Fukushimaへの恩返し--ルワンダ大虐殺を生き延び、現在は原発避難民を支える一人の女性の物語(前半)

カンベンガ・マリールイズ氏は、ルワンダでの内戦中を振り返る。「何もない中でも、唯一残ったのが"教育"だったのです。」

ルワンダ大虐殺、東日本大震災、そして福島原発事故―。一つの人生で幾つもの「壮絶な」経験をしたにも関わらず、現在日本とルワンダを行き来し、ボランティア活動に携わる一人の女性がいる。

カンベンガ・マリールイズ氏(50)。NPO法人「ルワンダの教育を考える会」の理事長としてルワンダの教育問題に携わる傍ら、福島県内の仮設住宅にて、原発事故によって故郷を追われた人々を支えるボランティア活動に従事している。

彼女の「強さ」「優しさ」、そして「温かさ」はどこから来るのか。福島市を訪れ、話を聞いてきた。

※ルワンダ大虐殺...アフリカの大地で起きた、20世紀最大の悲劇。

カンベンガ・マリールイズ氏と取材を行った原。福島市内、「ルワンダの教育を考える会」事務所前にて撮影(写真:原貫太)。  

カンベンガ・マリールイズ氏

1965年10月、ルワンダ人の父親の赴任先であるコンゴ民主共和国に生まれる。

1985年7月、高校を卒業、同年9月技術高等学校に洋裁の教師として赴任。

1993年5月、青年海外協力隊カウンターパートナーとして福島文化学園にて洋裁の研修を受ける。

1994年2月、ルワンダへ帰国。同年4月7日からルワンダ内戦が勃発。同内戦では過激派フツ族民兵の手によって、100日間で80万人の少数派ツチ族と穏健派フツ族が虐殺された。マリールイズ氏は子ども3人を連れ、隣国のコンゴ民主共和国の難民キャンプに逃れる。難民キャンプで偶然出会ったアムダの日本人医師の通訳となる。1994年12月研修生時代の友人らの尽力で家族揃って再来日。

2000年10月、「ルワンダの教育を考える会」を立ち上げ、キガリ市内に学校を設立。命の尊さ、教育の大切さを訴える活動で全国を駆け回っている。現在も継続して教室の拡大、図書館や給食室も設置している。

2011年3月、在住する福島において東日本大震災で被災、原発事故を経験。以後、避難所で、後に仮設住宅でのボランティア活動も行っている。

2012年5月、日本国籍取得。

2014年8月、日本とルワンダとの相互理解の促進活動が認められ、外務大臣表彰を受ける。

マリールイズさんは1994年にルワンダで内戦を、2011年には日本で東日本大震災並びに福島原発事故を経験されているとお聞きしました。まずはルワンダでのご自身の経験を聞かせてください。

-私は1993年に日本で研修を受けて、研修期間が終わった94年の2月にルワンダに帰りました。94年の2月から4月まで普通に職場にいて、勿論内戦中だったのですが、「内戦を終わらせる為にはどうすればいいのか」と話し合いをしている最中だったので、当時は本当に希望に溢れたルワンダでした。

そんな「朝仕事に出かけて夕方帰ってくる」という普通の生活をしている中で、突然大統領の飛行機墜落という事件が起きました。その時、実際に何が起きているのかは(ルワンダ現地では)誰も分かりませんでした。私が日本に滞在していた時のホームステイ先から来た連絡で、何が起きているのかを知らされました。ルワンダにいながらもルワンダで何が起きているのか分からなくて、外国からの連絡で初めて知ったのです。

「大丈夫ですか」とすごく心配されて、その時は大丈夫だったけれど、日に日に状況が悪くなっていきました。映画で描かれているような事ではなくて、一瞬にして生活が一転してしまう。変わってしまう。もう家にも居られない状況で、無我夢中で、必死で、安全を求めて家を出ました。それから困難な毎日を送り、爆弾が飛び交う中、奇跡的に子供を1人も死なせることなく難民キャンプに辿り着きました。

ルワンダで見たこと...、

"死んだ町"とはどういうことかを、思い知らされる日々でした。

生活の全てが止まってしまい、未来への希望が持てず、今日一日を生きられるのかという不安を持って生活する毎日でした。でも幸いなことに、奇跡的に難民キャンプまで逃げ、家族揃って生き延びられたことが、何とも言えない奇跡的な人生でした。

虐殺の跡地に安置された犠牲者の遺骨。ルワンダ虐殺での死亡率は、第二次世界大戦中に起きたホロコースト(ユダヤ人虐殺)の3倍に匹敵するとも言われている(写真:原貫太)。

4月に内戦が始まり、コンゴ民主共和国の難民キャンプに逃れた後、その年の12月には日本に家族揃って来日されたとお聞きしました。来日に至るまで、困難などはあったのでしょうか。

-勿論ありました。生活がストップしているから、困難の連続でした。

(内戦が始まる)前は働いていましたし、家に住んでいました。しかし働くこともできなくなり、住むところもなくなりました。子供の病気と戦い、どうしたら良いのだろうと悩む毎日でした。そういう時に、私自身は本当に恵まれている人だなと思うのですが、見守ってくれている神様がいると強く思いました。

そんな何もない中でも、唯一残ったのが「教育」だったのです。学んだことを、勉強したことをどうやって活かしていこうかと考えて、難民キャンプでは手作りの揚げパンを作って売っていました。

内戦が始まった時に、すごく心配をしてくれて毎日のように電話をしてくれた(日本で研修していた時の)ホームステイ先に、生きていることを知らせる方法と、助けを求める方法がないかと思ったら、そこには「文字」がありました。日本で勉強したひらがなを使って、「生きています」ということを伝えるためFAXを送ろうと、FAX屋さんに並んでいました。その時に、アムダという震災や戦争時の医療現場に駆けつけてくれるNGOの日本人医師とたまたま出会いました。そこで日本語が分かることから、通訳の仕事を頂きました。

通訳の仕事をしていた時に、子供達が赤痢にかかりました。当時は生きるか死ぬかの瀬戸際だったけれど、そのお医者さん達と知り合っていたおかげで治してもらえました。それからもとにかく大変な毎日で、子供達の未来には何も見えていませんでした。

子供を何とかして助ける方法はないかと、ホームステイ先の皆さん含め、福島で出会った友達みんなに「助けてください」というお願いをして、みんなが助ける方法を考えてくれました。

でも、その時に厚い壁にぶつかってしまったのが、当時も今も変わらないと思うのですが、日本は難民の受け入れがとても困難だということでした。日本の友人達は本当に一生懸命調べてくれて、難民として来日できる可能性は低いけれど、留学生という形ならば受け入れてくれる可能性があるということがわかりました。

留学先の学校を探している時に、福島市内にある、桜の聖母学院短期大学の聴講生として受け入れて貰えることになったので、家族と一緒に日本に来ることになりました。

難民キャンプは困難の塊でした。何も無いところでは、周りの人間、特に子供達が毎日のように亡くなっていくので、いつ自分の子供が死んでしまうのだろうかと不安でした。朝起きると夜が来るのが怖いような生活を送っている中で、留学生という形で日本に行くことができるという知らせを聞いて、とても幸せな気持ちを味わったのを覚えています。

インタビュー中の様子(写真:原貫太)

先ほども自分は恵まれていると仰っていましたが、難民キャンプから出られたマリールイズさんとその家族がいる一方で、そこに居続けなければならなかった人たちも多くいたと思います。そういう人達を見て葛藤などはありましたか。

-もちろんです。兄弟を置いて行くんですよ。

家族の中で私一人(難民キャンプから)出ることになったけれど、他のみんなは残っているわけです。その残っている家族みんなが生き延びてくれる保証はないし、その状況を自分で見ているから、恐ろしい状況の中に身内を置いて行かなければならない自分は、戦争に怒りを覚えました。

「自分だけ助かっていいのか」ということよりも、「まずは自分の子供達を何とかして助けなければならない」という気持ちが大きかった。もちろん葛藤はあったけれど、どうしようもできないことなので、子供達の安全な場所しか求めていなかった。自分のことよりも、3人の子供達のことが最優先でした。それの他に何もなかったですね。まず子供達が安全な場所にいてくれることが、私にとっての毎日の願いでした。

虐待の跡地に安置された犠牲者の衣服。虐殺を主導したフツ族過激派は、ツチ族を「根絶」するために女性や子供を狙った。生後間もない赤ちゃんも虐殺された(写真:原貫太)。

一人の力では何もできないという状況だったからこそ、何を最優先にするかということがすごく求められていたのだなと感じます。

その後来日して、2000年10月には現在理事長を務められている「ルワンダの教育を考える会」を立ち上げたとお聞きしました。活動の理念や具体的な取り組みについて聞かせてください。

-難民キャンプで生活してみて、何を一番すぐにやるべきかを考えた時に、毎日成長を続ける子供達のことが頭に浮かびました。成長の止まっていない子供達が、もしも私たちが暮らしてきた、内戦の原因になった生活をこれからも続けていったら、この子達が大きくなった時にまた内戦を繰り返すだろうと考えました。

「生きる事が第一」という状況の中で教育だなんて、と感じることもあったけれど、もしこの若い世代に何もしなかったら、子供達も私たちと同じ体験をしてしまうだろうと思い、微力ながらも学校を作りたいと思うようになりました。

教育に力を入れようと思ったのは、教育こそが、家も何もかも失ってしまった私が復活したきっかけになったからです。命があり、次に頼れたものは、頭の中に入っていたものでした。

「どれだけの教育を受けてきたか」ということを資格で示してと言われてもできません。何もないです。卒業証書などの、この人はここまで勉強しましたと証明するものは何もないです。でも、私の頭の中にあるものは、知っているか知らないかで判断することができます。知っていること、学んだことは自分にとって、とても大切な財産だと思いました。ルワンダで起きたような内戦を止めるには、教育しかないと思いました。戦争や争いの連鎖を断ち切るには、絶対に教育しかない。

一人でも二人でも、私たちが活動する中で教育を受けられる人が増えれば、国も安定する可能性に繋がるだろうと。教育を通し、成長していく子供達に託せるものがあると考えました。また、教室はお互いを認め合い、一緒に良くしていく方法を考えていくことのできる場所だと思ったので、私が体験した内戦を次の世代に残さない為には教育が一番だと考え、NPO法人「ルワンダの教育を考える会」の活動を通して、ルワンダに学校を作る活動を始めたのです。

ルワンダの子ども達(写真:原貫太)

ルワンダの教育を考える会を通して、教育の大切さを強く訴える元にはやはりご自身の内戦での経験があるということですか。

-そうです。もちろん、内戦のことも大きいです。

しかし、なぜその内戦に踏み切ったのかと考えた時には、振り返ってみると、教育が足りていなかったことも大きな原因になっていたと思いました。それは、私たちみんながみんな、平等に学校に通えていたわけではなかったからです。学校に通えない子供達が、通えている子供達に対して、何とも言えない気持ちを持っていました。私も、自分が学校に通えているからといって、毎日に満足しているわけではなかった。

活動の一番の根幹を担っているのは、私が小学校一年生の時の忘れられない出来事です。学校で友達とみんなで楽しく読み書きの勉強を始めて、一ヶ月が過ぎた時に、教室に入ってきた先生が生徒の名前を読み上げ始めました。読み上げられた人は立たされて、「荷物をまとめて帰ってください。」と言われたのです。

これは、子供ながらに学費が払えないからだと気が付きました。学費が払えるまで教室には入ってはならないということが、子供ながら悔しくて、悲しくて。教室に残る方だった私は、泣いて帰る友達を見ていました。そして、「大人になったらみんなが追い出されない学校を作る」というのが、子供ながらに夢になったのです。まさかその夢を叶えられるとは思いもしていなかったけれど、ルワンダの内戦が起きた時に、「私が考えていたのはこれだな」と感じました。

少なくとも、教育を受ければ人生が変わる。ルワンダでは教育を受けた人と受けてない人の生活レベルが全く違う。教育を受けていれば仕事に就き、働いて収入を得られるから生活が変わっていく。教育を受けられない人は、どんどん生活が悪くなっていく。教育を受けられるか受けられないかで、はっきりと生活が分かれてしまう。根本には内戦があったけれど、教師になった自分を振り返ってみると、「次の世代に、みんな同じ教育を受けさせないと大変なことになる。」ということを思いながら生活していました。

つまり、小学校一年生の頃の体験が教育に対する原体験になったわけですか。

-そうです。内戦が、「もう待っている暇はない。すぐにやらなければいけない。」と踏み込ませてくれたのかなとは思います。

小学生の頃の体験があって芽生えた教育に対する想いが、内戦を通して確信に変わったということですね。

-そうですね。

仮設住宅で活動するマリールイズ氏(写真:原貫太)

「Fukushimaへの恩返し--ルワンダ大虐殺を生き延び、現在は原発避難民を支える一人の女性の物語(後半)」へ続く

(聞き手:早稲田大学4年 原貫太)

記事執筆者:原貫太

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