇心と探究心により利用者の語りにストレートに向き合うのである。
そこでは利用者は、聞き手に知らない世界を教えてくれる師となる。日常的な介護の場面では常に介護される側、助けられる側、という受動的で劣位な『される側』にいる利用者が、ここでは話してあげる側、教えてあげる側という能動的で優位な『してあげる側』になる」
そうしてその「聞き書き」は、時に個人の「思い出の記」として冊子にまとめられる。「思い出の記」を作ってもらった男性は、それを孫娘に見せながら、「俺の宝だ」と言って目を赤くしたという。最初のうちは「俺の人生は戦争と農業だ。だから別に話すことはないなぁ」と躊躇していた男性の戦争体験は壮絶で、戦争の話になると、心の奥の記憶の澱を吐き出すように語り続けたという。
介護民俗学の世界を知って、私は改めて「聞くこと」「語ること」の無限の可能性に心が震える思いがした。誰かと言葉を交わすことの重要性。「人は言葉で生きているのだ」ということを、改めて、痛感した。
そしてもうひとつ、民俗学そのものに興味を持った。本書には、狐が人を騙すことについての老夫婦の会話が登場する。昔、舅が狐に騙された話を当たり前のようにしたあと、夫婦は揃って言うのだ。
「昔はそういう狐がいたもんだ。今はいなくなったな」
薄暗い灯りの下で聞いた狐の話は、著者を不思議な幻想世界へ誘ったという。そうして彼女は、以下のように書く。
「民俗学の世界では、昔話の伝承には、語られる内容とともに、語られる場そのものに重みがあるとされている。基本的に昔話は、薄暗い部屋の中で囲炉裏を囲んでいる子どもたちに、その家のおじいさん、おばあさんが語り部となって伝承されてきたものである。人影や物の影が後ろの壁にゆらゆらと映り、囲炉裏の火のぱちぱちという音だけが響く静寂さ、そのなかで、みんなでおじいさん、おばあさんたちの声にひたすら耳を傾ける。
そんな雰囲気の中で昔話が語られてこそ、狐も河童も鬼たちも、この世の闇を跳梁跋扈できたのである。子どもたちは、登場する妖怪たちの姿や息遣いをリアルに感じ、その物語世界を語り部とともに共有していったのだろう」
さて、ここで冒頭の「タクシーに乗る幽霊」の話に戻りたい。
民俗学者の柳田国男は、東北地方に伝わる民話を『遠野物語』にまとめ、それは今も読み継がれている。学生たちのフィールドワークは、どんなふうに受け止められ、そしてどんなふうに語り継がれていくのだろう。学生の論文となり、多くの書籍となり、語り継がれている3・11。いつか私も、そしてこれを読んでいる人たちも全員この世にいなくなる頃、それはどんな歴史として、またどんな物語として語り継がれていくのだろうか。
言葉の力。物語の力。そして物語を必要とする、「生者」としての私たち。
この原稿を書きながら、現在入院中で、ほとんど喋れなくなった祖母のことを思い出した。戦争前、北海道から青函連絡船で上京する友達を見送りに行ったら自分も東京に行きたくなってそのまま船に乗って上京し、戦争が始まったら「危ないから」と東京から北海道に引き戻され、戦後には私の出身地である滝川市の女性の中で「初めてパーマをかけた」という、どうでもいい伝説の持ち主である祖母。
考えてみれば、祖母も物語の宝庫なのだ。近いうちに会いに行こうと、今、思っている。
(2016年1月27日「マガジン9 雨宮処凛がゆく!」より転載)