葬儀で飾られた子安先生の写真
仕事と子育て、しなやかに駆け抜けた・「終活」にシュタイナー学校作りの記録を出版
ドイツ文学者で早稲田大名誉教授の子安美知子さんが7月2日、肺炎のため亡くなった。シュタイナー教育の研究や、「モモ」を書いた作家ミヒャエル・エンデとの交流で知られる。83歳だった。
■ 早大語学研究所で生きた授業
私にとってはずっと「子安先生」。早大の語学研究所で1994年ごろ、先生にドイツ語を教わっていた。当時は子供向けのドイツ語教本を使い、やさしく教えてもらった。「ドイツは、とにかく夏休みが長いの」。ドイツ生活に基づく小話が盛り込まれ、楽しい授業だった。
取材でもお世話になり、最近まで交流があった。先生が最後に入院した6月10日の少し前、電話やメールをいただいた。
先生の著書はたくさんあり、ユーモアあふれる講演や出演したテレビ番組も知られている。私は教え子のジャーナリストとして、個人的なやりとりから先生の素顔を紹介したい。
■ シュタイナー学校の取材に訪問
大学を卒業して新聞社に入った私は、地方で修業を積んだ後、雑誌の編集部へ。語学研究所を退職していた子安先生を訪ね、2003年、国内のシュタイナー学校について記事を書いた。
オーストリア生まれの思想家、ルドルフ・シュタイナーの考えに基づく教育は、独特だ。教科書や評価がない。体を動かす、歌う。絵をかく、手仕事をする。来る日も来る日も算数、というように同じ科目を数週間、毎日続ける。7歳から12年の一貫教育...。
シュタイナーは成長段階を7年ごとにとらえた。7歳ぐらいまでは自然のものに触れて意思や行動力を育てる。7歳から14歳までは、豊かな感情を持つように絵や音楽をたくさん採り入れる。20歳までは思考力がのびて知識も吸収できる。20歳前後で、「他人の評価で測るのでなく、自分の意志で道を選べる自由な人」として自立するのが目標という。
子安先生が家族でドイツに留学中、一人娘の文(フミ)さんはシュタイナー学校に通った。その経験を1975年、「ミュンヘンの小学生」(中公新書)に記し、反響を呼んだ。
私はフミさんに、シュタイナー学校に通った体験がどう生きているか聞いた。フミさんはベーシストになり、娘のナターシャさんは公立の学校に通っていた。「人それぞれ、合った教育を受けられたら」という話が印象的だった。
■ 理想の「まちづくり」に奮闘続ける
国内にもシュタイナー学校はあったが、NPOや個人が運営。無認可の形で不登校とみなされるという課題があった。90年代後半から先生は、シュタイナー学校を含む「あしたの国 モルゲンランド」を千葉に作ろうと奮闘していた。とりわけ「認可を取って学校法人にしたい」と熱く語っていた。
その後、先生から届く年賀状には「あなたの医療の記事を読んでいます」「声援を送っています」と手書きのメッセージがあった。2010年の年賀状で「あしたの国」について、「教育・福祉・農業などの暮らしと仕事の場をつくり、新しいまちを」「すでにシュタイナー学園とこども園が開園」「難航しつつ精一杯進みつつある」と報告されていた。
■「奇跡の生還」、心臓の手術しない決断
昨年、年賀状の返信は5月に届いた。子安先生と、久しぶりのやりとりだった。「心臓の手術を模索したけれど、しばらくは手術しない」との決意と共に、
『投薬・運動療法の日常にふと肯定感が生じ、嫌悪していた副作用に対して、何だ、これしきのこと!と蹴飛ばす力がわいてくることを不思議に思います』
『いつも温かいお労りに、どれほど励まされてきたことでしょう、深い感謝を申しあげます』とあった。
さらに手書きで、「奇跡の生還をして、生存の連絡となりました」などと添えられていた。
■「精一杯、学び、生きて」とメッセージ
今年、子安先生と再会した。
私は昨年、20年余り勤めた新聞社を退職した。この4月、早大大学院に入学した。ジャーナリスト活動をしながらの社会人枠で、44歳、子連れ。心配はあった。
報告したい人に、子安先生が浮かんだ。先生のこれまでの人生や子育てとキャリアについて、直に聞くきっかけにもなると思った。今年2月、子安先生にメールで報告すると、返信があった。
『私も7×12という年女ですが、とても身軽というか気軽というか、ひょいひょい動いています。現実には心臓病という伏兵が体内に潜んでもいるのだけれど、そいつはかなり飼い馴らしてきていて、通常の生活を送っています』
先生の関わった学校「東京シュタイナーシューレ」が、1987年に始まった時からの記録を残すため、本の編集に取り組んでいるという。
『以前のようにガムシャラな仕事もできないので、今はご想像のごとくシューレ誕生30周年に集中しています』
『それが一段落したら、お会いしましょう』
『春の訪れを待ちましょう!』と締めくくられていたので、私は大学院の入学式を終え、近所の桜も咲いた4月初めに再びメールした。
すぐに返信があり、そこには軽やかなメッセージがあった。
『かおりさん 生まれ変わったよろこびが天に放たれていくようなメールを本当にうれしく拝見しました』
『颯爽たる転身です。
子どもさんは成長とともにお母さんの人生を誇りに思い、自身も強い運に恵まれたと思うようになりますよ。
精一杯、学び、生き、これと決めたものは享受してください』
取り組んでいる本の校正が「猶予なきゴール」としながらも、アポイントの可能な日程があがっていた。「用賀」「早大理工学部近く」「夜遅くにかからない限り時間も場所もどこでも」。83歳で、持病もあるというのに、あちこち出歩く元気さに驚いた。
今年4月の子安先生(早大理工学部で) なかのかおり撮影
■ 高齢出産後の転身、背中押された
少しさかのぼると、私は39歳で出産した後、挫折を味わっていた。いわゆる「ワンオペ育児」。心身ともに安心して頼れる人は、ほとんどいない。仕事に復帰したら、保育園児の病気の多さにおののいた。看病で仕事を休みがちになるし、遅くまで勤められない。内勤の職場で評価が低く、取材の一線に戻れずにいた。
いろいろな意見を聞き悩んだ末に、独立して取材・執筆をすると決めた。会社で20年のトレーニングを積み、子育てを経験すると、教える仕事もしたいと考えるようになった。記事を作る上で大事なことや専門分野の取材手法、急速にIT化したメディアの歴史を知る者として。現場の体験を伝えないともったいない。
教育や研究に触れる道を探し、大学院に挑戦した。知人には「会社を辞めたんだから、のんびり子育てしたらいいのに」「自分探しするより、家族といてあげて」と言われた。それもそうだと思う。もちろん、家族あっての仕事や大学院だ。だけど、私にとっては40代の今が、この先の仕事人生に向けて転換する時でもあった。
子安先生に、こうした思いは伝えていなかった。けれど先生からのメールには、軽やかな祝福の言葉があった。わかっている先輩がいる、と背中を押された。「選んだ道は間違っている?」「仕事もあるし、詰め込みすぎかな」と迷いを抱えながらも、進むしかない。
■ 東大に進み、秘書や家庭教師も...人生を聞く
4月半ば。勉強会の帰りだという子安先生と、早大理工学部のカフェで会った。ジャケットの中にはワイン色の服、同じ色の帽子。知的でおしゃれなおばあちゃんだった。杖をついてリュックを背負い、私の娘をはさみ、3人で手をつないで少し歩いた。
娘を家族に預け、先生の生い立ちと仕事のキャリアについて改めて聞いた。私が書いている日経DUALの連載「光を運ぶマザーたち」で、先生の人生を紹介するプランがあった。
1933年、京城(ソウル)生まれ。父は経済学者。戦争が終わり、小学生の時に帰国した。「民主主義、自由、男女同権を与えられて、中学から大学まで謳歌できた」。幼いころに実母を亡くしたものの、学生生活を楽しみ、恵まれた環境だったようだ。
進んだ東京大では学生運動にもどっぷり。小説家やジャーナリストを目指し、ドイツ文学に興味を持った。女性は働き口が見つからず、図書館や秘書の仕事を紹介されたという。その後、大学院に進み、女性の解放運動家・平塚らいてうをテーマに修士論文を書いた。
東大出身で思想史の研究者である宣邦(のぶくに)さんと結婚。「夫婦とも学生で、お金を稼ぐのが大変だった。東大生の家庭教師、ってチラシを作って夜中に張って歩いたの。人気になって、部屋を借りて教室を始めたのよ」と笑っていた。
■ 産後の職場は「解放区」、単身ドイツへも
いくつかの大学で、非常勤講師としてドイツ語を教えた。早大に語学研究所ができるというので声がかかり、65年から専任講師に。フミさんは生まれたばかり。どれだけ大変だったか聞くと、「解放区だったのよ」という。
学閥、性別、国籍を問わない職場。女性が多かった。会議をしていても夕方になると「子供の迎えに行きます」という男性がいたそうだ。夫の実家近くへ引っ越し、身内の助けも借りた。宣邦さんが研究室にフミさんを連れて行く日もあった。
フミさんが2歳の時、子安先生は奨学金を得て単身ドイツへ留学。フミさんを保育ママに泊まりで預けていたと聞いて、その思い切りの良さにびっくり。当時はメールもないし、電話代も高い。日本からの手紙を心待ちにし、成長の様子を知ったという。
夫の宣邦さんも留学することになった。71年、6歳のフミさんを連れて3人でドイツ・ミュンヘンへ。そこでシュタイナー学校に出会った。
■ シュタイナー共同体に「子連れ住み込み」提案
ここまで聞いて、話すのが大変そうになってきたので、「続きは、また伺いたいです」とお願いした。先生は「たびたび会いましょうね」と言った。
ふと平塚らいてうの話になり、「ある雑誌でね、らいてうの言葉が間違って紹介されていたの。投書したんだけれど、訂正されなくて」という。メールのやりとりでも、
『iphoneの番号、書き間違えたらしい』『乞うご訂正!』
とか、出版社の名前が変換ミスだったとか、追伸が来た。正確さを大事にする研究者であり、誠実な先生らしい細かさだと思った。
カフェから地下鉄に向かう途中も、話は尽きなかった。「障害ある人が働いているドイツのシュタイナー共同体に、子連れで住み込んだらどう。2~3か月、働いたら見えてくることがある」との助言があった。先生が取材、出演したシュタイナー番組のビデオを送ってくれるといい、「いろいろあって、すぐは送れないけれど、待っていて」。先生との約束は、そのままになってしまった。
■ 自由になった退職後、ドイツで倒れ病と共存
人生の物語の前に、67歳で退職してからどうしていたか聞いた。「自由になった」という。シュタイナーの勉強会に参加し、カルチャーセンターの講師を務め、頼まれてコラムを書いた。夏はミュンヘンのアパートで過ごした。ドイツへは生涯に70回以上、行った。
2012年、ミュンヘンで呼吸が苦しくなり、救急車で運ばれた。肺血栓塞栓症だった。たまたま、宣邦さんやフミさん、孫のナターシャさんら親族が現地にそろっていた。「こんな病院まで経験できるなんて!」と希望あるとらえ方をしていた。日本で3世代が一緒に住んでいる話にもなり、「フミは再婚したの。新しいパパはナターシャを叱れるし、ナターシャも受け止める。夫も話し相手ができた」と嬉しそうだった。
肺血栓の治療でしばらく滞在し、それまではエコノミークラスに乗っていたが、家族に言われてビジネスクラスで帰国した。心臓弁膜症もあった。「あなたは医療の取材をしているからわかるわよね」と言って、症状や薬のこと、スポーツジムで続けた運動療法のことを、詳しく説明された。
ドイツで出会ったシュタイナー系のドクターを信頼し、「心臓の手術をしない」と決めたそうだ。「私の年齢では全身麻酔が抜け切るのに時間がかかるし、危険もある。ドクターに『肉体だけ残っても、スピリチュアルな仕事は保障できない。あなたが私の母だったら、手術しません』と言われて、やめておこうって」
■「元気に死ぬために充実感を持って生きたい」
少しずつ、心臓が悪くなることはわかっていて、心は決まっているようだった。「やりたいようにわがままに生きてきて今年、84歳になる。周りに反抗したり、恨んだり。娘との葛藤や職場の悩みもあったけれど。夫は、できた人でね。だから現世の欲がない。おいしいものを食べたい、友達とおしゃべりしたい、ってぐらい。元気に死ぬために毎日、充実感を持って生きたい」
死生観の話をしていても、先生のユーモアが炸裂した。「現世で一つ気になるのは、日本の部屋が汚くて。とりかかっている本を出したら、今度こそ片づけたい」とまじめに語っていた。
この時、先生が編集に没頭していた本のチラシを手渡された。「日本のシュタイナー学校が始まった日」(精巧堂出版)。1987年、都営アパートの一室に東京シュタイナーシューレが誕生した。生徒は8人。認可がなく不登校扱いだった。そこから「学校法人シュタイナー学園」になるまで関わった教師や生徒、保護者、支援者の手記を集めたとあった。
出版元は「シュタイナー学校の仲間が経営する印刷屋さん」という。
■ シュタイナーの世界観、カルトに思われる危惧
子安先生は最後に縁をつないでくれた。
私は4月に子安先生に会った後、「ドイツでシュタイナー共同体を訪ね、障害ある人の働く場を調査したい」と相談していた。6月2日に先生から電話がかかってきた。
「シュタイナーの共同体で働いていた人を、私は知っている。でも調査や取材で入るのは厳しいかもしれない。そこで働くならいいと思う。私が90年代にNHKの取材で行ったときも、面接されて試された。フミがシュタイナー学校に通っていた体験を話して、ドイツ語もできるから、部外者ではありませんね、ならどうぞとなったの。通訳もだめで1日目はメモもカメラも持たずに生活を共にした。当時の知人も故人になっていてね」
先生は「ミュンヘンの小学生」で有名になり、シュタイナー学校の設立に奮闘し、講演に引っ張りだこであっても、いつも冷静に観察していたように思う。
出先の電話だったので記録していないが、「なぜ今世で障害を持って生まれたのか、シュタイナーの考えがあって...」との言葉が、心に刺さった。先生は、言葉での理解が難しいシュタイナーの世界観を、「上手に紹介しないとカルトだと思われる」と心配していた。
今、改めて先生の著書「シュタイナー再発見の旅」(小学館)を読んで、この部分については自分なりに理解した。本書によると、シュタイナーは障害ある人のことを「魂の擁護を求める子どもたち」といい、以下のような説明がされている。
『身体が完全さにめぐまれず、心に障害があっても、精神は健康である』
『この人生で高い発展を遂げるべく降りてきた自我のために、障害のある身体と心にむけて、特別手厚い配慮をしよう』
電話で先生が「少しずつ、40年かけて、納得したの」と言った、奥深い思想。その思想に基づく共同体に飛び込むには、私が勉強不足なのはよくわかっていた。
■最後のメール「おもしろい可能性が開けるように」
そうした前置きをした上で、協力者としてドイツ在住の井上百子さんを紹介してくれるという。先生と一緒に「日本のシュタイナー学校が始まった日」を編集した女性だった。
私は、いただいた電話で「もっと先生と話しておかなければ」と焦りを感じた。つたない言い方で訴えた。「ドイツのこと、シュタイナーのこと、生き方も。先生には宝がいっぱいです。それを聞いて、伝えないともったいないです」。先生は、何を言っているのかしらと言う感じで間をおき、「今は、あなたの相談事に応えているのよ」と話をまとめた。
ほどなくして、「井上さんに連絡した」と先生からメールがあった。
『彼女は酉年なので36歳。あなたも、でしたっけ?』
私は「今年、45歳ですよ」と返すと、『ごめんなさい、失礼しました。しかしそれだけ一層、ここで転身を図るのはエラい!』。
その夜に、井上さんのアドレスを紹介するメールが届き、最後のやりとりになった。
『おもしろい可能性が開けるように念じています。子安美知子』
■ 50年後に役立つ記録を残す「真摯な学者」
井上さんが子安先生の葬儀のため帰国した際、話を聞いた。井上さんは東京シュタイナーシューレに通った時期があり、先生と顔を合わせていた。先生がテレビで紹介したシュタイナー共同体のパン屋さんに行ってみたくて、ドイツ語を勉強。高校生の時に共同体へ。住み込みでパン屋の仕事をした。
井上さんが書いたドイツ文学の論文も読んでもらったという。2015年、先生から連絡があり、「シュタイナー学校が始まった時の冊子を作りたいから、一緒にやらない?」と誘われた。
当初は無認可だったため、公的な学校には通っていないとみなされた。井上さんは、そんなシュタイナー学校に複雑な思いがあった。関わった人の中に、様々な考えがあるのも知っていた。それでも、子安先生に誘われて嬉しかったし、なぜ学校ができることになったのか知りたいと思って引き受けた。
スカイプやメールで話し合いを重ね、52の手記を集めた。設立前から学校法人になった2004年ごろまでの歴史を網羅。予定よりずいぶん多い420ページになった。
「シューレ最初の入学式から30年にあたる4月18日に間に合わせるのが、先生の希望でした。先生の体調が思わしくなくて時間がかかりました。こうした作業で、命を縮めてしまったかもしれません。でも、とても楽しそうに校正していました」
なぜ、ここまで力を注いだのか。井上さんは「先生は『真摯な学者』なんだと思います。シュタイナー学校について調べる人が出てきたとき手段にしてほしいと、すべては載せられないけれど、資料の名前やヒントをいっぱい入れた。今、売れなくても、50年後に必要とする人がいると言っていました」。
子安先生は48年間、日記を書いていたという。わからない部分がある際には「先生、日記を見てください」と頼んだ。「先生はある時、東京シュタイナーシューレを離れました。そのことを、夏にドイツで会って聞いてみようと思っていました」
井上さんあての最後の手紙には「全力をつくしましたね」と書かれていた。
■ 心臓の模型で研究、最期は「人生に満足している」
7月10日、近しい人で営まれた葬儀に私も参列した。夫の宣邦さんは、最期の様子を語った。心臓の治療を始めてから昨年までは安定した時期を過ごし、心臓の模型を取り寄せて病状を知ろうとする。先生はいつものように「研究熱心」だったという。
最後の本に全力を注ぎ、昨年末には悪化したものの、この春には良くなった。「本の校正のために終日、机に向かうような日が何日かありました。いつもはそれを怒る私は、黙っていました。彼女はこれを『終活』と言っていました。覚悟の上の仕事でした」。本ができあがり、知人に手紙と献呈本を送る途中の6月10日、倒れて集中治療室に入った。
「しばらくしたら退院できる」と希望があった。私も時間をかけて取材の続きをお願いしたく、お便りを出そうと思っていたところ、永眠したと知った。
ほぼ3週間、酸素吸入器が外せず、辛そうだったという。「永眠する前日、本人の希望で(シュタイナーやエンデが関わる)キリスト者共同体の牧師を病室に招き、入会しました。エンデさんたちの仲間になりましたよと言われ、うなずくように見えました」と宣邦さん。
先生は苦しい息の中、メモ書きやささやきで、「自分の人生に満足している」「多くの人々の愛を受けてきた」と何度も伝えた。
■「まちづくりの会」に幕も、続いていく
子安先生が東京シュタイナーシューレを離れた後、情熱を傾けた千葉の「あしたの国」も、幕を下ろしていた。先生は千葉に通って子供たちにドイツ語を教え、地域の人と交流しながら学校の法人化を願った。7月5日、NPO法人「あしたの国まちづくりの会」に関わった保護者たちのフェイスブックにメッセージが投稿された。
『あしたの国を、最初から最後まで支え続けてくださった子安美知子先生がお亡くなりになりました。NPOが解散し、事務所、学園、こども園も引き払い、物質的に終わったところで、ということに、運命的なものを感じます』
『次の人生までの長い長い旅を始められたのですよね。次には、何を成し遂げるため生まれて来ようとされるのか...なんてことを想像しつつ、ご冥福をお祈りいたします』
先生がまいた種は、あちこちで根付き、続いていくと「あしたの国」の仲間も信じている。
■ 葬儀の日、娘は母のチケットでドイツへ
葬儀に、「ミュンヘンの小学生」だったフミさんの姿はなかった。生前、先生が7月10日のドイツ行きエアチケットを取っていて、代わりにフミさんが旅立ったという。
私が聞いた物語は、ミュンヘンに家族で留学したところで途中になっている。先生のウィットに富んだ言葉を、もっと聞きたかった。寂しいし、悔やまれる。
けれど葬儀で孫のナターシャさんと出会い、「ミュンヘンの小学生」後の子安家について、フミさんやナターシャさんに話を伺えたらという希望が出てきた。
会場には著書と写真が飾られた。その笑顔を見て、子安先生の魂は自由に飛び回っているんだろうと思った。
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「子安美知子を偲ぶ会」は7月30日、早稲田大・国際会議場井深大記念ホールで午後1時。詳細は宣邦さんのブログで。http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/71791396.html
なかのかおり ジャーナリスト Twitter @kaoritanuki