このあいだ、近所の大通りを電動アシスト自転車に股がって颯爽と巡回する男性警官を見た。電動アシスト自転車を駆るポリスマンである。これにはどうも釈然としなかった。恐らく電動アシストがいけないのだと思う。これをテクノロジーの導入と、好意的にとることはできるかもしれないが、あの電動アシスト自転車と「テクノロジーの導入」という言葉はどうにも結びつかず、ぼくにはあれは単なる怠惰に思えた。機械に頼るなよ、と。警察官が普通の自転車に乗っていて、上り坂で電動アシスト自転車を漕いで逃げる犯人を取り逃がしたら大変だ、という向きはあるかもしれない。でも、警察官だったら上り坂であっても、普通の自転車で電動アシスト自転車を差し切る脚力と気概が欲しいものである。人はこういう考え方をアナクロと呼ぶのかもしれないけれど、そういう思考的な遊びがないと、世の中気詰まりになってくる。電動アシスト自転車を駆るポリスマンとは、一種の味気なさである。
ようやく、というか、とうとう、というか、待ちに待った、というか、まあ、とにかくワールドカップが開幕した。この大会から導入される新機軸として大会前から話題に上がっていたのが、ゴールラインテクノロジーとバニシングスプレー。このうち、ゴールラインテクノロジーの方は紛れも無い「テクノロジーの導入」だと、ぼくは思う。これでゴールというフットボールの根幹にかかわる部分の誤審が減じるのであれば、それはファンとして歓迎すべきことだ。開幕戦ではゴールネットが揺れている際どくも何ともないクロアチアの先制点の折に、このゴールラインテクノロジーによる判定リプレイが流されたのには笑ったが、まあこれはご愛嬌として、システム自体は正常に機能しているようなので何よりである。
問題はバニシングスプレーこと、消えるスプレーの方である。何年か前のコパアメリカで初めて見たときからぼくは苦言を呈してきたのだか、今回改めてあのスプレー線を見てみると、やっぱりどうにも味気ない。ぼくはあの消えるスプレーに電動アシスト自転車を駆るポリスマンと同種の味気なさを覚える。程なくして消える、というところに技術革新があるのかもしれないが、あれは、テクノロジーの導入という地平で成り立っている代物ではないと思う。理屈は分かるのである。ああして線引きをすれば壁の位置は明確になり、ディフェンス側はズルをすることができず、フリーキックからの得点機会は増加する可能性が高くなるだろう。
多分、この新機軸を歓迎するファンも大勢いる筈で、それに対し苦言を唱える方がよっぽど不条理な話だ。しかし、ぼくはあのスプレー線の導入により、競技がより杓子定規になり、人間が本来的に抱え込んでいるセコさがゲームのなかで顔を覗かせる機会が減ってしまうことが惜しいと思う。こっちは、壁とレフェリーとキッカーが「ズル」を巡って繰り広げるほんのひと時の攻防を含め、フットボールを楽しみたいのである。人は時にセコく、時にズルく生きる。そんな人間の矮小さをも抱擁するところにフットボールの魅力がある。ちょっと大袈裟な物言いかもしれないけれど、バニシングスプレーの導入は人性の否定でさえあると、ぼくは思う。
ただ、用途を間違えなければ、あの消えるスプレー自体は日常生活でも結構役立ちそうなアイテムである。例えば、夫婦喧嘩の仲裁なんていうシチュエーションで大きな効力を発揮しそうだ。シューッとおもむろに線を引く仲裁係。ニスの塗られたフローリングの床に白線がよく映える。仲裁係は言う。「旦那さんはその線の後ろに下がって。そうそう、そのままそこで待ってて。奥さん、奥さんはそのパン切り包丁をこっちに渡して。たかがパン切り包丁、されどパン切り包丁。それ、立派な凶器ですから」エキサイトして思わずパン切り包丁を手にした奥さんだったが、引かれた白線のどうしようもない味気なさに痴話喧嘩が多少馬鹿馬鹿しくなり、そっと仲裁係の人にパン切り包丁を渡すことだろう。
平床 大輔
1976年生まれ。東京都出身。雑文家。1990年代の多くを「サッカー不毛の地」アメリカで過ごすも、1994年のアメリカW杯でサッカーと邂逅。以降、徹頭徹尾、視聴者・観戦者の立場を貫いてきたが、2008年ペン(キーボード)をとる。現在はJ SPORTSにプレミアリーグ関連のコラムを寄稿。
(2014年6月13日「プレミアリーグコラム」より転載)