素人がイチから建ててしまった「沢マン」(詳細は連載(上)花咲き乱れる脱法建築を参照)。花々が咲き乱れ、若きアーティストたちが住まうこの物件から当初感じたのは、底抜けの明るさだった。だが、数日間宿泊し、住人らと語り合ううちに、このマンションの意外な一面にも気づくことになる――。
(取材・文・写真/富谷瑠美)
■雨にもマケズ、ムカデにもマケズ...
2年ほど前に引っ越してきた和田良太さん(37)が布団の上のカサカサ......という音に気付いて、仰天したのは一度や二度ではない。
「20cmはあろうかというムカデ。1階に住んでいた時は、ひと夏で10匹以上出ました」
もっとも、「子供ができたので2階に引っ越したら出なくなりました。ここに住んだら他には住めません」と全く気にはしていない様子だ。
こうした、沢マンならではの「武勇伝」は枚挙にいとまがない。雨漏りで家電が全部壊れた。数週間ぶりに出張から戻り、部屋のドアを開けたら(青カビで)一面ナウシカの「腐海」状態に――。「キノコ、なくなりましたわ」「おれんち、まだ生えちゅう」。スロープで立ち話をしていた住人達からは、そんなほほえましい会話も漏れ聞こえてくる。潔癖症の人が聞いたら、どれも絶叫しそうな話だ。
地震も気になるところだ。南海トラフ地震が発生した場合、高知市の震度は6から7と予想されている(「高知県版第2弾・南海トラフ巨大地震による震度分布・津波浸水予測の概要」より)。「脱法建築」の沢マンは、耐震基準を満たしているかどうかも当然確認がされていない。
地震が気にならないか聞いてみたものの、住民らは「沢マンは揺れない」と口をそろえる。今年3月14日に発生した、伊予灘を震源とするマグニチュード6.1の地震では、高知県の最大震度は5。しかし沢マンでは、携帯の緊急地震速報は一斉に鳴り響いたものの「全く揺れなかった」(和田さん)という。
フェイスブックページの開設や住民による無料ツアーなど、沢マンはファンの獲得に積極的だ。「沢田マンション」のフェイスブックページには、現在4000弱の「いいね」が集まっている。連休には、岡本さんら住人で手分けして1日50組の見学者を案内したこともある。
知名度が高まった分、マナーを守らない見学者も訪れるようになった。リフトに勝手に乗り、壊したまま逃げる。許可なく住民の写真を撮る。とある雑誌に許可なく取材され、よりによって「廃墟特集」に掲載されたこともあるという。だが、沢マンがファンを増やす努力を続けているのは、単に知名度を上げるためだけではない。
■取り壊されないために、ファンを作る
建築確認申請を出していないなど、沢マンが法を超越していることは周知の事実。管轄する高知市とて手をこまぬいていた訳ではない。建設開始から数えて40年以上、「正確に把握しきれないほど訪問や文書で是正指導をしてきちゅう」と建築指導課の係長、北岡卓夫さんが明かす。「やけど、住人を強制的に追い出す訳にもいかんですし、かといって地震で倒壊でもしようもんなら近隣にまでも迷惑がかかるし......」。4月に異動してきたばかりの北岡さんは頭を抱えんばかりだ。
今でこそ市は弱気だが、十数年ほど前までは、「強制撤去」の立て看板がマンション前に建つことも珍しくなかったという。
沢田マンションのホームページを作成する、テレビ取材を積極的に受けるなどして知名度を高める行動を始めたのは、当時27号と呼ばれていた30代前半の男性だった。
「ファンを増やしたら、市に取り壊されそうになっても反対運動を起こせるかもしれない」。27号氏にはそんな思いがあったようだと、岡本さんは語る。
■高齢者の終の棲家に
アヴァンギャルドな面ばかりが注目されがちな沢マンだが、別の一面も持っている。大家の裕江さんは「入居者の年齢までは把握していない」が、岡本さんらによればおよそ8割は高齢者。中には身寄りのないお年寄りや、生活保護の受給者もいる。
「ここはみんなの夢と希望やき」。通常の賃貸物件には入居が難しい人々も、裕江さんは断らず、受け入れる。
ある入居者は「福祉関係者が、物件を借りられないお年寄りに『沢マンはどうですか』と薦めることがあるらしい」と話してくれた。もっとも、高知市の福祉管理課は「特定の物件を薦めることは斡旋に当たるため、一切やっていない」と否定している。
実際に沢マンを終の棲家に選んだ人もいる。住人達から「おんちゃん(おじさん)」と呼ばれ慕われていた70~80代の男性がいた。ずっと沢マンで一人暮らし。認知症が進み、施設入りを勧められても「ここがええ」と言い張るおんちゃんの元に、裕江さんは弁当を作って運んだ。「息、しちょるか」「お腹が動いてるから大丈夫や」。いよいよ、という時には住民が交代で見守りに通った。ある日、眠るように亡くなっているおんちゃんを発見したのも、様子を見に行った住人だったという。
■ちっくと遠いけんど
「気ぃは短かった。ちょうど年が多感な盛りに兵隊に行って、上官の訓練を受けて帰っちょるから。ただ、情けというか、情というのはすごくあったよ。私が風邪ひいて寝たりすると、一緒にご飯も食べずに看病するくらい。そういう人やったね」。
屋上で獲れたにんにくの葉を切りながら、裕江さんは嘉農さんについて話してくれた。2003年に嘉農さんが亡くなってから、11年が経つ。
晴れた日の夕暮れ。縁側に座った裕江さんと筆者の間を、サバトラ模様の猫「クロ」が行ったり来たり。時折裕江さんを見上げてニャーと鳴く。焼きもちを焼いたのか、クロは縁側のふちに前足をかけ、勢いをつけて裕江さんの胸の上に飛び乗った。クロを胸の上に乗せたまま、裕江さんの話は続く。
建設当時、沢マンは田んぼの中にぽつんと建っていた。沢マンからは高知港の船が見えた。港はやがて見えなくなり、今は目の前の道路沿いに商業施設が立ち並ぶ。スターバックス、スーパー、ツタヤ、回転寿司にコンビニ――。便利といえば便利になった。
裕江さんが嘉農さんの思い出をぽつり。
「度胸もあったね。今の子には言うてもわからんけど、行政の方なんかが来ても堂々と立ち向かいよった」
裕江さんは1946年生まれで、嘉農さんとは19歳の年齢差があった。実は嘉農さんと裕江さんが結婚したのは、裕江さんが13歳だった時のこと。もともと裕江さん一家は、沢マンの前に嘉農さんが建てた別のアパートに入居していた。しかし裕江さんの父が入院すると、一家は経済的に困窮。裕江さんの母は裕江さんを置いて、実家に戻ってしまった。置き去りにされた裕江さんを引き取る形で始まった結婚生活だったが、警察沙汰になったこともあったという。
お盆とお正月は嫁として、それ以外は大家兼マンションの建築屋として働き続けてきた裕江さん。「青春なんてなかった。ないものと諦めちょった」。だが「家づくりは苦しいと思ったことはない。好きじゃったからね」
沢マンは、実は完成していない。増築を繰り返してきた沢マンが現在の規模になったのは、1985年ごろ。しかし嘉農さんが最終的に目指していたのは10階建て、100室のマンションだった。完成後の設計図については一から作成し直し、高知市に裕江さん名義で建築確認申請書を提出。1996年7月3日に確認済証の交付を受けた。だがこの設計図は現在の沢マンと一致していないため、法律上はあくまで別の建築物扱い。全面完成後に初めて合法建築物となるはずだったのだが、志半ばで嘉農さんが倒れた。嘉農さんは亡くなる4日ほど前まで、屋上に建てた柱のことを気にかけていたという。建ち並ぶ5本の白い柱は、7階部分の土台となるはずだった。
嘉農さんが亡くなってから一度だけ、建築指導課が訪ねてきたという。用件は言うまでもない。
「(現況の)設計図はお父さんの頭の中にしかおらんもの。あちらに聞いてください、って言うたんよ。ちっくと遠いですけども、って」。
裕江さんの視線の先には、高知の青い空が広がっていた。
【筆者プロフィール】
1983年埼玉県生まれ。外資系コンサルティング会社で全国紙のコンサルティング、日本経済新聞社 電子報道部で日経電子版テクノロジーセクションの記者を経て2014年よりフリー。
(この記事はジャーナリストキャンプ2014高知の作品です。デスク:依光隆明)